そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

罪を感じるなら散歩に行こう

初めて、五月病にかかった。ゴールデンウィークが明けたら、猛烈な倦怠感に襲われた。早起きも出来ず惰眠を貪る日々であったが、ようやく脱しつつあるのでブログでも書くことにした。リハビリだね! それにしても時間とは残酷なものである、最近誕生日を迎えて僕は26歳になってしまった。後4年で20代も終わり! 面白い! とまあ、ぼちぼちやって行こうと思う。焦ることに意味はない。起きた事実が全てなのだから。

 そう、起きた事実が全てなのだ。怠けながらも、このことについて少し考えていた。状況や行動に対する自分の認識とは何だろう。「こういう状況に対してこう感じている」ことに、意味はあるのだろうか。例えば罪悪感。当然だが、罪の意識が外部に及ぼす影響は些少もない。ただ自分の内部で葛藤が反芻されるに終わる。罪悪感の問題点は、罪を意識していること自体がある種自己擁護的なことだ。「自分は罪を感じているぞ」と思うことで、行動していない事実への弁護になり、ずるずると苦悩に引き込まれる自分への許諾になる。このことは罪悪感が「罪悪」を隠蔽してしまうことを示している。悪口を言って後悔したら、まず「他者へ向かって」謝らなければならないのだ。僕は後悔しないから謝らないが。

 そういう意味では内面的な苦悩とは随分厄介なものだ。苦悩と言う「内面的な行動」が 実際的な「外部に対するアクション」を阻害する可能性があるのだ。もちろん逆もある。悩みを昇華させて一つのことに打ち込み、高い業績を上げた人は沢山いる。じゃあ、苦悩とは、「思う」こととは、一体なんだろう。神経科学の領域では、我々は自分の意志で行動していないことが分かっている。朝ご飯でジャムではなくハチミツをかけたときも、帰り道に寄り道したときも、自分の意志ではない。気まぐれとは、ほんとの意味で「まぐれ」なのだ。脳は自己意志と違い合議制である。さまざまな活動領域が意見を出し合い、行動を決定する。その決断を意識は受け取り、「自分がこう思って決めた!」と「滑稽な後付け」を始める。だから、そもそも内面的な意識と実際的な行動はなんの結びつきもないと言える。苦悩に意味はないが、苦悩しないことにも意味はない。どちらにせよやるときはやるし、やらないときはやらない。だが、意識には役割がある。自分が今からやることは管轄外だが、これからの「方針決定」を意識は受け持つのだ。組織で言うと、意識は実作業者ではなく経営者なのだ。小さいときからピアノを続けていて、それを大人になっても続けるか。決定するのは意識だ。無意識下で活動する脳はあくまで習慣化され、プログラミングされた行動しか出来ない。ピアノでいえば、弾き慣れた曲のときは何も「意識」せず軽やかにプレイできるが、特訓中は「こうやって弾けば上手く行く」と「意識的に」考える。そして練習を重ねて上達すると、あとは「無意識」で指が動く。意識がやるべきは、優れた「プログラム」を作れるように「方針決定」することなのだ。だから、「考える前に手を動かせ」「ただ行動し続けろ」はある意味間違っている。目標を決めてから行動しなければ動けないものだから。無意識で出来ることはあまりに当たり前であるため、彼らは「なんでこんなことでいちいち考えるんだ」と思ってしまうのだ。かといって、ずっと苦悩し続けてもしょうがない。重要なのは、意識は目標設定のためにあることだ。哲学や小説ですら、「考えて」やるものではない。ひたすら文章を反復的に書いて自動化するものだ。自動化に必要なのは反復である。僕らが決めるべきは、反復できる環境づくりだ。どうやったら続けられるか、モチベーションの維持は、金は持つか、等々。とはいえ、これは一芸を持ちたい人の生き方だ。もっとふざけた生き方をしたかったらそれでもいいだろうし、楽しかろう。

 最後に立ち返る。罪悪感に意味はあるのか? 意識の役割に準ずるなら、あるときもないときもある、としか言えない。ただ、罪悪感とは持ちたくて持つ訳ではないときが多い。もし苦しんでいるなら、楽しいことを楽しめないなら、ひたすらゆっくりしよう。有意義な目標設定とは、大抵精神的余裕があるときにできるものだ。特に漠然とした罪悪感の場合(例えば「原罪的」な発想)は、それについて考える前に休息する必要がある。怠けていいのだ。辛い状況とはそれだけで「頑張っている」のだから。そしてようやく安心を得られたとき、初めて「自らのその先」が見えてくるのだ。

社会をガン無視したいですよねえ

 おはようございます! それではいってみましょう!

