そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

自分は表現である。

表現を作ることで自分が救われる人がいる。僕もそうだ。でも、なんでそうなのかはいまいち判然としない。ちょっと考えてみよう。smashing pumpkinsの「today」は出だしが「今日は最高の日、明日のことなんて信じられない」である。意を汲むと「明日に意味を見出だせないから死にたい」になる。実際作詞のビリー・コーガンは鬱々としていたらしい。だが、世間は今を肯定する曲だと捕らえた。僕もそう思ったろう。異様なパワーと美しさを持っているからだ。面白いのは、結果的にコーガンはこの曲を作ったらなぜか救われたことだ。

 もうひとつ見てみよう。懐疑主義者だ。懐疑主義とは、なんでも疑うスタンスである。究極的には、「今見ている現実は嘘かもしれない」まで行き着く。非常に絶望的な考えとも言えるが、懐疑主義者の中にははこのように「懐疑」していくことで救われるものもいるのだ。

救われるときは、一般的にはネガティブな表現の方が多い気もする。ハッピーなものでは却って効果がないようだ。この辺りは、悲しいときに明るい音楽を聴くより暗い音楽を聴く方が悲しみが薄れることと関係あるのかもしれない。いずれにせよ、自らの悲観を描くこと、もしくは誰かの悲観を体験することは対象化されるから悲しみから救われるのだろうか。なにか違う気もする。表現とは、操作である。伝えることのできない自分の気持ちを、表現のシステム(音色、色彩、構図、文体といった表現各々の持つ特性、性質)を通すと、なぜか鑑賞者は言葉によって気持ちを説明よりも遥かに気持ちが「分かる」。ただ、分かるのは勘違いではある。表現によって作者の考えが鑑賞者にダイレクトに伝わるはずがない。表現のシステムは複雑過ぎるし、理論化が進んだとはいえ解明できているとは全く言えない。伝わるはずはないのだ。だが感じるのだ。そこに理屈はない。そして、自分にとって素晴らしい表現は神の啓示と等しい力を持つ。表現から作者の考えは読み取れないのに。それはなぜ? 恐らくは、違う形で作者が「露出」しているのではないだろうか。表現を通して作者の考えはねじ曲がる。同時に、作者にも創作とは制御不能だ。そこから「なにか」を作者自身も読み取る。創作行為とは、自分の「なにか」と向き合いながらひたすら自己とやりとりしてくのだ。そのときの作業は言語を(文章創作であっても)超えている。意識的な思考の範疇を超え、表現のヴェール越しにいる自分を見続けるのだ。

 しかし、「today」の美しさはほんとに信じがたい。コーガンはなぜ救われたのか。それは、表現と自分がどこかで近しいのだと思う。コーガンの場合音楽に、つまりはメロディやリズムなどの音楽的要素を考えることが、自分を考えることにつながっている。この場合の自分を考えるとは、先ほど言ったように非言語的な思考だ。だから傑作とは無意味で、非言語的な体験をさせてくれる。表現の快楽とは言葉のない世界につれていってくれる「最高の旅」に他ならない。ほんの一時、言語という当たり前過ぎて感じることすらない、つまらない現実認識を取っ払った「ときめき」に出会える体験装置。言語や社会の決めごとから放たれた、無垢な草原のような領域。そこでしか出会えない自分がいるのであり、他人もいたりして、少しずつ自分の「どうしようもなさ」を解消していく。

よく分からない自ら。人によって様々な言い方があるだろう。不幸、不満足、拘束、なにかが足りない、悲しみ、漠然とした不安、下らない世の中、最高の人生……打ち消す方法も様々だろう。救い、依存、嫉妬、創作、破壊行為、自傷、自己拘束、神経症による疾病利得、泣くこと、すがること、死に絶えること……

表現は、僕たちの無意識を代弁する。衝動を言い表す。なぜそうなのだろう。それは、「美しい」からなのだ。あの激しさ、優しさ、愛しさが美しい。克明に引かれた線と色が、言葉からこぼれ落ちる言葉の思いが、常世から遠く離れた打鍵からなる響きが、美しくてたまらない。そこに思いはない。だが、あの美しさに「宿っていないはずがない」。だから、傑作とは生の力なのだ。ジャン・コクトーは「傑作とは、死に打ち克つことである」と言った。正しい。どれほど暗澹とした作品だろうと、傑作は僕たちを生きさせる。あの「美しさ」を前にして、死のうと思う訳がないから。素晴らしい表現は、いつでも味方であり続けるのだから。

 

終わり。そろそろ長い文章かかないとなー。

「今が最高」だよね!?

