そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

なぜこの作品は、大冒険が始まる前に必ず夏休みになるのでしょうか?


 今日から夏休みだ! とはいえ4連休なので休暇という感じはない。この程度ではバケーション気分を味わうには足りぬのだ。今日から夏休みというとメダロットを僕は思い出すのだが(主人公ヒカルの冒険は夏休みの幕開けと共に始まる)、授業を受けていることにすると行動が制限されるからそういう出だしにしているのは分かるにせよ、だとするとポケモンの「母さん俺は旅に出るぜ!」と言って小学生くらいの子供が旅に出るのはかっとびすぎと言わざるを得ない。こんなん許されていいのか? 
 登場人物を学生にしたり、学校生活を舞台にする場合夏休みは何かと都合がいい。メダロットみたいに「学生だけど学校生活を描きたくない」時の回避策に使えるし、普段は3連休程度が限度だから大冒険に行く余裕もないが、夏休みを使えば一か月は余裕ができる(こう言うと年齢一桁から平日は毎日同じ場所に通うって過酷だな。自分も当たり前にやっていたけど凄いことである)。作劇上のテクニックは考えると中々面白い。ラブコメでは海と林間学校とクリスマスを順番に回していくのだ。バトルものでは戦闘→挫折→練習と対策→勝利を繰り返すのがテンプレの一つでもあるし、こういう「うまいこと反復させる」ための方策は結構大事だ。そして、「クリスマスにヒロインと二人で過ごさせよう!」となったら両親を旅行に行かせたりして排除する作戦をとる。言ってしまえばご都合主義的な即興の話づくりなのだが、書き手の都合を気づかせないのも書き手側の腕の見せどころである。結局のところ物語なんて一から十まで作者の都合で作られているので、読者からご都合主義だと思われるかは単純に手腕の問題である。
 難しいのは、「簡単に言い訳できる場合と工夫が必要な場合」の二通りに分かれるところだ。さっき言った「クリスマスにヒロインと二人で過ごさせる」とかは読者側もそうなるのが当然と思っているしラブコメのテンプレとして頭に入っているので脳死で両親を旅行させてもそれなりに許容されるだろう。ただ、「主人公がヒロインを好きになる理由、もしくはその逆にヒロイン→主人公」ともなると創意工夫を凝らす必要がある(月がきれいでも目の前の女を好きになったりはしないのだ)。ただ、結局はそこも「周囲の状況に合わせて都合よく作られるもの」ではある。好きになる理由なんかはどこまでいってもこじつけになるから特にその傾向が強い。さっき言った通り自分の都合を都合よく隠すしかないということだ。ストーリーのためにキャラが存在してはいけないし、キャラクターを活躍させるためにストーリーを合わせてはいけない。っていうのは建前といえば建前で、別にしてもいいしその上で高い評価を得ている作品は一杯あるだろう。なぜ面白いのかというと「読者にそう感じさせないようにしている」からだ。読んでいる奴が気付かなければ、作者がそう考えていないのと同じことになる。
 大体こんなもんだろうか。なんとなく書いてたらストーリーテリングの理論になってしまったが、これはこれで書いてて楽しかった。またブログを書くときはやってみたいが、僕は思い付きでしかブログをやらないからどうなるかはわからん(今回も「今日から夏休みだ!」を出だしに思いついてそっから適当に進めてるだけだし)。「思いつきで書き進める」ということから閃いたが、後付けも文章制作の面白いことである。次はそのことを書いてみよう、その時思いついたらな!

終了。ブログ更新の、新たな手法が幕を開ける!

思いつくままに思いつきを書く思考実験第一回

文章を書きたいが何も書くことがないので、「とりあえず思いつきで文章を書くか」とやってみた結果、意外とまとまりを得たので記録として残します。どうぞ。

 

 

 