 実に快調な滑り出しだが、みなさんは快調だろうか。日々の対応に追われすぎていないだろうか。今回は「社会、反社会」について考えてみようと思う。

「社会なんてくだらないぜ」とアーティストは言う。「社会に染まりたくない」と社会嫌いは思う。この場合、社会とは何をさすのだろう? ここで問題とするのはもちろん学術的な意味ではない。あくまで一般的なイメージについてだ。「社会人」というと、政治哲学的なことに興味がない人はなんとなく会社であくせく働くサラリーマンを想起するだろう。では前述の「社会に染まりたくない」とは「会社であくせく働くことに染まりたくない」ということになる。たしかに、喜んで働きたい! って人はあまり見ない。でも就職活動していると、みな(表面上は)喜んで仕事をし、その仕事に如何に価値があるかを伝えてくれる。人にもよるだろうが、大体の人は取り繕っているんだろうと想像はつく。そういうギャップを見て仕事に絶望するから、最初の一年で結構な数の新卒者が辞めていく訳だ。まあ、仕事は大概人の精神をすり減らす。そんなことしたくないのも至極当然だ。そういう社会の外面と内部のギャップに苦しんでいる人の脇に、正社員にならずにニートやフリーターをやっている人がいる。先に断っておくが、ニートも結局は社会にいるじゃん、とか社会に染まってなくてもみんな悩んでるんだよ! 的な論調にする気は一切ない。たしかに、社会から逃げ出したとしても全てが解決することはあり得ないし、そういう視点では構造的に等価であるとみなすことも出来る。しかし僕がこの記事で言いたいのは社会の定義だとか苦しみについてではない。僕が言いたいのは、「社会を敵にしたり、価値がないとみなすのはなぜか」ということだ。ある意味当然のことではある。僕も社会人をやっているが、確かに仕事はめんどいし、会社のルールは非効率で意味が分からない。「仕事の話はやめよう」と飲みの席で友人に言われたことがある。でも彼は仕事をしている。すぐに辞めればいいんじゃねえの? と言ったこともある。今の僕は、社会に立ち向かう必要はないと思っている。かといって、社会に従属しろとは言わない。それでいて嫌なら辞めろと強気に出る気もない。ただ気にかかるのは、真っ先に社会を敵視するのは「手軽に過ぎる」のじゃないかということだ。僕は仕事の話はしてもいいと思うが、愚痴は好きじゃない。なぜなら殆どの場合面白くないときが多すぎるからだ。仕事の愚痴は公的なものであるから、普遍的すぎてほぼ確実につまらない。そして、「手軽」過ぎる。社会人になったら仕事する時間は大半を占めるからそりゃ自分の個人的な体験も仕事の不満が大半になる。それをエピソードにして発表することが手軽なのは当然だし、社会人同士の飲み会がそうなりがちなのは当たり前の事態だ。同様に、今の自分が悪いのは社会にするのも当然だ。仕事があなたを目減りさせているのだから。ただ、それはどうなんだと思う節もある。別にみんな苦しんでいるんだからしょうがない、とか言う気はない。つまるところ社会の手のひらに乗ってほしくないのだ。社会の拘束力は絶大だ。だから、僕たちはつい自分の問題が社会にあると思ってしまう。でもそうやって仕事を辞めたり、発起して頑張ったとしても全部社会を意識した上の行動になってしまう。だから、社会に敵対する人もまた「社会人」なのだ。ロックは反社会的であるが故に社会的だ。そのためヤンキーもオタクも、カウンターとして「極めて社会的な」コミュニティを作る。ここまで書いたが、社会を無視しろって訳ではない。ただ、そこまで社会にこだわる必要もないように思う。「社会の粘着アンチ」化してしまうのは、単純に損だ。社会は敵として振る舞うことで、あなた自身を隠蔽する。それはサラリーマンとして会社の中で生きることで人間個人の個性を殺してしまうことと、変わりがない。

 社会人であることに苦しんでいるなら、社会を見る前にまず自分を見てほしい。自分はどんなことが出来て、出来なくて、何が好きで、嫌いで、どのように世界を認知しているのか。社会に折り合いを付けるのはその後でいい。「仕事に追われる日々」という言い回しがあるが、その通り社会は追い続ける。そこで頑張って鬼ごっこから外れる必要がある。社会を考える前に、自分を考える。僕たちは誰しもが社会に所属し、そこで上手く妥協案を探していくことに一生を費やす。取引は上手くやらなければいけない。そのために、社会のルールに乗っかるのではなく、自らの適正や価値観を意志を持って提示していくことが大事なのである。そうやって少しでもマシな方に持っていくために、人によっては無駄に見える思考や内省は必要不可欠になる。人間に考える義務はない。だが、鋭い思考が新たな気づきを与え、深い内省は世界への接続を強固にする。ゆえに無駄などでは一切なく、最も「実用的な」サバイブの手段であり続けていく。

 

終わり! 悪くない気がするぞ。

考えるほど暇ならモンストでもしよう!

