そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

物語と私(前篇を読んでから見てね)後編

こうやって、机に座り文章を書く。書くこともないのに、書ける時間は(今現在)5分もないのに、体調も恐ろしく悪いのに、とりあえず書く。ここになんの意義があるだろうか。実益がそこにあるのだろうか。いや、逆なのだろう。書くことでしか、解決ができないということなのだ。原理も原因もわからないが、直感的にはそう思える。連続的に意味を連ね、論として構成するやり方が自分の性にあっているという、ただそれだけなのだろう。メダロットでは全てをロボトルで解決するように、ポケモンならポケモンバトルで、遊戯王ならデュエルで、僕ならばこうやって書くことで、という感じである。吐き出さなければ、感情は閉塞されたままで行き場を失い、毒として体を滞留する羽目になる。であるなら、ロボトルをしなければならない。全ての決着ガンダムファイトでつけるしかない。創作行為はアートセラピーとして臨床でも使われるが、確かにカウンセリングに似ている。セルフカウンセリングは本来なんの効果もないのだが、創作においては「表現理論に則り創作をするエンジニア(あえてアーティストとは言わない。ここでは創作行為を理論の体現と主観的感情の発露とで分ける必要があるからだ)としての自己」と「主観的な価値観や情動を伴った主体」が分離し、対話的な作用を発揮するのだ。分析することで原因を知り、ときには強引に全てを意味付ける。
我々は理由がない状態に耐えるのは困難であるから、妥協的に新たな価値を、希望を生み出すしかない。完全な実益の元に生み出される、人生の意味。前に進むために偽造される、前向きな思考。しかし、そうやってごまかすことは許されていないのであろうか? 僕たちは本物であるべきだろうか? 真実を追い求める求道者たるべきだろうか? 書くときに、僕は嘘をつく。思ってもないことを綴り、考えてもいないことを堂々と語り、断ずる。嘘に満ちた、真実を小馬鹿にした、見事に劇場化された、物語。なにが変わったろうか? 一雫でも得るものがあったろうか? 真実に固執すれば、もっといい未来があったろうか? 物語よ、一体お前は何を語るのか? 出会えたことに、慣れ親しんだことに、一欠片の後悔もなかったならば。ここにいる全ての原因を解き明かしてくれたら。僕の物語を、お前が語ってくれたら!
語ることでしか、伝えることはできない。言葉を用いなければ、思うことはできない。そろそろ終わりにしよう。洒落たとんちは懲りたろう。また、物語を書かなければならない。無感動なお話を始めよう。打ち明け話と、褪めきった思い出を情熱的に披露しよう。全ては昨日のつづき。移ろいゆくも、全てが模倣に見える毎日。だから、きっと書けるのだ。今日書けなくとも、いつかはやってくれる。苦痛の中で、苦痛が悪くないと思える瞬間が来る。狂おしい時の流れは故郷すら洗い流し、否が応でも僕たちを癒す。複製された日々でも、ここぞという刹那がある。物語は何も語らない。だから僕は嘘をつく。その嘘がまるで真実にしか見えないように、朗々と語る。生きる意味が幻想だと思えないよう、物語であることを演じる。





うむ、終わりだ。以前友達に「俺の人生は百戦して百勝する人生だ」と言ったことがあるが、こうして読み返すとそんな感じはするな

物語と私(いかにも国語の教科書的なタイトル)前編

今から書くことは愚痴とか弱音の類であろうと思う。
笑えることに、書く内容もよく決まってはいないのだが。
だが、これより綴る文字を無根拠ながら公開したいと判断したのは確かだ。