思いついた文章を思いつくままに書き留めるということは法外な困難を伴うが、不可能というほどでもない。実際、言葉にすれば簡単だ。今書いている瞬間に思っていることをそのまま書けばいいのだから。むしろ、そうやってリアルタイムにタイピングしていれば理論上無限に執筆することすら出来てしまうような気がする。しかし、それらは全て錯覚でありどこかで「有限」に到達してしまう。自らの寿命であるとか、ご飯を買いに行く時間とか肉体的な限界を除外するとしても、「思いつくまま無限執筆作戦」はいとも簡単に崩壊する。ただ思いついたことを書くなんて何の困難もないように思えるのだが、なぜだろう? 別になんだっていい。「目の前にモニターがある」とか、「スピーカーから音楽が鳴ってる」とか、「書きながら海鮮丼を食べている」とか、身の回りの事実を羅列していくだけでも十万字はくだらないはずだ。自分の部屋一つとっても、そこには膨大な「記述可能情報」が含まれているのだから。しかし、それは出来ない。「部屋を描写するだけなのに何故できないのか?」とあなたは思っただろう。工夫なく事実を記述することに苦悩する余地はない。なんなら、液晶モニター一つとってもベゼルの厚みや解像度や入出力端子の数とかもっとディティールの細かい情報は一杯あるし、それらに対して僕個人の感想を延々述べることだってそれほどの頭を使う作業じゃない。しかし、僕は今やってないのだ。こいつのHDMI端子とDisplayport端子の数を知っているし、数の大小について自分なりの意見を持ってもいる。しかしやることはないのだ。やってみてもいいのに、試そうともしないのだ。なぜなら、僕がそのことを思っていないからだ。書くことが出来ても、それらを記述することに意識を向けていないし、向けようとする気概もない。であれば意識を向ければいいように思うかもしれないが、そうしたら「思いつくまま」ではなくなってしまう。「思いつくまま」書くことで無限に執筆を続けられる目論見だったはずが、なんらかの意図を持つことで無限ではなくなってしまう。そして、それを言ってしまえば今書いていることもお「思いつくまま」と断言できるかは一抹の不安が生じる。今までの文章を客観的に考えた場合、テーマは「思いつくまま書くということについて思いつくまま書いてみる、ある種メタ的な記述」と言えよう。これは「思いつくまま」なのか? 僕の記述には「指向性」がないと言い切れるのか? そう問われると、ひどく不安になっていく。「思いつくまま書く」ということについて書いていた時、僕は自由闊達の極みにいた。「思いつくまま書く」ということはどういうことか、好き放題で無責任に、キーボードの上で10本の指が乱舞していた(タイピングがへたくそだから実質三本くらいなのだが、それについては目を瞑ろう)。だが、僕の「自由な思考」が自由ではないのではないかと、今正に論じられている。自分では気づいていないだけで、メタ的な手法を「意図」していなかったと言い切ることが残念ながら出来ない。もちろん、「意図していない」と断言することは簡単だ。テキストの上では、人間はいくらでもでたらめを書ける。だとしても、書けない事情が屹立している。この場合の嘘は、特定の「目的」があるからだ。目的があるならば、そこには意図があり、意識はそこに向いている。この嘘に「思いつき」は欠片も存在しない。よくよく見ると、上等なペテン師の腹の中と同じだ。結果的に、僕は苦悶の井戸に体を沈める。まるでそこが定位置であったかのようにしっくりくる。自らの自由を疑い、疑うことがそもそも自由ではないんじゃないかと疑う、猜疑と葛藤の無限反復が発生する。その時点で、「思いつくまま」ではなくなり、無限は両翼をもがれ有限へと叩き落される。だが、このように言うことも出来る。だから文章は完結することが許されているのだと。思い付きが出来ない目的や打算の末に書かれているからこそ文脈が生まれ、展開や構成を練り、起伏のある流れを作っていくのだと。無限とは、言ってしまえば何も起きていないのと同じだ。思いつきを垂れ流しただけのテキストに価値がある訳ないだろう。そうだ、ちゃんと考えて書けということだ! おお、結論に到達した。であるならば、最早書くべきことは一つだろう。終わり。

人として軸が間違っている人は、人ではありません


 9月。9月である。色々なことが始まり、そして終わっていった。色めいた神々は錆びつき、神話となって物語へと埋没し、また新たな季節が来る。それっぽいようで当たり前なことを言ったところで、さっさと本題へ入ろう。
 