ああでも、それでも、だけれども、でもでも、しかしても! という訳だ。調子はどうだろうか。僕はやたら眠い。仕事から帰ってきて三時間くらい寝て、日が変わるくらいにまた寝る。これではなんもやりようがない。ひどい一日の循環だ。こういう人がいるから糖質を抜けばやる気があがる! 的なキャッチコピーが流行るんだろう。実際は食生活だけで全て変わるわけないのであるが。変わりたい、変われる、変われた。変わる、とは何だろう。変わっても、自分は自分でいられるだろうか。自己の存続とはなにを意味するのか。俺の友達は、「人は変われない」と言っていた。あくまで自分に対する解釈を変えているだけで、自分自身が変容することはあり得ない、と。確かにそう思う。変わったという人は、大体短所を長所に裏返しているだけなのだろう。衝動性が高い人は、なにか他の作業で発散することで偉大な業績を残せる可能性がある。社会的に役に立たない人は、社会に対して疑義をかけることができる。水タイプは草タイプにやられっぱなしだが、だったら炎タイプにぶつければ良い(れいとうビームをサブウェポンで持っている場合はその限りではないが)。結局、何も変わらない。自分という存在は、中学生くらいまでで完璧に成形されてしまうのだろう。そこからは、解釈で裏返していくしかない。
 10代半ばを超えたら人は変わらない。だが、人は解釈を変えることが本質的な変容であるともいえるだろう。世界は変わらなくとも、見え方が変わったらそれは違う世界だ。度々口にしている、論理と実感の問題だ。人は変われないが、解釈を変えれば「変わった」ように「実感することが」できるのだ。現実は糞ゲーか? と問われれば、「人による」としかいえないだろう。だからこそ、見える景色によって現実も自己も如何様に変容「したように見える」のだし、結局変わっていないとしても現に生きている僕にとっては問題ない。なぜなら、「世界のありよう」が問題なのでなく、「世界の見え方」が自分にとっては全てなのだから。それは虚しく、無力でもある。だからどうしようもない現実に打ちのめされることもある。ただ怨嗟の声を上げるしかない状況もある。逆にいえば、そのどうしようもなさを「とんち」で打ち破ることが出来るのも人間の凄さなのだ。箱庭の価値は、あなたが決めるのだから。
 しかしだからといって全てを内的問題に収束させるのもどうなの? とは思う。真逆のことを言っているようだが、世界があり、それを見るあなたがいて、世界の価値を決めるにせよ、世界の善し悪しが見え方だけで決まる訳ではない。俺の描いた絵の方がピカソより好き! と言ってくれる人は世界中探せば恐らくいるだろう。しかし、ピカソの方が好きな人の方が圧倒的に多いのも事実なのだ。もちろん、好きな人の多い少ないだけで表現の客観的価値を決める気はないが(商業的すぎるよね)、価値を決定するのは自己と事物の両面なのだ。ゆえに、自罰的になりすぎるのも良くないと思う。現代は自分なりの自己実現が重視されるため、自己が満ち足りないと「僕のせい」と陥りやすい。自己啓発だって常に自己の向上だ。でも「世界が悪い」と言う権利だってある。「今不幸なのはあなたがそう感じているからだ」というのは事実だし、不幸な現実を打開するには行動していく必要があるが、自分の価値観だけで全てを決定させるのは盲目的すぎる。現実に対して自分の見方だけを変え続けて改善していくのは妥協とも言える。どうしようもない事実が立ち塞がるとき、いいようのない無力感に押し潰されるとき、呪詛を上げて何が悪いのか。そこで責任を自己に押し付けるのは、正に現実逃避だ。世界の理不尽を知ることで、己の無力を噛みしめることで、見えてくる「世界」もある。独りであることの小ささを知るからこそ、世界の一部であることに気づけるのではないか。自己責任で生き、主体の価値観と世界の価値観を等しくすると、自己と世界が同一化し、限りなく自己領域は拡大する。それを否定する気はないが、僕はちっぽけであることを認識して、世界との繋がりを見出だしたいのだ。僕は自分の人生を生きているが、同時に他者の人生の中にもいて、社会運営に参画し、自然のサイクルの内側にもいることを自覚したい。
 ひとまずは語った。さて、こういった世界の価値を決定する基準の差はどこからくるのだろうか。恐らく、自己の豊かさだ。非常に曖昧なことを言ったが、ざっくり言えば自分への執着心である(いつかこれは詳しく書きたい)。自らに興味を抱けるなら豊かだし、そうでないなら貧しい。執着があると主観が前面に出るゆえ、極端に自罰的か他罰的になる(自己嫌悪者は自罰的、ナルシストは他罰的)。自己嫌悪がナルシシズムの裏返しなのは、結局自己への執着がどっちに振れるかということでしかない。ネットの真上に乗ったテニスボールのようなものだ。一方、執着がない人はこの考えが否定形で表現される。肯定する気はないが自己を否定する意味もまたないと思うか、自分にこだわりがないからそもそも自分でいたくないかどっちかになる。ちなみに僕は前者で母が後者なのだが、母に「今と変わりたい?」と聞いたら「全く違うものになりたい」と言っていた。こええよ。自己に対して消極的な態度しかとらないから、結果的に自己が矮小化して空虚さが増す。その分相対的に物事が見えるため、冷静ではある。「自分にはなにもない」とは思わないが(それはむしろ執着がある人の考えだ)、そもそも自分が「いないように見える」ため、ただただ空洞化が進行する。ゆえに空っぽであり、貧しい。執着心が強い場合はその逆だ。積極的に自己に意識を向けるため、肥大化される。自分は確かに存在しているが、結局自分自身を理解することは敵わないためナイーブで神経質になりやすい。そのためがんじがらめになるが、資源は豊富だ。面白いのは、これも自己と世界の関係性の上での裏返しということだ。だから、自分が世界とどのように繋がっているか気にならない人は、この基準にそもそもあてはまらない。印象派的な輪郭の曖昧さをもって、自己と世界がぼやっと存在するだけだ。逆に言えば、そんなカオスな状態でも耐えられるほど鈍感であり、強い人でもある。考える人は考えない人をバカにするが、それは「そんなどうでもいいことを考えざるを得ないほど弱い」から考えているだけだ。そんなことよりお金を稼いで美味しいご飯を食べよう。僕の生活の理想は「死ぬほどだらだらして、暇になったら適当にスマホいじって眠くなったら寝る」なのだが、こういう人が一番タフだから理想なのだ。
 考える者は常に弱い。だから哲学者は自殺する。でもだからといって考えない訳にもいかない。よくわからないそれを、少しでも見えるようにするためには。自らを縛りつけるものを、愛するようになるためには。僕の友人は言った。「悩みがあることは幸せだ」と。なんと感動的な台詞かと思った。わからないから、苦しいから悩む。幸せを乞い願い、得られない。だがそれだけ渇望できるのは悩むからだ。幸せを考えるから、幸せを感じられるのだ。考えないものに、幸せはやってこない。なぜなら、幸せを知らないから。概念を獲得するのは無駄ではない。論理と実感は違う尺度を持つが、思考しなければたどり着けない実感もある。先鋭化された思考の果ては、いつだって目の覚めるような瞬間なのだ。
まあ、それでも考えた方がいいとは限らない。どのみちそれは、あなたが決めることだろう。僕は魅入られるときもあれば、頭を空っぽにしたいときもある。何を選べばいいかは分からない。何が見えているかも分からない。ただ、分からない世界はひどく瑞々しい。前に空虚が美しいと言ったが、虚ろな空間には先入観がないから既存の概念で染めることがない。概念がなければ分からない実感はあるが、概念を抜かなければ見えない世界もある。ゆえに空虚は瑞々しく、美しい。形容できないから、ただそれを受け取ればいい。となると音楽の美しさは、そこにあるんじゃなかろうか? 美しいメロディは、意味があるように思わせると同時に、意味を越える。言葉の持つ意味がちっぽけに思えるほど、強烈なイメージを抱かせる。そしてその「強烈さ」とは、つまるところ「なにもない」ことじゃなかろうか。既存の概念を粉々に打ち砕いたとき、意味は失われ、空っぽなものが立ち上がる。僕らは感動を言葉にするしようもない動物だが、それでも「本当は言葉にしたらすべてが失われる」ことも知ってはいるのだ。なぜなら、言葉が失われる体験こそが感動であるのだから。ゆえに、音楽を分析するとき意味で考えてもしょうがない。メロディにもリズムにも意味はありはしないのだから。
 意味の破壊が表現の魅力だとしても、現実に生きる人間は意味を持った方がいい。人間は意味が分からないものを恐れる。考えるのも意味付けするためだ。僕は意味付けの機能が低い。病的な表現を使うなら、現実はバラバラに見える。それは論理的には正しい。現実はまとまりをもたないのだから。だが、生きる上では不便極まりない。常に狂った世界で生活するはめになってしまう。だから、哲学とはサバイブの手段なのだ。ルールを見つけることで、まとまりを持たせていく。ときにはこの文章のように、空虚すら構造化する。だから結局、僕が脳死してスマホゲームに熱狂する日々は遠いのだ。ああ今日も、ピアノの響きが聞こえる‥‥