 去年の今頃から物語を鑑賞しなくなった。
 全くという程ではないが、三か月に一遍友達の作品を読むとか、その程度のものだ。これは小説のみならず、漫画、アニメ、ゲームといったストーリーのあるものすべてを指す。ちなみに本は読んでいる。ただ、臨床心理とか神経科学とかの学術的な研究の一般書をひたすら読んでいるだけだ。物語はひどく興味がなくなっていった。つまらない訳ではないことを知ってはいる。面白い物語がまだまだこの世にあふれていることも知っている。だから俺が読まなくなったのは理性的な問題ではないのだろう。趣味嗜好の変化だとか、(メカニズムはわからないが)生理的に拒否反応を示すような感じなのではないか。それでも、「理性的」に物語を語ることを許してほしい。
 数年前、大学生だった俺は物語が好きだった。前衛的な文書に恋い焦がれた時期もあったが、やはりストーリーは前提としている、という結論にその時は至った。それで書く文章もストーリー性を持たせるようになった。芸術系の大学だったのでそういうことを考える機会は多かったわけだが、そもそも俺は小さい頃から物語が好きだった。2歳くらいの時は母親に読み聞かせしてもらって、一行飛ばしたら文句を言っていたらしい。4,5歳になると自分から本を勝手に読みだして、今まで読書の習慣が絶たれたことはなかった。そのせいか文章は好きか嫌いかというより、もっと習慣的なものとして捉えている。
 大学生の頃は、キャラクター論もよく考えていた。長い文脈から構成される厚みのあるキャラクター像とは、なんと魅力的な存在であることかと思ったものだ。サブカルチャーと絡めて東浩紀大塚英志も読んだりした。知識を深める度に、キャラクターと物語が織りなす構造の美しさ、その精緻さに心を奪われたものだ。なぜ冷めてしまったのだろう? かつての興奮が嘘のようだ。
 なんとなく、いつからか思う時があった。物語は、キャラクターの関係性に帰結しすぎると。当たり前といえば当たり前なのだが、問題は構成要素の中でも影響力が強すぎることだ。バトルでも、ラブコメでも、四コマでも、スポーツもので全てはキャラクターの変化が主眼となる。物語の性質がいくら変わっても、「キャラクターをどう動かすか」に終始する。そして、そんなことは誰もがわかりきっている。だけど、そのことがひどく気にかかるのだ。俺が正しいとしても、だからとって物語がつまらなくなったりしない。そういった構造を有した上でも素晴らしい作品は作りえる。それも分かってる。だから俺自身の問題に過ぎないということでもある。俺自身の問題だということも、最初の時点で分かり切った話であろう。であればこの文章は何ら意味をなさない。じゃあなぜ書いているのかというと、物語を楽しめなくなったことが、たまらなく悲しいからだ。悲痛で、悲痛でしょうがない。楽しみたいのは本音だ。だが、感覚が言うことを聞いてくれない。上述した考えが、頭をよぎっては文章を無機物化する。何より嫌なのが、最近はこの思考が一過性でないように思えてならないのだ。一年経っても消えないどころか、感覚はますます確信を得る。だから、自分自身の問題でありながら、なぜ俺はこうなるのだろうと嘆くことに逃げるしかなくなる。そう、困っているのだ。楽しめたものを、楽しめないことに。違う楽しみを得てはいる。更に言うと、その楽しみは物語すら超えるほど楽しくもある。だからといって、代替物にはならない。多分そこには、ノスタルジアも含まれている。人生のほぼ全てを通底していた、誰よりも長い付き合いだった存在が、もう何も目を惹かなくなってしまったのだ。こんなに分かっているのに、こんなに愛しているのに!
 ……まあ、もうよそう。十分喋ったし、気も晴れたろう。賢者タイムだ。しかし不思議なこともあるものである。単に俺が病んでるだけだからなのかもしれないが、深く考えるのはよそう。俺は賢者だ。思考は一度捨て置け。
 そして今綴られたこの文章に、なんの価値があるだろう。書くことで何かが変わったりしただろうか。暴露的な文章を書くことの医療的効果はどれほどだろう。簡単だ。価値もあるし、きっと何かが変わったし、効果もあっただろう。人は書くことで救われたりはしない。でも、書いてみるしかなかったのだ。物語が色褪せたなら、色褪せた物語を語るしかない。埋葬的な手続きの中で、我々は真実を知る。セピア調の回想録が無意味だったりはしない。だから俺は書くしかなかったのだ。深い悲しみに、墓標を立てることを。長いまどろみが、いつまでも続くよう願うことを。

人並みな幸せから繰り出される健康な人生

 久しぶりだな! 作品が終わったので戻ってきたぞ!