 前に書いたが、人生はなにをしても続く。偉業を成し遂げても、「偉業のその後」がある。「伝説のその後」がある。

 この事実にひたむきに向き合ったのが劇場版ラブライブ!じゃないかと思った。スクールアイドルという輝かしい時代が終わる。でも人生は続いていくのだ。そのことに言い知れぬ不安を覚えるμ's。しかし、結論として彼女たちはプロのアイドルになることもせず、すっぱりと辞める。なぜなら、彼女たちは「飛べる」からだ。スクールアイドルという地盤がなくなったら、また違うところへ行こう。その精神を彼女たちは持っているから。劇場版の凄いところは、謎の女シンガーを登場させたことだ。穂乃果と似たような過去を持ち、今はメンバーと離れ離れになった上でも楽しく生きる彼女。穂乃果はそんな彼女にどうすればいいのか問う。彼女は「飛べるよ」と返す。そう、スクールアイドルは今の穂乃果にとって全てだが、期限切れはやってくる。ゆえに、今の全てでも人生の全てではなありえないのだ。だから穂乃果、ひいてはμ'sは飛ばなければならない。スクールアイドルは終わっても人生は終わらないから、果てなき人生を進み続けるしかない。直にまた期限切れになるかもしれない。それでも飛ぶのだ。プロのアイドルを拒絶するのは、スクールアイドルの残りかすを追うのは「飛んでは」いないからだ。本当にスクールアイドルが好きだから、「今が最高」だからこそ、「その下」に行ってはいけない。スクールアイドルが終わろうが、メンバーと関わりがなくなろうが「今を最高」にさせ続けることが「飛ぶ」ということなのだから。

 スクールアイドルである「今が最高」なのは間違いない。そういう意味では、瞬間を賛美するアニメでもある。だが、スクールアイドルに期限切れはあっても、人生に期限切れなどないのだ。死んだ瞬間だけが「期限切れ」なのだから。人生の終わり際まで「今を最高」にしていけるから、スクールアイドルをやめられる。劇場版ラブライブは、今と今後全てを肯定する、非常に包容力の強いアニメである。だから素晴らしい。アイドルという有限な存在に対して、完璧な答えを出している。ラストの台詞(というか歌詞)は「今が最高」である。この台詞が単に今だけを賛美しているわけではないのは説明した通りだ。だからその後を描く必要などないし、やはりライブシーンで終わるのがベストなのだ。「今はスクールアイドル」である以上は。そして、彼女らはスクールアイドルでなくてもスクールアイドルのような輝きを保ち続けるのだから。

僕たちの人生にも期限はある。例えば学生。いつかは終わるものだ。所属や肩書きでなくとも、肉体は衰え、脳は劣化し、容姿は老化の一途を辿る。期限が迫るにつれて色々ダメにはなる。それでも人生は続く。だから飛ばないといけない。何が終わろうが、衰えようが「今を最高」にすることはできるのだ。過去を羨むときとは、昔が良かったのではなく今が駄目なだけだ。人生は常に肯定され続ける。素晴らしい今も今後も、「可能」なのだと人生は肯定する。だから責任逃れはできない。肯定されている以上、駄目であるなら自分自身にしか原因はない。懸命に生き続けること。現状と向かい合うこと。正しさを判別すること。「ライブ」とは、常にそのような意味を持ち続けるのだ。

 

終わり! 矢沢にことなんだかんだ穂乃果が俺は好きかな……

 