 

 

 

終わり。最後オチなしのギャグにしてみた。

チクタク、チクタク……って擬音考えた人はセンスあるよね

時間だ。

さて僕は、名詞をただ言い切ったのか、もう切り上げ時という意味で言ったのか、どっちだろう。「ただの時間だ」とか「もう時間だ」とでも言えば用意に判別が付くが、これだけの情報では分からない。さてはなにおき、時間だ。最近、時間の経過がひどく痛ましく感じることがある。それは時間の経過に伴って自分が老化していくとか、色んなものが褪せていくとか、そんな意味じゃあない。もっと純粋に、時間の経過を思うとひどく悲痛になる。今日は22だが、「23日、26日、27、28、三月!」と心の中で口走ったら泣きそうになった。これにはそのとき情緒不安定気味だったのも大いにあろうが、誤摩化しのきかない感情であり、一つのメカニズムでないかとも思える。ふと、首を上げて虚空を見つめる。それは大変空しい瞬間だが、原因の一つに「時間が経過している」ということが関連しているのではなかろうか。「虚空」といったのは訳があり、この場合は首を上げて天井や空を見ているのではないからだ。それらよりもっと手前か、遥か奥か、もしくはどこにも焦点を当てないで呆然と「見る」。あまりに象徴的なワンカットだが、これと類する行為は行ったことがないひとも少ないだろう(だからこそ、「象徴」になりうるのだし)。どこでもないところを、呆然と見る。それは「呆然と見ている時間」であり、呆然としているから空間には意識が向いていない。ただ、それでも時間は経過しているから時間の存在だけが浮き彫りになる。もちろん時間と空間だけで全てを済ますつもりはないが、呆然とすることは、空間を消し時間を跋扈させる手続きなのかもしれない。ここで重要なのは、空間と違い時間は操作できないことだ。空間は好きにコーディネートできるが、時間はどこまでも一定だ(体感的なところでは変えようもあるが)。だから、時は「残酷」だったり「儚い」ものだったりする。ここでも本質を突くのはシェイクスピアだ。彼は二人の女の仲の良さをこう表現する。「内緒ごとはすべてあまさず打ち明けあい、姉妹の約束までむすび、なん時間もいっしょにすごしながら、それでもまだ足りず、別れを惜しんで、時の速さをぼやいたこと」仲の良さを「どれほどいてもまだ足りない」と言いながら、一緒の時間があまりに楽しいので一定のはずの時が「速くなる」。遊んでいたらもうこんな時間だ、などと表現するときはあるが、ここまでレトリカルに、かつシンプルに本質に迫るシェイクスピアはやはり化けもんだ。シェイクスピアからの引用はどこか物悲しさがあるが、時間と感傷性は密接な関係がある。なぜなら、感傷とは振り返るものだから。過去と比した現在の無力を。失い、今は傷となったそれを見つめること。もちろん、アメリカ文学ひいてはフォークナー「八月の光」のように空間の移動が感傷性を誘発するものもある。だとしても時間の要素は抜けない。結局は過去いた地点からの連続性から成立するのだから。