 倫理とはなにか、という問いがある。このブログでこういうかたっ苦しい言い方は好きじゃないので、こう言い換えよう。やるべきこと、やっていいこと、やらない方がいいこと、やるべきではないこと、とはなにかということだ。それは時代や場所によって異なる、と思うかもしれない。確かにその通りだが、時代や場所に左右されるのは倫理ではない。それはあくまで社会的にやっていいか悪いかという尺度での話だ。つまりは、普遍的でなければならない。例えば、意味もなく人を攻撃するのは否定されるべきだろう。また、攻撃の一種として差別もやってはならない。こういうある種「一般的に駄目なこと」は世の中に流通している。
 ひとまず、ここでは差別発言や暴力といった攻撃的な言動を「やってはいけないこと」とする。こういった価値観は賛成か反対かはあれど欧米的な思想で生きていれば存在していることは知っているし、小学生に配られる道徳の教科書を開いたら一発で出てくる(ただ、僕は道徳的な人間ではないので教科書に淫らな落書きをして倫理を冒涜していたが)。僕も反対しないし、広まるべき考えだと思う。問題は、「やってはいけないこと」を「やってしまう人」の取り扱い方だ。現代は近代以前と比べて倫理に対して非常に敏感だ。だから人権問題が白熱するし、少数派への理解が誰であっても求められるし、客観的に思考して「やってはいけないこと」を分別する能力が求められる。そして、「やることを間違えた人」は「人として間違っている人」として断罪される。特にインターネットにおいては容赦なく、リアルに対面してないが故に無責任に裁かれる。「間違えた人」を攻撃するのは「やっていい」からだ。人によっては「やるべきこと」と言うだろう。「人として軸がぶれている」という2000年代に流行した小粋なアニソンがあるが、令和においては「ぶれている」なんて価値基準は考えにくい。正しいか、間違っているか。「ぶれ」なんていう曖昧なニュアンスが許されていたのはかつての話だ。
 ここまでは現代おける倫理のあり方について話した。これから話すのは、倫理を実践出来る心理状態についてだ。人を非難することは「やってはいけない」。しかし、非難することを止められない人がいるとしたら? 演技性パーソナリティ障害を抱えていたら、目の前の相手を延々と茶化しながら罵倒することがあり得るだろう。境界性パーソナリティ障害であれば、昨日は誠実で優しかったのに今日は嫌味ばかり言うことも起こりうる。これらの行為は無論「やってはいけない」。だが、これらは「人として間違えた人」として断罪されるべきか? 精神疾患がある人は病気なのだ、だから間違えても仕方がない、と言う人もいるだろう。だがここまで深刻でなくとも、幼少期に虐待されると恐怖が刷り込まれて反射的な言動をとってしまい、意図しなくとも攻撃的なアクションに出る可能性はある。というよりもっと事態は複雑で、意識的な暴力すら「過去の残影」なのかもしれない。もっと言うと、人によってトラウマとなるポイントは千差万別なので、あなたにとって何でもないことが当事者にとっては凄まじい恐怖として刻まれていることも考えられる。「やってはいけない」ことを「やってしまう」人が「なぜやってしまうのか」を、あなたは想像できない。一般的に、社会では理性的であることが奨励されているが、人間というのは想像以上に「生理的」なのだ。あなたは目の前の相手が攻撃してきたら非理性的で感情的な人だと思うかもしれない。しかし、主な原因が「低気圧だと気分が悪くなる体質で、その日は台風だった」という可能性も否定できない(僕は預金残高によって理性が高くなったり低くなったりする。みんなもそうだろ?)。