 

夢という夢が虚しく消えていく、そしてメジャーリーグが勃興する

今回はブラック企業にいる大学の友達に向けて書いた。最終的に誰に向けて書いてるのか分からなくなったが、まあ良い。じゃあ行こう。

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無思考のための思考。非理性のための理性。空前と広がる、霞ばかりの砂原と内的世界。


われわれは、現実のために如何なる手段が取れるだろう? 自己を社会という「鋳型」にフィットさせるために、どのように変型させていけばよいのか? 悪質な企業は、非常に厳密に「鋳型」に合わせられた人間を作成する。決められた形状から寸分も離れることは許されていない。歪は、破滅的なものであると解釈され、人間は溶解され液状化し、鋳型どおりに固められる。身を溶かす熱に耐えられない場合、早々に逃走する。溶解は、企業にとっての「ふるい」である。落とされることは一つの結果に過ぎず、想定外ではない。溶かされたものはある程度の耐熱性、順応性を備えているが、同時に意志亡き者である。彼らは思うがままに作り変えられ、企業によって設計された「美しい造形物」と化す。少しの歪みのない、滑らかなオブジェへと。しかし、何一つ面白みはない。あるのは極端な順応性と完璧なフォルムだけである。ゆえに、神が創ったにしてはあまりに不自然で退屈な無機物なのだ。
 さて、ここまで二つのタイプが提示された。もう一つある。溶解の灼熱に耐えた上で、「鋳型」にはまることは拒否できないタイプだ。これは非情な矛盾に満ちている。忍耐力があるが、同時に意志を殺すことも不可能だったのだ。そのため、留まることはできるが常に苦痛を味わう。溶解されたまま、液状化したままでいるのだ。肉体がとかされ、企業に従属する作業員が「鋳型」にはめこもおうとしても、「鋳型」によって完成される自分を受け入れられないのだ。彼は液体のまま彷徨う。固体として確固とした姿形を持つことも許されず、溶かされたまま…… 
 だから、彼が行うのは「無思考のための思考」なのだ。「美しい造形物」のような無思考にはなれない。逃げるほど弱くもない。なら「考えないように考える」しかない。当然ながら、矛盾である。考えを止めた瞬間考え始めている。考え始めた自分に気づき考えを止める。その瞬間考えが始まっている。照明のスイッチを無限にオンオフし続けているかのような光景が展開される。思考が無思考を飲み込み、無思考の思考が思考を瞬間的に切断する。だが、刹那であっても思考を停止させなければならない。まるで、コンピューターゲームの最中に突然コンセントを抜くことでデータを保存させないように。そこではプレイするのもコンセントも抜くのも自分である。思考によって得られた財産を、自分自身で捨てるのだ。それは効果的ではある。だが、空虚だ。生産し、放棄し、何も残らない。固体として存在することもできない、液状化された意識がズルズルと徘徊する。
 空虚はどうやったら消えるのか? いくつか考えられるだろう。まず徹底した依存だ。なにかに寄りかかり続けることで、形を保ち、空虚で「ないように」見せる。問題は、依存対象によって社会的、経済的に破滅する可能性と、大抵依存先を次々と変え続け、比例して心が壊れていくことだろう。次に逃げるのも考えられる。やめてしまえば手っ取り早い。もちろん相応のリスクはある。が、低リスクなやり方でもある。少なくとも崩壊は免れるからだ。他には結果的に洗脳されるのもある。単なる無機物に成り下がるので、空虚ではなくなる。だが、完全に無機物になるのは人間の脳機能的に不可能なのも事実だろうから、常に崩壊のリスクは潜む。
 これらに最適解などもちろんない。僕たちは、なぜこうも苦境にいるのだろうか? 行動してしまえば、全ては終わる。だがどう行動すれば正解なのだろうか? 手持ちの情報があまりにも少なすぎるのだ。唯一つ分かるのは、今歩いている方位に歩くことが一番楽なことだ。自分の見えている世界ならやり方は分かる。例えそれが辛かろうと何だろうと、やりやすいのだ。一般論とは裏腹に、可能性というものを人間は欲しがらない。未知は膨大な可能性を提供すると同時に巨大なリスクももたらす。そして、人は可能性よりもリスクを怖がる生き物である。それは社会の中ではより顕著になる。自分の行動で社会まで影響が及ぶのだから。個人的にはリスクを恐れず可能性をとれ、とも思えない。そういう生き方が良いと説く人は成功した人で多いが、つまるところ彼らは「可能性マニア、もしくは中毒」であるからそう思うだけだ(僕もその節はあるが)。人生は、他人の言葉を鵜呑みにする場所ではない。だからこの文章も信じなくて一向に構わない。だが、読んだあなたにこの文章はなんらかの影響をもたらすのも事実である(表現とは『挑発』なのだ)。人間は経験から有無を言ぅこともできぬまま影響を「もらう」。だが、もらった影響に対して咀嚼することは可能だ。そして、本当にピッタリくる影響もない。どれだけ共感しても、本当にそのままそっくり自分の意見なはずがない。だから行動することにおいて、人生には所詮自分しかいない。誰がなにを言おうとやろうと、参考程度にしかならないのであり、自分がしたこととはどうであっても「私が考えてやりました」となってしまうのだから。自分が自分を考えるのは、だから途方もない。どんな周りの意見もしっくり来ない。自分を考えるのは「最初であり最後」なのだ。だからといって無思考になるのも否定するわけでもないし、鵜呑みにするのも悪いとは言わない。自分で選んではいるのだし。ただ、やはり空虚なのだ。自分がそこにないから、おかしな空白を抱えてしまうことになる。ただそうは言っても、人間などどうしても空虚だし、くだらない。主観的に見ればそれはどうしようもないことでもある。だから唯一つだけ、僕は僕が考えることとして、他の誰でもなく「自らの空虚」と向き合うことを選んだのだし、それが一番面白いとも思えたのだ。