 僕は感傷性が好きだ。なんでかと言われると難しいが、今考えると僕は時間が好きだからという可能性がある。非常に時間的な音楽が映像よりずっと好みだし、描写的な小説より文脈的な小説が好きだ。オーケストラよりもピアノソロ。グルーヴの黒人音楽よりかはメロディアスなロック。という訳である。メロディは時間の連続性から成り立つから、感傷性とマッチする。ペイヴメントの「アンド•キャロット•ロープ」のアウトロは、メロディのみならず今までの展開に支えられているからあそこまで突き刺さる。

 時間だ。時間は今も経っているのだ。のんびりとはしていられない。かといって何をすればいいだろう? それも時間が教えてくれるだろう。時間を支払い、時間を嘆き、時間だけが過ぎ、時間と共に死ぬ。だから生は儚い。そして、ゆえに価値がある。時間も死も存在しなかったら、生は無限に引き延ばされていく。人間は不滅だと僕は信じているが、死は存在する。そうであるから、不滅であることにも意味がある。本当に、物理的な死がなかったら不滅もただの単語になる。我々は「消え行く者」であるから、思考を余儀なくされる。後回しに出来ることは何一つない、せかせかした生活になる。時間が過ぎ行くのを虚しく見つめる一観測者になってしまうときもある。時間は消え、肉体も消え無時間へと移行するときがいつか来る。だからせめて、時間の中で自由に歩き、限られた時間の中で懸命にやりくりし、時間と共に笑いたいのだ。

 

終わり。新境地……な気もするがそうでもないんだろうか。ご意見待ってます。

やり方さえ分かれば後は簡単さ!(嘘つけ)

堀江貴文が最近人気っぽい。本も売れてるようだし、セミナーも開いているようだ。僕は嫌いなのだが、本を読むのもめんどくさいのでAmazonのレビューを見ていたら面白いのを見つけた。

 

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1つの仕事に囚われず興味のままにあらゆるジャンルの仕事をかけ持つホリエモンらしい本です。彼はライブドア時代からポータルサイトのみならず中古車販売や証券会社まで進出していました。まさに多動力という言葉がピッタリ。

ひとつの肩書きだけではその他大勢の一人にしかなれないが、複数の異なるキャリアが掛け算となり、オンリーワンの人材になれる。まさにその通り。これからの時代、行動力と勇気が大切です。

そんなバリバリの行動力を持つホリエモンは素晴らしい一方、ホリエモンの弱点もよく分かりました。

失敗を恐れずとにかく行動に移したり、人に嫌われる事を恐れず何でも本音で発言するホリエモンは、人が受け取る印象への想像力がまったく欠如しています。

新幹線の中で「堀江さんの本を読んで感動しました」と声をかけられて「だから何?」と返してしまうホリエモンらしいエピソードがありますが、たとえそれは本音だとしても、そのような人が考えたサービスは果たして魅力的に映るでしょうか?彼は恐らく小さな事だと考えていますが、堀江ブランドは明らかに失墜します。

この本でホリエモンが引き合いに出しているスティーブ・ジョブズやゾゾタウンの前澤社長のプロダクトやサービスは人々を魅了してワクワクさせます。ビジネスモデルとして秀逸なのはもちろん、人を惹きつけるアート的な感性があるからだと思います。アップルもゾゾも、その製品やサービスはもちろん、企業そのものがアートです。