 高貴な理性を用いて本能を制御し、倫理的な言動を徹底する。実に隙のない行動指針だ。パーフェクト! しかし、ヒューマンはパーフェクトではない。ビス一つまともにはめ込まれていない欠陥製品だ。理性が重要であっても、人間から感情と生理的欲求を抜くことは出来ない。怒りがないなら人を悪しざまに傷つけたりしないだろう。食欲がないなら飢えのあまりパンを盗んだりしないだろう。不機嫌になることがなければ、理不尽な態度を見せつけてしまうこともないのだろう。だがそうはならないのだ。人間は完ぺきではないから。誰にだって、怒りや欲望や体調に突き動かされる時があるから。人類全体が理性的であることを諦めろとは言わない。だとしても、理性を邪魔だてするような衝動は無くすことが出来ないから、否定しても意味がない。そうなると取るべき行動は二つだ。寛容な精神で受け止めてやるか、気の済むまで喧嘩するか。僕は争いってのをそこまで悪く思っていない。命の奪い合いや過度の肉体的暴力ってなると話は別だが、口喧嘩やちょっとした取っ組み合い程度は後の人生に尾を引くほどの影響を残さないし、人間関係にとっていい結果をもたらすこともありえるはずだ。怒りが湧き上がることを止められない以上、「怒りのぶつけ合い」が起きるのもおかしいことではない。右の頬をぶたれたら、ぶった相手はクソ野郎。左の頬もぶたれた日にはさあ大変。生産性がない行為のように見えるかもしれないが、少し考えてみてほしい。一方的に感情をぶつけられている状況で抵抗が許されていないのもフェアではないだろう。理不尽な罵言を喰らったら、「なんだ、そのむかつく言葉は?」と言い返すことは間違いではない。正しくはなくとも、人として許されがたい行為ではないだろう。むしろ、自分がやられてもないのに間違っている人を攻撃する方が遥かに問題だ。そいつの間違いを正すのはあなたではない。間違いをどう取り扱うかは、被害者と裁判所が決めることだ。
 我々は、女神になれるだろうか? 一部の欠落もない、慈悲に満ちた救世神に。「間違えなければ」、それは出来るのかもしれない。だが、この世を見渡してみれば、女神は数多くないことが分かる。あるのは、女神によく似せた白磁の彫像だ。我々は間違える。右も左も取り違えたまま交差点を曲がりくねり、幾多の他人と無様な衝突を繰り返し、瘤と痣まみれの裸体を哀れむ。その時、我々はおよそ完全とは言えない。「間違えた人」は、その時点で「間違えたことがない人」には一生なれない。そして、間違えたことが一度でもあったら、最早それは完全ではない。こんなにも出来の悪い存在なのに、我々は完全になろうとする。時の中に過ちが刻まれていることも忘れて、傷一つない女神になりたくて生きている。あらゆる怒りや悲しみを乗り越えて、幸せに満ちた世界へ辿り着こうとする。
 ただ、やはり無理なのだろう。僕たちは古傷まみれだし、積み上げた債務はとっくに超過している。どれだけ自分を制御しても、なんとなく嬉しかったり、次の日には寂しくなったりする。色んな条件、様々な環境に左右されて、僕たちはこの瞬間を生きている。目まぐるしい感覚と感情の洪水に流されながら、なんとかやっている。全ては無常。常しえであることは許されず、日替わりの気分を味わう毎日。そうであるなら、今日の気分を楽しもう。昨日と違う、その日の気分のままに生きよう。日によって優しくて、日によっては怒られて、ただただ一日一日と過ぎていく。うまくやろうとはしているが、満ち足りた人生とは程遠い。常に改善策を考えても、最後の最後まで道半ば。人生は完成しない。いつまでもいつまでも、不完全な気まぐれに足元をすくわれる。だから今日の間違いは忘れよう。明日は明日の風が吹くから、その風に乗ってどこまでも行こう。成果が確実だったためしはないし、幸せは約束されない。明日が今日より良くなるか、明日にならければ分からない。だけど明日になって吹く風を、感じることは出来る。心が荒れ野原となっても、一陣の風は吹き抜ける。その風が草木を切り裂いているように見えるか、爽やかな風当たりを体全体で心地よく感じるか。生きていく中で僕たちが選べることといったら、それくらいなのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