  プロットのストックがないので、1作品書き終わると手持ち無沙汰 になってここに舞い戻ってくる羽目になる。 次の作品はプロットを綿密に書いてみようと思ってるからブログは 結構書くかも。ここは作品がすぐ書けないときの逃避先なので。

  愚痴になるが、今回書き上げた作品は出来が良くない気がする。 前回も微妙だったし、なんだかなあ!  流石にしんどいといえばしんどい。能力の低さに嫌気がするし、 作り上げられた作品達にも申し訳ない。こんな親でごめんよ。 音楽方面も中々上手くいかんし、 流石に俺でも打ちひしがれるものがある。とはいえ、 どうせまた書くのだろう。今も書いてるし。 昔はやるべきこととか、 頑張ることに意味はあるのか悶々としていたが、もう違うぞ。 別に過去疑問に思っていたことが解決したわけではない。 やるべきことは特段ないし、頑張ることに意味もない。 それでも俺はまた書くのだろう。最近わかったことはそこなのだ。 色々うじうじ考えても、また机には向かっていくのだろう。 なぜなら、結局どこまで言っても俺はオタクなのだ。 それ以外にやることもない、暇で悲しき生き物なのだ。 根っからのオタクがいくら自問しても意味がない。最終的には「 オタク活動」に終始する宿命を背負っているから。それ以上にも、 それ以下にもなることはできない。だから、 最近の人生目標は「気ままに(文字通り気のままに)生きる」 にしている。考えていてもしょうがないので、 気のむく方へ生き抜けばいいんじゃない? と。でも俺の気とはやはり「オタク活動」なのだ。自分の強烈な「 オタク性」がそうさせてしまうから。そこに選択権は一切ない。 俺自身が、「オタク性向」の奴隷なのだ。

  もし、誰かに「オタクでよかった?」 と聞かれればどう答えるだろう。多趣味な人を羨むことはある。 コミュニティで楽しく振る舞い、 連夜のどんちゃん騒ぎに憧れてもいる。 俺はそれを洞窟から見ることしかできない。 口を開けば表現論か人生哲学か臨床心理。 そんな奴がパーティに加入できる可能性はあるわけないので当たり 前だが。そこにあるのは虚しさでない。俗な快楽に対する、 非常に通俗的な羨望である。洞窟は洞窟でいいもんだが、 やっぱりひなたが気にかかる。凡人くさい発想もいいとこだ。 ただ、俗な快楽を切り捨てるのもどうなんだろう?  と頭をよぎるときもある。外の世界をシャットアウトすると、 今度は洞窟内で人も文化も循環させるしか無くなる。 それはそれでグズグズになりやすいのも確かだ。 サブカルチャーの不健全さとは、 そういうところに由来しているのも否定はできないだろう( 社会全体が不健全化したのか、 サブカルチャーがメジャーシーンに出てしまったが)。 ひなたの馬鹿騒ぎだけだと冷静さを失うが、 洞窟にこもりすぎると行き詰まる。バランスだよ、バランス! というなんともつまらない結論へ到達する。

  とはいえ、詰まるところそういうことじゃなかろうか?  人間関係だって、 社会的な存在として私的な自分を隠蔽しつつ最初は接して、 仲良くなるにつれて不足なく自己表現できるようになる。 個性を隠しすぎると個人性が消滅し、 曝け出しあって密着すると極度の依存関係に発展する。 依存症について書いた「愛着障害アディクション」には、 社会的なやりとりと自己表現を状況や関係性によって押し引きする のを「健全な人間関係」だと定義している(俺はこれを「 仮面のずらし方を変えていく」と呼んでいる)。健全さとは、 健康であるとはバランスの上に成り立つのだ。 極端に走ることなく、 二極の間をどう押し引きしていくか見極めていく。 そういうデリケートな作業をして初めて実現するものであって、 めんどくさいといえば滅茶苦茶めんどくさい。 それになんとなくつまらない感じもする。 苦労をして得られるのは、 安定してはいるが慎ましくささやかな喜びである。