 

終わり。まあ僕は「空虚マニア」なんだと思うよ。

ジョイ・ディビジョン「クローサー」と「貧しさ」

今回は珍しく個別に作品を取り上げよう。説明不要の名作、ジョイ・ディビジョンの「クローサー」についてだ。

 なんて極限的な世界だ。乾いたビートに、インダストリアルなギター、無表情なベース、あのイアン・カーティス。個々の音の鳴らしを徹底的に追求して、極北に立っている。そして、恐らく「クローサー」はロックの「ロック性」を利用している。ちょっと付き合ってもらいたい。

 表現には時間と空間の要素がある。小説は文章量と時間の厚みが作中の経過時間に関わらず比例するものであり、フォークナーの「八月の光」には空間的な要素も見られる。絵画は平面上の配置の問題があり、それなりのサイズまでなら全部観るのに時間を要しないため空間的だ。交響曲プログレッシブロックのアルバムは物語的であり展開もそれに応じたドラマチックなものとなるため時間的だ。音楽は観賞時間が固定されているためそもそもが時間的なのだが。オーケストラは立体的な音の響きを重視するため空間的になる。コンサートは空間的な要素が根本から強まる。

それに対し、ロックは空間的にも時間的にも弱い。構成がシンプルすぎて時間的な厚みはないし、アンサンブルが素直すぎて立体感もでない(ポストロックを反証にあげるかもしれないが、あれはロックというよりエレクトロと現代音楽とジャズあたりのミックスだろう。)。ロックとは「貧しい」音楽なのだ。大作を作れる理論もなければ、バンドサウンドは空間に立体的な響きをのせられるほど豊潤でもない。