終わり。今回は言い残すことはない。

真実はいつも複数ある!

 作品の方が進まないのでブログに逃げるでござる。このペースでの投稿など三年以上ぶりくらいじゃないかと思うが、良いか悪いかは微妙だ。まあこんな時もある。と、出だしは切り出したものの、話すことのストックはあまりない。

そう考えると昔の自分はどうやってあんなペースで書いていたか謎である。あの頃は作品を書いていないので書く量は今と昔でそんなに差はないんだが、今だとあんなにポンポン思想的な発想が出てこない。かつてと比較すると思想ってよりかは実作に興味があるので、当たり前っちゃ当たり前なのだが。
 作品が進まないと書いたが、どうやって進めればいいか。と、書いたところで作品に足が生えて完成に向けて歩き出したりはしない。「作品が進まないときの進め方」というハウツー本があれば、アーティストの間で大ベストセラーになるだろう(じゃあいっちょ書くか!)。この大ベストセラーに書いてあることはシンプルだ。「作品が進まないとき」の「答え」が書いてある。エクセレント! ……が、本当か? 本当に「答え」が掲載されているのか? 誰もを一発解決に導く、パーフェクトワールドが広がっているのか? そんなことはない、大体は失敗に終わる。そして、また違う「回答集」を探しに行く。度々思うことだが、学校のテストみたいな「正解」は実生活の上であまりないな、という気がする。正しさってのは難しくて、同じような状況でも正しいことが全然違ったりするし、そもそも一つの状況だけで正しさを評価していいのか悪いのか、みたいに考えていくと考慮すべき可能性は無限に増えていく。とある20代男性が「結婚した方がいいのかな」と思っていたとしよう(断じて僕じゃないぞ)。こういう疑問を抱いている人は割といるだろうが、こんなん考えようがなくないか? 結婚していいことは色々あるだろうし、悪いことも色々ある。結婚しなかった場合もまた同じ。一応、データだけで見ると30,40代の男性は独身より妻帯者の方が生活満足度が高い。そういう意味では結婚するメリットが大きそう、という考えはそこそこ妥当性があるように見える。
 だが、これは所詮「期待値」だ。データである以上一般論なのであり、独身男性Aがここに当てはまるかは分からない(これも僕じゃないぞ)。適性ってのは何でもある。他人と関わることが根本的に苦痛であるならば結婚しても無間地獄を見て終わりだ。で、一番問題なのが、既婚男性が独身男性よりも幸せってデータを生きる上での「正解」だと思い込み、その価値観に憑りつかれてしまうことだ。そうなると「独身=不幸」になるし、そもそも実際に結婚しても幸せになれるとは限らないので、結婚した方が幸せになれる確率が高いという「期待値」を求めに行ったのに結果的には独身で幸せになれる可能性を潰してしまっているので、皮肉なことに期待値はだだ下がりだ。ていうか、お前は今独身なんだから自分自身を地獄に落としてるだけじゃねえか。セルフデストラクトが極まっている。この辺は不幸に陥りがちな思考パターンでもトップクラスに入るんじゃなかろうか。「今ではない状態」に移行すると良くなると信じ込んでしまっているのだ。「隣の芝生は青く見える」とは悪いところが見えていないだけなのはよく言われるが、どちらかというと「変化=上昇」みたいな価値観に基づいているように感じる。現代は変化のスピードが早いせいで変わらないことが悪になりがちだが、それについては議論の余地がある。「独身のままで幸せになれる方法」なんていくらでもある。言ってしまえば、独身であることが「絶対的な不正解」であると思い込むからそうなっているのだ。そう、逆もまた真であり不正解を盲信するのも良くない。独身であることは変わらなくても、他を変えれば解決する可能性は大いにある。変えられるのが簡単なことと難しいことを判別し、変えたことで良くなることと悪くなることをジャッジして実行コストとリスクとリターンをひたすら管理し続けるしかない。めんどくさい? その通り。僕が好んで使う言い回しで表すと、良くなるっていうことは時間がかかって地道で退屈なのだ。嫌気がするような作業を積み重ね、刹那的な快楽を我慢して、忍耐強く取り組んだ先に待っているのは、別に凄く楽しいってわけでもない、苦痛が少ないだけの淡白な日常だ。そうした生活の良し悪しを判断するのは、各々に任せよう。
 図らずも幸せについて語っちゃったが、こうしてみると「幸せについて考えてしまう人は幸せになれない」ってのは真だなとしみじみ感じる。多分、幸せの最短ルートを求めるから結局幸せになれないのだ。最適解っていうのは落とし穴になりがちで、最適であることを至上とするから複数のプランを持てない。結果ってのはあくまで最終地点であって、到達できる手段は一杯あるしなんだっていいはずだ。百の計画を練っても、そのどれもが最適ではない。なら一番いいことはなんなんだって言うと、結局は迷うしかない。分かんないときは悩んで迷って考える以外の手段はない。そして、何年続けても答えは出ない。びっくりするくらい、何も分かっていかない。少なくとも僕はそうだ(単にアホだっただけかもしれんが)。でも、考えないよりずっといいとは確信している。じゃないとこうやって文章を書くこともしなかっただろうし、単純に生きるのが苦しかっただろう。だから、死ぬまで迷うのだ。永遠の迷宮を、入口も出口も分からず歩き続けることが人の生だ。だとしても、立ち止まったりありもしない正解を妄信するよりかは進んでいる方が気は楽だろう。そもそも苦痛が取り除かれた多幸感に満ちた人生なんて一生続けるのは不可能に決まってる。大前提として生きるのは苦しいのだから。だから僕はずっと悩んでいる。こういう意味不明な人間の心理構造を哲学的に思索している。こんなことをしても何の意味もないし、解決にもならないので、自分自身の苦悩ややるせなさと生涯付き合っていくことになる。ただ、僕はそうなることを知っている。今の退屈が久遠まで続いていくことを心の底から自覚している。だからずっと考えるのだ。誰にも理解されない「暇つぶし」を、一人で延々と。そうすることで、僕は人生を通した苦痛を信頼できるようになる。この痛みがあるから戦うことが出来る。叫びながらも、悪くはないと実感できる。自分がこの世界に立つ資格があると、僕は誰よりも理解している。

 

 