  だが、それこそが「続けていく」ということなのだ。 今日が終わって明日が、明日が終わってその明日が…… 一定のスケールを持って繰り返される日々というものを、 あまりに途方も無い人生というスケールを我々は過ごしていく。 例え強い快楽を捨ててでも、健全に生きて「続けていく」 ことが重要なのだと自分は判断する。極端な生き方を選び、 刹那的な強い快楽と人生を通底する本質的虚無を共にするよりも、 永続するゆるい満足感を得ることに価値があるのだと。 そう生きることで、あまりに長い一生に相対した上で「 気ままに生きよう」と俺は選び、ひた走ることを決めたのだった。

 

 

 

 


エンド。終わりを英語にするとこんなにカッコよくなる。



 

行くべきだ。しかし待つことしか出来ない時もある

 このブログの更新頻度が上がってきているときは書くことがない時である。本当は作品に取り掛かりたいんだがなあ! とりあえず僕が立ち直るまではお付き合い頂きたい。
 しかし不思議なものだ。精神的な問題はないし、やる気がないという訳でもない。ただアイデアだけがぽっかりと失われている。そういう時は待つしかない。時間だ、時間が俺に解決をもたらす! とはいえ、待つとは焦れるものだ。かといって、起こすべきアクションもよく分からない。出来ることは、こうやって書く作業を鈍らせないようにダラダラ書き続けていくぐらいだ。太宰治の「待つ身と待たせる身、どちらが辛いか」はその通りで、動かないで解決できることよりも動いて解決できるほうが健全ではある。ある意味パニック障害的な原理だ。パニック障害の症状として、動悸が激しくなったときに「このまま動悸が収まらなかったらどうしよう」と思ってしまうことがあるらしいが、確かに似ている。パニック障害も基本的にはただ待つことしか出来ない。待つことしか出来ないと、人は「一生解決できないのでは」と思ってしまう癖があるのかもしれない。実際には時間が経てば大体の問題は解決するのだが、そこまで冷静にはなれないのだろう。ちなみに、医者から診断されたわけではないが僕もパニック障害的な症状が月一で来ていたときがある。別に病んではいなかったので原因は謎だが、なってみると厄介なものではあった。あれの本質体な問題は先述した「ただ待つしかできない事から来る不安」と、「いつ起きるか分からない恐怖」である。症状自体は生活に大きな支障はない。いつ終わり、いつ始まるのか見えないことに神経をすり減らすことが危険なのだ。症状自体が「潜在的」と言えるだろう。
 と、パニック障害はいいとしよう。もうこいつは暫く僕の元には来ていないし。しかし、やはり待つのは不安だ。頑張ることで救われる方がよっぽどいい。時間こそ何よりも人を癒す道具だが、例外の一つとして家庭環境がある。自分の生まれ育った家庭環境は、意識して改善しないと一生引っ張る。自分の受けた教育を「反省」しないといけないのだ。良かったか悪かったか判断して、自分への影響を調査して、適切な対処をしなければならない。人は意識していないと人から受けた行いをそのまま他の人にも行う。先輩からこっぴどくしごかれた後輩は、先輩になった時後輩をこっぴどくしごくのだ。幼いころの自分は、過去で僕たちを「待って」いる。その時は迎えに行かなければならない。そして、かつての自分に意味を見出してやり、必要なら「もう大丈夫」と言って抱きしめてあげるのだ。だから「反省」とは「帰郷の旅」でもある。自分の経験や体験を反芻し、自分の残像へ会いに行く。会いに行かない限り、過去が歩き出すことはない。それに現在のあなたも縛られ、同じことを無意識に繰り返す。時間は傷を治すが、傷ついた分だけ脆くなったことには気づけない。だから出かけよう。愛されていたのならもう一度噛みしめ、そうでないなら自分で不安がる幼子を愛してやろう。そうして、あなたは現在の自分自身を抱きしめられるようになるのだ。