特にジョブスはその言葉一つ一つがまるで作品のように語り継がれています。一つ一つが聞き手が抱く印象を良く考えて発せられた言葉なのです。

家や別荘、車のような資産を持つ事を思考停止だと切り捨て、無駄な時間を極限まで切り詰めるホリエモンは合理的です。

ところが音楽や芸術などアートというものは、基本的には無駄で非合理なものであることは忘れてはいけないでしょう。アートは無駄だが、無駄であるが故に美しい。

前澤社長が世界的な現代アートのコレクターで、ジョブスは京都の庭園に熱心に足を運んでいたのは有名な話だと思います。

モノを持たずこだわりを持たないホリエモンは、こうした無駄や余白を楽しめるアートの部分が無いのだと思いました。

ホリエモンは既存のビジネスの無駄を排除し、焼き直して正しい方向に導く能力は高いのですが、消費者を魅了して共感させるような彼自身の代表作と言えるサービスやプロダクトが作れていないことが、ホリエモンが未だに批判される理由だと思います。

ダイレクトに言えば、単純に格好良くない。粋では無い。格好良く無いものは、やはり人に受け入れられない。ホリエモンが新しいサービスを始めるとしても、あまりワクワクしません。ホリエモンがプロデュースしたteriyakiや755もイマイチ不発の様ですが、なんとなくダサい、子供っぽい、イメージがついてしまっているのでは無いでしょうか。

 

 

「備蓄こめたろう」という人のレビューだ。すごい冷静だ。たしかに、堀江貴文が作るサービスはすごく面白くない。スタイリッシュさもなければ独創性もない。ただ、無駄を排除する能力はやはり特筆すべきものがあると思う。だからこそ彼のメソッドは鮮やかに浮かび上がる。

ただ、ジョブズがアートを愛していたのは分かるが、かといって「アートを愛していたからああなった」とは言い切れない。ぎゃくに、堀江貴文がアートを愛していればもっといいサービスを作れたか、と問われればそれもやはり分からない。人間は、結果に対する原因を簡単には算出できないのだ。では、実業家に限らず、「偉大なワーク」を成し遂げるにはどんなメソッドが正解となるのか。個人による、で封殺しても良い。だが、現実の問題として講演会や「成功者になる方法」的なワークショップはいくらでもある訳で、そう言ったフィールドで堀江貴文が成功おさめているのだし、それはそれでカリスマ性があって凄いなと思う(別方向で偉大でもある)。僕は「偉大なワーク」を収めたことはない。しょぼい成果物ばかりだ。そんな奴がメソッドを語ることに意味はないかもしれないが、まあ考えてみよう。

 前提だが、メソッドに決まりきった法則などもちろんない。唯一あるとするなら「努力している」くらいだろう。さすがに全く努力していないことはないから。じゃあ、何が共通項足りうるのか? 結局は「メソッドを独自に作る」ことでしかないだろう。メソッドををクリエイトできないものが、クリエイティブな結果を残せることはない。自前の理論を持たないものに、良き実践はありえない。そういうことなのだと思う。問題は、天才にもメソッドを言語化できるものと出来ないものがいることだ。出来るものは衆目を集めるカリスマ足り得るし、出来ないと不可思議な天才となる。もしくは堀江貴文のようにメソッドだけが洗練化されるケースもある(これはこれで間違っていない。正しいメソッドは作るしかないのだし、そもそも天才はメソッドも天才とは限らないのだから)。カリスマとは詐欺師的だ。「鮮やかさ」で人の目をくらます。つまるところ、演説とは意味内容の質ではなく「演技力」こそが重要なのだから。これは文章でもある。全く違う事物を鮮やかに接続されると、妙に魔術的に移る。ジジェクとか東浩紀とかがそうだ。冷静になれば二人とも「雑だが先見性は高い」って感じだと思うが、妄信的信者が多数いるのは流石だ。

 メソッドを学びたがる気持ちも分かる。天才の方法をまねれば、間違いはないと思うのかもしれない。だが、それこそが成功から遠ざかることでもあるし、なにより、自分の人生を他者に「委譲」してしまうことになる。もう少し自分のエモーションを信じていいんじゃないか。もちろん、そう言う僕も盲信しているものは一杯ある。アーティストとしての生き方はピカソが本物の理想だと思うし、信仰している。でも、生き方やメソッドを最後に決定するのはこれぞというエモーションだろう。自分が感じたままに生きるとは、シンプルで最も正しい。堀江貴文は無駄を切り捨て続けた。一方ジョブズは、一見すると無駄で非合理なアートを愛し「偉大なワーク」を収めた。だからといって「無駄なことをすると成功する」という帰結は起きない。ここから導きだされるのは、「無駄なことをしても偉大なワークは成しうる」ことである。だから、偉業とは思ったより楽観的なものなのかもしれない。無駄があってもいいのだ。現代言語学創始者ソシュールだって、完全に意味のわからないアナグラムの研究に二年かけた。努力が必要なのは確かだが、努力だけしていないと天才にはなりえないほど、人生は厳しくない。「偉大なワーク」は、案外と優しい。人生の持つ楽観性の本質はそこにある。無意義であるか有意義であるかはその場では決定しない。「過ぎ去ったとき初めて」、僕たちは行為の有効性を知る。その考えで行くなら結局は死ぬまで分からないのだ。小学生のとき鉛筆を拾ってあげたことが、病床で死を待つだけの自分を救うかもしれない。今何をすべきかなんて、そう簡単には分からない。どうすれば成功できるかも、つまるところ分からない。行動し続けることが絶対であるかも保証できない。そうなると、人生は悲観的な顔を見せる。何をしても、いい結果にならないかもしれないとも言えてしまうからだ。だが、それも無意味だ。結局のところは私たちに分かることは何もないのだから。だからこそ、僕はエモーションに正解を見いだす。感じたいことを、感じられそうなことをするしかないのだ。「涼宮ハルヒの憂鬱」のOP『冒険でしょでしょ』にある一節「感じるまま感じたことだけをするよ」は、頭を抱える程正しい。とまあ、「偉大なワーク」に結びつくかはともかく、感じたまま感じたことだけをするのが人によっては意外と「最上のメソッド」足りうるのかもしれない。