クローサー」の持つ退廃的な感覚には、この「貧しさ」がリンクしている。シンプルな分空しく、響かない分閉塞的に。ロックの持つ行き場のない「貧しさ」の中でとるべき方法は一つ、個性だ。ジョイ・ディビジョンにとっての個性は音の鳴らし、つまりは音色である。「鬱屈とした音作りを、鬱屈とした音作りを、鬱屈とした音作りを」ただそれだけを念頭において「鳴らし」にこだわる。こういったサウンドはロックしかできない。なぜなら他のジャンルは「豊か」だからだ。なにもない中でただ音色だけが妖しく輝くのがロックの世界だ。いや、そこには時間も空間も存在しないから世界にもならない。ただの虚ろ。それこそがロックであり、利用したのがジョイ・ディビジョンという「貧者」なのだ。しかし、イアン・カーティスの圧倒的な「語り」はなんだろう? 訳も分からないまま、情動だけは激しく揺さぶられる。空虚はそこに精神的な要素を感じさせるのだ。情動の原因はイアン・カーティスの精神だと感じさせる。しかし、そこにあるのはただの声であり、空気の振動だ。声の「感じ」、それがロックのすごさであり、「クローサー」の本質である。鬱屈した音作りを各パートがつきつめ、イアンが「なにがしか」を「発する」。なにもありはしないのに。

 

終わり。本当にすごいアルバムだ。音楽の可能性の一端であり、一つの可能性を終わらせた作品でもある。

この作品はイアンの遺作である。みんなも自殺しよう!

感動することに感動した

3人で友達の家にいて彼らは互いにしか分からない話をしてるからブログを書こう。

 実家に帰ってきた。3週間ぶりだから久しぶりもくそもない感じたが、新鮮ではある。ちなみに家に帰ってすぐにしたことは自転車に乗ったことだ。東京には自転車がないからどうしても乗りたかった。しかし、あまりに感動的だった。なんであんなに感動したんだろうか。山形の空気か、自転車から伝わる運動の感触なのか、7時前の朝焼けの差し込み方か、そのとき聴いていたbeckの「blue moon」が素晴らしかったからか。どれもしっくり来ない。もしくはその全てか。わかるのは、どこか言語を突破していることか。言葉を越える瞬間は、誰しも感じるときがあるだろう。この瞬間はなんなのだろうか? 情動に言語的原因はなくとも、自分自身では解釈し続ける。「それっぽい」理由を仕立てあげる。意味がある世界しか、人間には生きることはできないから。でも、たまに越えられる。自分が必死に作り上げた「意味で埋め尽くされた世界」を、突き崩される瞬間がある。僕たちは、その瞬間こそを追い求めるのだ。言語によって構築された、記号と解釈の繰り返し世界。そこを突破したいと「願う」のだ。だからこそ、表現を作り、観賞し、恋愛し、視線と言葉を交わし、美しい「光景」をみたがる。なんの意味もないものによって、完璧ゆえに退屈な世界に間隙をいれたい(厨2病か?)のだ。だから、意志をなくしてはいけない。人は動き続けなければ容易に「完璧なまま」でいる。僕は、究極的に「退屈」が嫌いだ。だからなんとかしたい。

「退屈」に耐えられない性質はかなり生きにくい。いい意味で貪欲とも言えるが、他人からの目線にすぎない。「普通」なことが出来なくなるからまともではなくなってしまう。無意味であることの素晴らしさを散々語ってきたが、そうあることよりも「退屈」に耐えられる強さをもちまともに生きることが一番幸せだと僕は思う。皮肉では一切ない。「退屈」が無理なのは人として弱すぎる。人生なんて大半がつまらない。大半が無理なのはあわれなほど脆弱なのだ。大して無感動で、そこそこの家庭をもって暮らして定年まで働く人生はつまらなく見えるが、「強い」生き方でもあるのだ。つまらなくも生き抜くことが可能なのだから。思考停止して生きてる奴は「思考停止しても生きられる奴」と換言することもできる。逆に僕は行動と思考をストップしたら生きられない人間だ。そういう人の生き方は根本的に「その場しのぎ」しかできない。次の手をすぐさま打たなければすぐ「嫌気」がさす。死ぬまで燃え続けなければいけない。