一瞬を切り取り、永遠を広げ、狭間だけが残り

今回は前回に引き続き「書くことはないがとりあえず書くシリーズ」の一つです。それではどうぞ。

 こうして文字を打ち並べること。言葉が意味を成し、無意味と共に連なること。自らの詩性に耳を傾けること、論理を一つの書として体現すること。全て言い方を変えた一つの概念。修辞法に人生を費やし、文法に己を奉ずる。ただただ、打ち放たれる文字群。内へ、放たれる放言。不完全な唇で言語性を探し回り、無空。
 「書く」とは、なんだったろうか。どんな感情が伴う遊びであったか。あらゆる余暇を打ち捨て、文が章立つ。語句の意義、蓋然性、計測するに値する価値の定義。空漠のページに一滴。無に積み重なる理論粒。賽の河原にて一人、巨城と接続。そうやって孤独を深めるのだろうか? あるいは、永遠と深い仲になるのだろうか? 考えた上で考えず、突き詰めたうえで帯を解く。この意味内容はあなたか、あなたの欠片か、ただの文字群か。流れる音、揺蕩う水素、暑さ寒さ、事柄へと消え虚しさを知る。全てを愛せる貧しさと、拒絶して成り立つ豊かさとを。いつ終わり、いつ始まったかすら終ぞ忘れる事件ファイル。目線が重なり、情報を詰め込み、誰もが全てを忘れる。戻ることは出来ても、進むことはできず、現在の最奥で古傷に震え。
 そうだ、失うことが出来ただろうか? 自由にかじかむことは出来ただろうか? 出来れば、戻ることが出来ないか? 手に入れた黄金は幻想、錆びた真実は過去の中。今を嘆き、虹色の時代を思い描き、灰色にくすんでいく。闇夜にも行けず、がらくたは捨てられず、ただ望まぬものばかり手に入れる。失うことは出来ない…… そうして、高みから希望を見下ろす。手遅れな目線を高らかに向けて。生き方によって賞罰がつけられ、何もできず朽ちてゆく。否応なしに、分別なしに、焦げカスへと近づく。何をやっても遅すぎたのだ。
 ここにあるのは車椅子。踊るだけの意志をなくし、揺りかごで忘れられる。なにもかも思い出せる。なにもかもを輝かせる。しかしここにあるのは車椅子。足をなくした代用品。それこそが与えられるものの全容だ。安らぎを見せる薬。かつての景色そのもののハリボテ。ひもじく貪り食う。食っても食ってもひもじい。だから眠る。踊ることが出来ないから、車椅子に身を預け、青空を願う。
 空無の中で夢を見る。でも、僕は肯定できる。悲嘆の氾濫を、優しく抱き留められる。だから書かないと。希望は綴ることでしか表現できず、我々は言葉しか喋れない。それこそが永遠で、満ち足りた世界を駆け巡る安らかな眠りだ。意味が全てを変えてくれる。風はどうあれ、風向きは好き勝手にできる。速く走ることは難しいが、今すぐにでも走ってやる。信じられないほど無力だが、ためらいはしない。体は駆動し、現実を感じる。脳が作動し、物語が始まる。心はここにある。誰にも近づけない祈りを以て、頬が触れるほど近くに。