 

エンド!次回に続く!

 

 

自意識から宇宙へ抜け出よう!

今月は調子がいいからさらに書いてくよ!

 

意識と脳について、めざましい進歩があるようだ。それに対して「希望も喜びも脳のニューロンの活動で生じるものに過ぎないのか」と悲しむものもいる。神経科学者ラマチャンドランはこれを否定する。引用してみよう。

 

しかしそれは、誇りを傷つけるどころか、人間を高めるものだと私は思う。科学は私たちに、人類は宇宙で特権的な地位など占めていない、「世界を見つめる」非物質的な魂をもっているという観念は幻想にすぎないと告げている。(中略)自分は観察者などではなく、実は永遠に盛衰を繰り返す宇宙の事象の一部であるといったん悟れば、大きく解放される。また謙虚さも養われる。ーーこれは真の宗教的体験の本質である。

                       ラマチャンドラン「脳の中の幽霊」

 

なんと感動的な文章か。そうなのだ。私たちは世界に俯瞰的な印象がある。意識があり、それが観察を行い、内的世界で処理を続ける。だが現在の脳科学はそれを否定する。統一的な意識は存在しない。さらには、肉体と精神の分離もはねのける。精神が、意識が特権的な地位を占めるのは終いだ。あるのは、宇宙の営みの一部であるという事実のみだ。だからこそ、私たちは自由になれる。自意識に引きこもることも、それがゆえに孤独を感じる必要もない。宇宙の一部なのだから。これは宗教的な体験に属するだろうが、宗教的な思想ではない。自意識の中で一人で寂しそうにする「もう一人の私(ホムンクルス)」を神経科学が救ってくれたのだ。僕らは完全な自由意志で動いていない。それどころか、殆どは無意識の動きだという。驚くことに、人が行動する少し前には脳に特定の反応が出ることが分かった。つまり、「パンが欲しいと思った『瞬間に』私は手を伸ばしてパンをとった」のは嘘だ。思う前に脳が「動け」と命令して、指令を受理した手が取るのである。自分がパンが欲しいと思うのは、意識の中で矛盾が生じないための後付けだ。これも悲しいことではない。僕はこのことを聞いて心底ほっとした。だって、全て意識が行動を決定するなんて堅苦しいから。無意識がそれだけやってくれるなら、人生は思ったよりも適当なのだ。もちろん、無意識の責任を僕は引き受けなくてはならないが。

 自意識は特権を生む。なぜなら世界と切り離された存在となるから。孤島に一人住む王だ。これは精神的な話ではない。科学の進歩によってとうとう僕たちは「特権的で孤独な観察者」ではなくなったのだ。自意識は歪みやすい。世界と自意識の間には、社会がある。社会は特権者たる自意識を抑圧する。特権を剥ぎ取り、プライベートを失わせる(ハンナ•アーレントが「人間の条件」で語った「近代社会による私的領域の消失」とは、ここに依拠している可能性がある)。そして形式的なやりとりに身を没させる。自意識が特に強いものは不満を抱く。自分を社会に対して妥協させるのが不快なのは、自意識の特権性を損なうからだ。ハンナ•アーレントが言うように、確かに社会は消費的だ。人的資源として招集され、抑圧され、消費物だけを生み出して命尽きる。彼女は古代ローマに理想を求めた。ラマチャンドランはもっと飛躍して、宇宙の一部であることに解放を見いだした。どちらも現実的ではない。ラマチャンドランの方が正しいとは思うが、実用的でないことに変わりはない。でも、少なくとも自意識からは抜け出さないといけない。内的世界に留まり続けていると、単に悶々とするだけだ。僕は人間は永遠だと思う。だって宇宙の一部なのだから。死んでも、宇宙の運営には参加し続ける。なぜなら宇宙の一部としてこの地、地球に身を宿し生きていたのだから。保坂和志は「骨になってもわしはわしや」と言われ感動していた。そう、骨になっても、灰になっても自分は自分だ。宇宙は死んだ生物を排除する程器量が小さくない。僕たちは永続する。だから、「この世界の片隅に」というタイトルは大変本質的であり、美しい。僕らはこの世界に、宇宙に居続ける。どれだけ悩んでも、迷っても世界の片隅には必ず居場所がある。世界の運営に参加したのだから、死んでも僕らは片隅に居続ける。「この世界の片隅に」は、常に人には居場所があることを描いた。それこそが「永続的な希望」であり、本質的な解放なのだ。死と存在の消失は意味が異なる。だからこそ、「生きているのにいなくなる」ことも起きてしまう。本来誰でも備わっている生の、その実感が限りなく薄くなる。悲劇であるのは、引き起こすのは常に自意識であることだ。