 なんて意味に満ちた世界だろう。息がつまる。「嫌気」のする人間と、「嫌気」のする環境と、「嫌気」のする自分。だからこうやって書いて暴きたてようとする。組み立てられた意味世界を無意識的な情動によって「楽しもう」とする。考えなくても生きられるならそれでいい。無意味なことをし続ける人生など、つまるところ無駄だし。そこになんの意味もないから、価値判断もできない。人生が本人にしか価値がない「娯楽」に成り下がる。しかしそれが一番いい。燃え尽きるときが迫りつつも踊り狂う。なんの意義もない躍動行為。僕だけが美しさを見出だせる。完全に主観的な無意味の美しさを知るのは、音楽を聴いて朝に自転車に乗ることの素晴らしさを感じるのは、意味に溢れたものには理解すらできない。弱いものは強くなれないが、強いものは弱者の儚さを知らない。そして儚いからこそ、無意味に感動するからこそ、僕は命がなによりも尊いことを知っている。

 

しゅーりょー。いつもと文体が違うような。気のせいかね?

自分だった少年に、したいことをしてあげよう

最近批評のアイデアが生まれたので、ブログのペースはかなり落ちるかしばらく書かない。大学のときブログに熱心になりすぎて卒業製作が進まないという、猛烈な本末転倒に陥ってしまった反省だ。本当になにしていたんだろうか……

 今日は朝マックを食べながら書いている。前も書いたが、マフィンが好きすぎるのだ。全部好きだ。味、食感、触感、語感、匂い、アクセント、姿形。なぜか僕には異様に好きなたべものがある。あとはたこ焼き、カップラーメン、マクドナルド全般、メロン味、あたりか。全部安っぽいな。それでいて、これらを頻繁に食べたりはしない。たまーに食べて、大した感動を味わうでもない、って感じだ。だから、どちらかといえば実現したい欲求というよりは憧れに近い。実際にあんま美味しくなくても憧れが消えたりしない。無感動に食べては少しすると恋い焦がれるのだ。意味不明に思えるかもしれないが、マクドナルドなら説明できる。

僕の家は健康志向というほどではないが間食やジャンクフードに厳しめな家庭だった。マックは1年に1回がいい方だったし、お菓子もあまり食べられない。話がそれるが、高校生くらいから僕は食べ物への感動がほぼなくなった。美味しいかどうかは分かるしそう思うが、情動には至らない。感情が動かされることはない。なんでそうなったかは不明である。それでも今すごい好きなたべものは、昔の自分から来る欲求な気がする。自分が食べているのではなく、小学生の自分に「食べさせている」。それはまるでスプーンで子供の口に運ぶように。僕はどこか小学生のときに引っ張られている。あの時期はやたらやる気があって、今よりずっと本を読んでいた。今は一時間もすると本を置くが、あのときは五時間くらい平気で読み通していた。それでいてあそびまくってたし、今思うと我ながらすごい奴だ。僕はずっと昔の自分といる。人から努力家みたいな言い方をされるが、向上心が高いわけでは一切ないし、努力したいとすら思えない。ただ、昔の自分が見ているのだ。あれだけ頑張っていた自分が、今の怠惰を許してはくれない。だから1日が終わってなにもしてないと信じがたく強い罪悪感が襲う。

 昔に戻りたいとは思わない。不可能だからだ。だけど、あのときのやる気は手に入れたい。あのエネルギーに満ちあふれた、全力で生きる姿勢。そこにずっと「憧れ」ている。僕自身が、僕にとっての原風景であり、追い求めるものだ。この事実は人からすると想像がつかないくらい強い。マックで何気なくハンバーガーをたべてて、なんで俺はこんなにマックが好きなんだと思っていたら、昔マックに死ぬほど行きたかったのを思い出したとき泣いてしまった(そんな号泣ではないよ)。今のために僕は生きているが、「自分だった少年」を、ずっと羨み、見張られ、ご褒美に食べたいものを食べさせてあげるのだ。今食べたチキンクリスプマフィンも、やっぱり「自分」はなにも思わず食べていた。

 