回るメリーゴーラウンド、ラウンドゴーメリー回って

 最近、原因はわからんが停滞感が半端ない。別につまらない感じはしないし、ひどく悲しいわけでもないし、文章や音楽を鑑賞することを極端に怠ってはいないのだが…… 作品へのアイデアが出てこないのだ。今も「文章を書く気はあるが書くことがない」状態に陥っていて、しょうがなくエッセイ的に書くことで何とかネタをひねり出している状況だ。こういうのは原因がよくわからないから困る。原因がないから対策も朧で、特効薬は処方できない。本当はもっといい感じに、ウキウキしながら文章を書いていたいのだが…… キーボードを打つ感覚が妙に乾燥的だ。こいつはまずい! 警鐘が鳴り響いておる。問題は「もしかしたら今後ずっとしばら続くんじゃね(続いたらどうしよう)」的な悲観主義が頭をよぎっているところだ。明らかに無駄で非生産的だ。唾棄すねば。
 しかし辛い。今は感覚や思考をいつも以上にリアルタイムに描いているような状況だが、なぜそうなるかというと「先読みできないほど書くことが枯渇しているからに他ならない」からだ。うう、苦しいようママン。パパン。じじい。とはいえ、結局このような現況を打破するのは「ひとまず何でもいいから書いてみること」であるのは知っている。書きたいなら書くしかないのだろう。脳の言語野をダイレクトに刺激するのには書くことが一番なのだし。で、やってはいるが本当に苦痛だ。書くこともないのに書くのは、胃が空っぽなのに強い嘔吐感があるのと比喩的には近い。つまり俺の書いている文章は内容物ではなく胃液!
 で、まあこうして粘ってはいるのだが。こうしているとふと思う。「なぜここまでしないといけないのか」と。確かにそうだ、こんなにする意味どこにもない。僕がかつて持っていたニヒリズムがまたここで顔を出す。やや呼吸が荒く、不規則な貧乏ゆすりをしながらいつもより強く打鍵しているこの現在の、どこに喜びがあるのか。帰って寝るか、やりかけのキングダムハーツでもしている方がずっと楽しいだろうが。でもここにいるのはなぜかよく分からない苦悩と向き合っている自分だ。なぜだ。意外と書くことが好きなんだろうか。マゾヒストなんだろうか。判断力が鈍ってるんだろうか。どれもしっくり来ない。そもそも、文章も音楽も基本的に作るのも鑑賞するのも苦痛なところはある。自分でもなんでやっているのか未だに分からん。いや、楽しくないと言ったらうそになるのだが、かといって苦痛なのも事実だ。よう分からんわ…… 人生、不思議が多すぎるねん…… なんなんだ、一体。そういわれると、僕はなに突き動かされて「行為」するんだ。逆か。だらだら生きているだけか。ひょっとして自我も欲もない、無なのか。神経科学的には人間に意識はない。そうだ、僕の意識はどこだったろうか? 全てがミステリーかつミステリアスなこの状況では、自己を分析する材料は何もない。なんだ、今の「行為」は。誰もわからないぞ。書いても書いても、なぜ書くかはわからない。「行為」しても「行為」しても、なぜ「行為」するかは分からない。そんなものなのかもしれないし、それこそが本質なのかもしれないし、僕が狂っているだけなのかもしれない。そこには後悔もなければ充足もなく、辛酸もなければ栄光もない。ぼっかりと「行為」が浮かび上がり、その主体は僕。眺めるだけの僕。踊らされる僕。そして、ここまで書いて僕は今までの文章の意味を理解することができ、「執筆行為」が完結する。

病は気から、気は病より、というわけでリッスントゥミュージック

インフルだ! 3年ぶりくらいかな? 僕は一年に一回は風邪とかで寝込んでしまうが、去年はそれがなかった…… と思ったときにこれだ。こいつは参った! 今週の土日に実家帰ろうと思ったら怪しくなっちゃったし、被害は甚大だ。

 発症から5日ほど経過してほぼ回復したが、あまり無茶はしたくない。というわけで友達がブログでやっていた「シャッフル再生しながら関係あることないこと好きに語る」のをやってみようと思う。手抜きじゃないぞ、こっちは真剣だぞ。

 

joep beving「the gift」

去年購入したアルバムの収録曲。ジャンルで言えばポストクラシックらしいが、ピアノソロなのでいまいちどう「ポスト」なのかわからん。耽美的で美学的だが、映画音楽っぽい大げさな感じもあるので分かりやすい。ポスクラの方々は映画音楽作ってる人多い印象あるし、その辺の影響があるのか?

 

U2「ultraviolet」

大学時代によく聴いていた。そのとき出来の悪いU2の評論を書いたが、こいつを絶賛していた記憶がある。今でも普通に良いと思うがね。しかしまあ、U2の強烈な郷愁漂うサウンドを前に過去を振り返ると、過去の何もかもが遠く離れていったように感じられなくもない…… そうやって強くもならなければ、痛みを超えても行かない。ただ、過ぎ去って、流れ去るだけ。過ぎ去る間に得られるかは、自分次第。それくらいに捉えたほうが、シンプルだしドライでいいんじゃなかろうか?