終章! 閉幕! 今日は気分がいいのでテンション高めで終わるとしよう。

金なんてどうでもいいというバンドマンは、金のためにコンビニでバイトをしていた


今回は珍しくそこまで間をおかずに書くぞ。

僕の周りには金に困っている奴が多い。コロナだから、という訳でもなく働いてなかったりフリーターだったり、という感じだ。自分も自分で安月給かつ散財癖があるので貯金はしばしば深淵を覗いてしまっているが(つまり、深淵も貯金を覗いている)、まあ他の奴よりかはマシだ。底辺争いということである。金の話は難しい。「金は大事か?」って問いはめんどくさい思想がつきまといがちで、論争の的になる。こういう質問は大体「金で人は幸せになれるのか否か」みたいな感じになりがちだが、これについては語る気はない。そんなのは人によるとしか言いようがなく、一般化して話す意味を見出せないからだ。
 ということでしょうもない質問は終わりにして、違うことを考えよう。金が幸せにできるとは限らない。が、「金は力である」のは間違いないだろう。「時は金なり」は真だが、「金は時であり力である」のも確かだ。家政婦を雇って家事をしてもらえば、それは金を使って無駄な時間を減らしたのと変わらない。ホームメイドが可愛くて献身的で眼鏡であれば格安もいいところだ。そして金は他人をねじ伏せられる。友達に親の金で独り暮らししながら就活しているが、こいつは親から死ぬほ文句とか注文を喰らっている。客観的に言えばどう見ても親が悪いのだが、金を背景にしているので力関係としては圧倒的に親優位になる(親の金で暮らしてるならそいつも悪いと思うかもしれないが僕は違うと断ずる。子供の許可を得ないで子供を産んだ以上、親が子供を養うのは当たり前だからだ。この辺は話し始めると長いのでまた後日)。金を持ってる側は駆け引きにおいて絶対的な力がある。正真正銘の「パワーゲーム」だ。
ここまで当たり前のことを話した。色々話してみたものの、絶対的な事実は一つだ。「なんだかんだ金はいる」のだ。幸せだとか力だとかそれ以前に、生活するだけのお金は必要だ。もっと当たり前のことを言ってるように見えるが、金ってのはそれに尽きると思う。金についての思想なんてどうでもいい。だって、それは「生活できるだけの金がある」のを前提としているから。人生において金とは何か。「生活に必要なもの」だ。これ以上何も語る気はない。そして、だからこそ金はめんどくさい。バイトで食い繫ぎながら暮らす売れないバンドマンがいるとしよう。いつかロックスターになることを目指しているものの、今は「ぎりぎり生きられる」だけの金しかもっていない。ロックスターになるには、バンド活動を頑張らないといけないのであり、ファミマでレジ打ちしても意味がない。じゃあなぜレジ打ちするのかというと、「生活するには金がいる」からだ。となると、バイトはやめて親の金で生活した方がロックスターにはなれる確率が高そうだ。ただ、親が死んだら悲惨なことになるのは間違いない。なので何か他の手を打つか、親が死ぬまでなんとしてもバンド活動で金を得られるようにしなければ。
 こいつの生き方を検討してみたが、なんでこんなどうでもいいことをしているんだろうか? バイトしなきゃとか、親が死ぬまでどうしようかとか、バイトすると時間が無くなるとか、親が死んだらどうやって暮らそうとか、あまりにもしょぼい悩みだ。なぜしょぼい? 簡単だ、彼は「バンドマン」だからだ。バンドマンはバンドをして観客を楽しませるために生きているのであり、品出しや発注をする使命はないし親の小言を聞いている場合でもない。でもやらないといけないのだ。「金がない」から。そうしないと生きていけないから。だからしょうがない。こうするしか、他に方法がない。僕だって納得いかんし、このよくわからんバンドマンも不満があるだろう。なぜ生活しないといけない? 自分はバンドをやりたくて生きているのに。なぜ、400円のシけた弁当のために、コンビニであくせく働かないといけない? なんで、金がないと生きられなくて、生活が出来ないんだ?
 このバンドマンの世界への疑問は筋が通っている。論理的に見れば十分に正しい。ただ悲しいことに我々は現実世界を生きている。「芸術家とは人間である以前に芸術家であらねばならない」というが、それでも彼は人間なのだ。お腹がすいて眠くなり、放っておくと栄養失調になって過労でぶっ倒れる、肉体を持った凡庸な存在だ。つくづく思う、我々はなんて平凡なんだろうと。こんなにも高尚で気高い志を持っているのに、なんで金がないと生きられないんだ? なんで、食べ物を食べないと死んじゃうんだ? 肉体とは目に余るほど鬱陶しい魂の入れ物だ。こんなものに、人生を制限される余裕はないのに! 
 こんな風に考えている内に、体は朽ち、思考は硬直し、自らの悲惨さに嘆息して死ぬしかないんだろう。それもしょうがない。逃れられることの出来ない、予め決められたつまらない終幕だ。世界の果てで、老いさばらえた自分は疲労のつまったため息を吐く。後は扉が開くのを待つばかりで、感慨にふける元気もない。それもしょうがない。だってそれ以外にやりようがないんだろう? 悲しみを覆い隠して進むしか歩くことが出来なかったんだろう? 元から選ぶことは出来なかったのだ。だからしょうがない。枯れた肌を震わせ、曲がった背中の痛みを誤魔化し、ぼんやりとした眠気を抑えながら、「どうしようもなかった」と呟いて、無垢な天使の歓待を待つしかない。いつか来るであろう天使に、心躍らせることで途方もない未来を耐えるしかない。それだけが、今生における唯一の救いだ。ギターを捨て、なけなしの金と使い物にならない心と体しか持っていない彼への、一番の手向けだ。とはいえ、目の前にいる天使こそ自分がいつかなりたかった理想であることを、否定することはやはりできなかった。

 

 

 

 

 

終ーわり。金について僕も色々考えたけど、個人的な結論は「やっぱりめちゃくちゃ大事」だったね! 結構納得できる答えである。

君はこのダブルラリアットをかいくぐれるか?