終わり。今までにないパターンじゃないか? ハンバーガー2個頼んで飲み物なしだからのどがすごい乾いた。

私はあなたと友達です。全く同時に、あなたは私と友達です。

 人は一人では生きていけないと、このブログでは度々書いてきた。それは孤独という面でもそうだし、人は自分で決められることの方が少ないという意味でもそうだし、どうしても周りの影響を受けてしまうというしがらみとしてもそうだ。今回は「影響」について考えてみたい。

 われわれの周囲にいる人たちは「教師」か「反面教師」のどちらかだ。たまになんの影響も受けないケースもあるのかもしれないが、個人的な能力よりも相性や接する環境の方がでかいだろう。あまりにレアケースだ。周囲の人にとっても、僕は「教師」か「反面教師」のどちらかなわけで、互いに心の領域を侵犯しつつ、痕跡を残していく。果たして、影響を「受けるだけ」もしくは「与えるだけ」とはありえるのだろうか? 影響を与えるということは、そのとき相手に干渉している。自分から触れることは、相手から触れられていることと等しいのだ。触れ続けている状況では、どっちが「触れにきたか」など判別できなくなる。大学の講義ほど一方的になれば与える影響はかなり偏るのだろうが、友人関係くらい双方向なものとなればどちらが痕跡を「残しにきたか」はわかるはずもない。僕の友達に「俺はいろんな奴からいい影響をもらった」と言ってきた奴がいたが、そいつ自身はそんなに影響を与えていないから、やはり大したものではないのだ。根本的に、深い影響とは逆に気づけないのだ。互いに緊密な関係を築き、一段落したときに自分の変容に驚く。悪くとも良くとも、深い影響を残し合うときは気づけないほど両者は一体化する。相手との関係を「前提」に生きるから自分の変化も「前提」に組み込まれてしまい、気づくことができない。友達の話で言うなら、人からいい影響を貰ってばかりだと思っていてもそれは根付くようなものではない。深い影響は離れてから気づくが、浅い影響は離れてから失うのだ。結局、その人と実際に接していなければ維持できないレベルのものでしかないのだから。与えずに受け取っても、見よう見まねの域を出ない。混ざりあうことで、別れても相手の痕跡は自分と混じりあっているから消えたりはしない(これは長編小説の面白さの一原理でもある)。

 いつだって関係のなかに生きている。なにかを学ぶとき、なにかを学ばせなければいけない。相手を罵るとき、罵られる彼を見ざるをえない。いずれにせよ、一方向ではありえない。もしそうだとしたら、なにも生み出してはいないし、変わってもいない。誰かといることはジャムセッションだ。スタイルは違えど、共有されるグルーヴとエモーションのの中で意識は混淆される。そこから優れた音楽は生まれ、また関係の中では「なんとなく」であっても「そうとしかおもえない」ほど強く人の気持ちがわかったと「思いこむ」。しかし思いこみであっても、かけがえはない。代替不能なものは言語の支配を免れ光景となり、原風景として登録される。だから人は「いつかみた景色」をまた見たくて、かげがえのないものを求め続ける。決して手に入れられないと分かっていても、探すことをやめられない。幸せになりたいのも、許されたいのも、それは「いつかみた景色」への郷愁なのかもしれない。理由なき欠如とは、最も純粋な体験へのノスタルジーを意味するのだろうか? だとしたら、人は宿命的に不幸で救われない。欠如の形をぴったりとはめるピースはどこにもない。だから、代替品をいくらでも作り出す。対象は常に関数であり、少しでも欠如を埋めてくれるなら救済関数Xにはどんなものをいれてもいい。友人、家族、恋人、表現、風景、アクセサリー…… 僕たちが日頃仲良くする相手とは「代替品」である。断言する。でも僕たちにはそう思えない。だったらそれでいいじゃないか。互いに思いこみ続け、幻想のなかで、信じきって、「代替品」として使い物にならなくなるまで、視線を交わしながら、全力で、限界までセッションを、「ばか騒ぎ」をやろう。

 

終えた。朝マックを食いながら書いてました。僕マフィン大好きなんだよね。頼むから昼と夜もマフィンを売ってくれませんか?