 

アナログフィッシュハーメルン

これまた大学時代。この頃が一番聴いているから当たり前だが、このバンドは作詞をした人がボーカルを担当するスタイルで、このことからビートルズとの関連を調べていた論文がネットにあったけど面白かった。ひと昔前のサブカル女子必携だったらしいが、そういう感じの音楽性はしている。友達に貸したら「昔の姉貴が腐るほど聴いてた」みたいな感想が来て、なにか申し訳ない気持ちになった。

 

rage against the machine「know your enemy」

病み上がりかも怪しい時に重低音はきついです。中学の時に大層衝撃を受けた、未だにミクスチャーでは僕の中で最強格のバンド。ユナイテッド・キングダムの感傷性を全て吹き飛ばすような爆弾である。表現において多様性は何よりも重要ではあるが、そんなしみったれた音楽聴いてないでヘドバンしようぜ! と言われればこちらは何もできなくなるのも確かである。

 

pendulum 「propane nightmares」

みんな大好きペンデュラム。構成がどうこう、展開がどうこう言う前に、かっこいいからいいか、となる音楽である。今聞くとボーカルのメロディとかは凄い良いな。ヒップホップのパンチラインとかもいいの書けそう。しかし、厨二である。プロディジーがプレステ1みたいな世界観だとしたらペンデュラムはプレステ2的な世界観を感じる。

 

duku ellington「moon indigo」

突然のエリントン。良いとは思うんだが、現代でもなお傑出してるかといわれると疑問ではある。やり過ぎなほど素晴らしくムーディーだが、ムードという単語と僕は無縁なのであまり聴きたい機会はなかったりする。部屋でしゃべるときの音楽をかけると友達に苦情を言われやすいので、その辺のセンスがないらしい。

 

professor longhair「mardi gras in new orleans」

更に遡りニューオーリーンズ! 俺のウォークマンも渋い奴だ。これはこれでいいのだが、普段から聴いてる人はかなりイカれてるだろう。彼のためにタイムマシンを作ってやろうか。

 

初音ミク「monochrome giri」

現代に戻ってきたよ! 初音ミクの切ない声は妙に心に響くのだが、「中の人」の声が優秀なのか、メーカーの努力なのか、作曲者の調教の賜物なのか判断しにくい。しかし、バーチャルアイドルとして世界的に活躍している以上、「凡庸な歌い手」よりは遥かに実力のある「歌手」ではあるんだろう。

 

nine inch nails「the wretched」

 ラストにふさわしいのでラストにしよう。インダストリアルメタルの名盤から。

 鬱病マックスのボーカルが完璧主義を極めた、二枚組二時間越えのくせに無駄がほとんどない恐ろしいアルバムである。鬱病の人間は精神的に正常な人間よりも客観的に物事をとらえられる傾向にあるらしいので、完璧な物を作りたいときには案外向いている状態なのかもしれない。

 というより精神的に正常な人間は思ったより客観的でない側面もあるようで、自分ではどうしようも出来ないことも操作可能だと思ったり、変な読みを加えたりするらしい。ある実験で、上か下かを当てるテストをした。上を示す可能性が70%、下を示す可能性が30%である。当然、上を予想し続けるのが期待値的に最も高いのだが、正常な人の大半が下も予想するときがあった。理由を聞くと「そろそろ下が来ると思ったから」だそうだ。逆に、鬱病の人は半数以上がひたすら上を予想し続けたらしい。(とある鬱の漫画で「客観的になったのに鬱になるんですか?」という問いに「世の中は冷静に見れば悲劇だらけなのかもしれない」と答えたのは個人的に印象深い)実際、主観性はポジティブな力で、客観性はネガティブな力という印象も受ける。偏り過ぎると危険なので、両方バランスよく上げていこう。

 で、この曲に移る。ボーカルの持つ強烈な文学性が作り上げる無二の世界観と、冷静に突き詰め切った構成、音響、各パートのアンサンブル。冷静な曲作りが世界観を確固にして、彼の文学性がただ完璧なだけのつまらないアルバムにしない。自分のどうしようもなさをぶちまけながらも、衝動に全く任せきらない、偉大なワークだ。次のアルバムは鬱が治ったためか明るい曲調になったが、これほどの出来ではない。なぜこのアルバムが最高傑作になったのか。鬱であることに必然性があったのか。鬱でなかったとしても最高傑作を作れたのか。わからない。それが分かったら苦労はしないのだ。

 

終わり、駄文だが、気晴らしをしたいときだってあるさ……