 

 おはよう。朝から雨だが頑張って散歩していた。小雨の日に歩くのは中々気分が良いもので、冷涼感が肌を通り抜けるのもいとおかし、である。傘をさすとソディス(ソーシャルディスタンスの個人的略称)が取れるのでそういう意味でも悪くないのかもしれない。
 傘は人との間隔を保つ。半径85センチがこの手の届く距離だから、離れないといけない訳だ。今言った冗談は巡音ルカの「ダブルラリアット」から引用しているが、しかし素晴らしい歌詞だ。心理的な距離を物理的な事実に置き換えて、孤独を巧みに表現している。この曲ほど「感性豊かな子供だったが、幼少期に家庭や友達に疎外されて人の気持ちを察することばかり上手くなってしまって踏み込んだ関係を持てない少年(あるいは少女)」を的確に言い当てているのを見たことがない(こういう子は摂食障害やパーソナリティ障害、アダルトチルドレン辺りを症状として抱えるメンヘラになりがちである。先天的にADHDもありそう)。我々はどこかで距離を置いて接しないといけない。しかし、そもそも距離を置かないことが出来るのか? 他人の気持ちなど分かりっこないのに? その理解が勘違いだとも思わず? だから、「人は所詮一人だ」という思想を持つ人は正しい。僕もこのブログで書いてきたが、それは正しい。所詮誤解や美辞麗句で人間関係は成立しているのだから、裸の自分を捉え切る「運命の人」は一生現れない。
 ここまでは過去に書いたこととあまり変わらない。今思うと、これはあくまで心理的な構造を描いたことだ。問題は「じゃあどうすればいいの?」ということになる。実生活に使える理論としなければ、全ては空振りに終わってしまう。
 少し話を脱線しよう。実用性を重視するのは、正直つまらない。そんな「庶民的な」考えは退屈である。だが、構造だけ描き出しても何も起きない。東浩紀等のメタ的な批評は見事だが、構造だけ抜き出しているから現実味に乏しい。結局、作品について論じるとは感覚的な影響を語ることじゃないかと僕は思う。作品の構造をただ語るのではなく、その構造が鑑賞者の情緒に与える要素を考えることが大切なんじゃないだろうか。学術的な論文や資料ならともかく、批評であるならなおさらだ。個人的な見立てでは、現代における哲学の価値とは正にそこだ。客観的な論理と今を生きている我々という主体を繋ぐのが哲学的思索であるべきなんじゃねえのか、と思うのだ。
 閑話休題(これを使いたくて脱線させた気がする)。人は所詮一人、この理屈は正しいとしよう。だから好き勝手生きろとか、自分を大事にしようみたいな意見はまあまあ見る。これも正しい。ただ、これは純粋で単純すぎる。好き勝手生きることを実践しても、日々の葛藤はあまり解消されないだろう。なぜか。簡単だ、「人は所詮一人」でも、「人は一人では生きられない」からだ。いくら好き勝手に生きても、それで孤独を埋め切れる人はごく僅かだ。というか、それが出来るのは「天才」だけだ。インタビューを受ける人は「天才」だらけだから言う人が少ないが、孤独に耐え続けられるということは相当例外的な才能に属する。いやー、無理だろ。僕も凡夫だから無理だ。じゃあどうすればいいかっていうと、実にシンプルだ。あなたは死ぬまで孤独である。これは変えようもない。それでも、仲のいい友達と話していて愉快な気分になったことはあるだろう。自分の悩みを汲み取ってくれて感謝したくなったこともあるだろう。この事実を大事にするってことじゃないのか? 生涯孤独なことは変えられないが、気心の知れた友人としゃべる楽しさが否定されるわけじゃない。「人との関りを楽しんでいる」という事実がなくなったりはしない。我々という主体には非常に重要な能力がある。孤独ではないと「勘違い」出来るのだ。論理が絶対でも、我々がその通りに思っているかは分からない。なぜなら、我々はいくらでも「間違える」ことが出来るから。論理的にはありえないエラーをいくらでも起こせるから。だから僕は「孤独だから孤独を受け入れろ」なんていう甘いことは言わない。「孤独だから孤独じゃないと勘違いしろ」と出張するのだ。んなこと出来るか、と切り捨てたくなるだろう。だが、友達と馬鹿な話で盛り上がることの「エモさ」は絶対的なのだ。孤独であることは事実だが、あなた自身はそれを忘れて楽しんでいることも紛れもない事実なのだ。そう考えたら、案外孤独ってのも大したことないだろう?
 オタク的早口で一気に突っ走ったが、まあこんなところじゃないだろうか。一つ補足すると、「孤独だから孤独じゃないと勘違いしろ」は少し過激すぎた。正しいっちゃ正しいんだが、ハードルが高すぎる。修行僧の方だけやればいいんじゃないでしょうか。もっと厳密かつ慎重に言うなら、「人とのつながりの中で、人間は孤独なだけじゃない」ってことだ。全てを突き詰めて客観的事実に基づくなら、確かにそうなる。だが、それ以外にも沢山の情報があり、思いがあり、伝えたいことがあるだろう。そこを忘れては駄目なのだ。本質だけを考えるのは論理の中だけでいい。主体というのは感情や勘違いや間違いといった雑多な情報を抱えた「エモい」存在なのだ。僕は哲学的な人間であるから、あくまで「人生を貫く本質的な孤独」を前提に据える。だけど、本質が僕を「エモく」させてはくれない。人間が「エモく」なるのは「エモい生き方」をしている時であり、本質に従って生きることが正解とは限らない(僕は変人だから、そういうこと考えてると勝手に興奮してるけど)。そうだ、「エモさ」に従え。長き船旅の航路は情動こそが握っている。論理は厳然として大地に根を張っているが、孤独な船旅を続けるあなたを導いたりはしない。死の瞬間まで寄り添ってくれるのは、誰でもないあなた自身のエモーションだ。