 「自分が永遠であること」なんて、実感できないだろう。正直言うと僕もそうだ。でも、自己の特権性だけは剥ぎ取る必要がある。社会からではなく、自分の手で思いきり。そのために内的世界から出る必要がある。自己と、他者と、世界を並立させること。三項の内でヒエラルキーを発生させないこと。最近大事だと思うのはそこだ。自意識にばかり目を向けると、他者と世界が「他人事」になる。俯瞰して見つめることしか出来なくなる。違うのだ。自意識は二重の悪しき特性を持つ。俯瞰的であるが故に他者と世界から切り離される「悪しき客観性」と、それでいて、自己にのめり込むが故に無限循環的な内省に陥る「悪しき主観性」と。だから、自意識を消さなくては行けない。世界の中で生きていることを認識する客観性、は難しすぎる(無理だろ!)ので、世界と他者をもっと平等に観れる冷静さと、自己を抜いた上で自分の欲望と向き合って楽しみ続ける無邪気さとを。大事なのは感覚だ。どこまでも主観的な概念だが、感覚は「良き主観性」となりうる。自分の喜びをひたすら獲得する原動力となるから。それには、自意識は邪魔だ。感覚は自意識の安っぽい主観性とは全く異なる。良き感覚を得るために必要なのは「忘我」だ。外部にひたすらのめりこむこと。自分を限界まで排除して、外部と触れ合うこと。なんでもいい。表現でも会話でも仕事でもハンググライダーでも恋愛でも。自意識の内省とは、はっきり言って「つまらない」のだ。面白いものとは、常に外部にある。自意識は、最終的には自分すら客観化する。自己の中に意識が「あるという錯覚」を抱かせ、宇宙の一部である自己から内的世界へと移行する。だが、エモーショナルはいつだって肉体と連動している。自分の生物的な認知特性やそのときの気分に左右される。であるから、「面白い内省」などありえない。自己内省にエモーションが宿ることは一度もない。

 自意識が消えたら、自分はどうなるのか。簡単だ。宇宙の一部となって、自己が特権的なものから絶対的なものとなる。感覚は、いつだって絶対的だ。なぜなら共有も伝達も不可能だから。他者と世界は相対的だが、自分は絶対的なのだ。だからといって特権は付与されない。なぜなら、絶対性を保証する感覚がエモーションを得るには外部である他者と世界からなのであるから。絶対的であるがために、外部には却って謙虚に、慈しみが生まれる。僕たちは永続するが、感覚は生きてる限りだ。宇宙と比べれば、僕らの命はあまりに短い。なのだからこそ、もっと面白いことをしていこう。

 

終わり。大学の教授が卒業生へのコメントで「勉強は一生続くよ。死んだ後もね。」と言っていて、引用しようと思ったが冷静になるとイミフ過ぎてやめた。

なんとなく書いた詩

なんとなく詩を作ってみた。ほとんど全くの無意識で書いた。

 

人生の憂さを晴らしに行こう。物憂げな魂と共に。
鎮魂の歌の節回しで。節操も一切なく。
切なげだけど逞しく。不逞の態度で慎ましく。
慎重な足運びも今日で終わりさ。終末が習慣さ。
習い事を辞退して、退屈な毎日と戯れよう。
児戯にも等しい躁鬱だ。鬱憤晴らして衒いもない。
衒学者は何処? 処する手段も知らないくせに。
知識が全てと言いたげだね。言外の言も分からないっていうのに?
分別つけたら散歩に行こう。散々に飽きたら舞踏会。
踏破するのはまだ先かな。機先制して確実な地団太。
団地の子供は親も貧乏、貶めることだけが生きがい。
生活手段は事欠かない。事件が起きても何もない。
如何によっては死ぬのもあり。死産の子供は人身御供。
制御できたら天晴れだ。晴れのち雨のち曇りのち。
星雲見ても感じない。感性だけで潜ってこい。
潜水艦は僕らを救う。救済したら危機よこい。
危ない堕天は御免だね。罷免されても是非もなし。
非の打ち所を見つけてよ。見識つけて見た目は完璧。
補完するのが本質さ。質感は分子より強し。
強い子どの子本当はいない。当の本人忙しくて眩暈。
忙殺されるよ盲点に。観点変えたら正反対!
正しいことかな正解は、氷解するのはあの世でな。
世界は広いよ大きいよ、大吉引いたら極楽さ。
楽器を鳴らそう盛大に。隆盛なんてないも同然。
同じ運命背負ってる、背中にいつも君がいる。
君はどうかな狂ってる?狂気の果てでも歩いていこう。
歩くのやめたら消え行こう。行けども行けども人生さ。

今までのブログのテーマを集約している気もする。あと、絶対に不思議の国のアリスの影響を受けまくっている。今回は本当にこれでおしまいです。面白いかは知らないけど、なんとなく公開したいからした。以上。