終わりである。今まで友達がいなくて、「仲のいい友達と話すときの楽しさ」の例えが分からない人は…… ええと、ええと…… ググるか、日常系アニメ「きんいろモザイク」でも見よう……(超適当)

コロナについて


おはよう。2021年初投稿と行こう。

 と、いう訳で長期間の休眠を経てブログを書いている。この一年は脆くも失われてしまった。尖った刃物は面白さを失い、奇人変人は生活に苦しむ弱者へと堕し、空っ風は来るものを歓待するーー そんな一年であった。(本当か?)なにはともあれ、久しぶりである。皆はあほらしいことをしていただろうか? それとも、世知辛さに迫られシリアスになることしか出来なかっただろうか? 僕は後者であった。
 僕の一年を振り返るのは前段落でお終いにして、違う話をしよう。色々と考えることが多かった日々を送っていたのだが(こういうとどんな日々でも馬鹿っぽく聞こえるな)、2021年になってしまった。勿体ぶった言い方をしているが、大きな変化があったかと言われるとそこまででもないかもしれない。人と接触する機会が減って、電車に乗らなくなって、外食があまり出来なくなる。事実だけで言えば、こんな感じで合っているだろう。ただ、これは一年が過ぎ去ったのを「振り返って」いるだけだ。もう少し苦しんでいただろうし、悩んでいることも多かっただろうし、体力も落ちていた。ただ、いくら大変でも過去になってしまえば「そんなもん」って感覚もある。喉元過ぎれば熱さを忘れるというのは、そう思うと言い得て妙だ。ひりつくような熱気はその瞬間にしか存在しない。出来事を羅列することは出来ても、体験の生々しさは置き去りにされたのだ。
 全ては過去に消えた。当たり前だ。過去に消えない現在などありえないのだから。しかし、僕は現在を持て余してるような気がする。あまりに超大で、どうしていいか分からない感じがする。それも当たり前だ。現在に根付かない過去もまたありえないのだから。いつもより密度のない日々を送ったのであれば、目の前の濃密さと対峙できる度量など持てやしない。だからまあ、こうやって取り留めのないことを書き続けて時間や自己を繋ぎとめておこうともがいてみるのだが、思ったより悪くない。キーボードへのリズミカルな打鍵は心地いいし、作業用BGMは日常を思い出すのには格好の逸材だ。好き勝手に書くというのもたまには良いもので、遠慮がいらない。結果がどうなると今行っている作業は良い。それが全てなのだろう。結果はまだいい。今はつまらないことをしよう。思いついた言葉を書き殴り、目についた物と戯れよう。自分自身のエモーショナルを捨ててまで他人に奉仕する意味もないのだから。人生は全て休息なのだろうか? それはまだ分からない。いつ立ち上がるのかは予測がつかないから。だったら、好きなだけ休憩しよう。なんなら、死ぬまで心地よく休み続けてしまおう。
 うん、そういうことだ。良くなるかどうかは、いつだって闇の中。だから、やれることは眠ること。中々合理的だ。「ゆっくり」するか、「焦って」いるかは、結局のところ己次第でしかない。問題は、ゆっくりすることに納得出来るかということに尽きるのだ。いつ覚めるか分からない眠りの、長い夢。このまどろみは行動を阻害するものではなく、安眠を促進するためにある。疲労とは悲嘆に暮れるためにあるのではなく、存分に寝転がるきっかけなのだ。そうじゃないなら、なんなのだろう? 疲れたら寝るのが人間だろう? 気概だけが空回りして、絶望に陥る意味はないだろう? 疲れた。久しぶりに思考した。しかし、悪くはない。疲れを利用するのは自分だ。こいつは最上級の行動材料だ。あとはベットに行くだけ。暖かい毛布にくるまり、回復していくだけ。死ぬまで続くなら、それもいい。だが、そこまで人生は出来のいいものではないだろう。


終わり。勘がつかめないのか私小説とも長い詩とも思索的なエッセイともつかない謎文が出来てしまった。が、いいんじゃあなかろうか。