そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

男らしくなれない男たちの明日はどっちだ!

 僕は男だが、男らしいとは言われない。かといって中性的なわけでもなければ女性的とも思われていない。僕も生物学的に男であると認知はしているが、あまり男らしさにこだわった経験もない。というより、かっこいいとかかっこ悪いとか、洒落てるとかださいとか、そういう感覚的な尺度で物事を選択するタイプじゃない。単に面白いか面白くないか、だけである。だからイタリアのプログレとかもダサいと思わず普通に聴くし、ポーもすげー! って純粋に喜べる。小中学生的な審美眼である。

 しばしば言われる「男らしさ女らしさは押し付けられたもの」という概念。僕は特に精査してないからこれの真偽は分からんが、とりあえずこの考えが流布されて「社会から押し付けられた性から解放されて自らのいきたいように生きる」ことが一定の普遍的な価値を持つようにはなっている。僕としてはそういうのにこだわりはないのでご自由にどうぞ、くらいの気楽な気持ちで特に気にせず生きるのみであるが、このスタイルは一つの否定を生む気がする。

 もし女性らしくあることが社会的に押し付けられたものであるにせよ、押し付けられた女性らしさが女性にとって不利益をもたらすかはまた別の問題である。別に女性性とか関係なく専業主婦をしたい人もいるし、自主的にキャピキャピ(意図的に死語を使ったが、なんてダサい響きだ)した衣服を着たい人もいるだろう。だとしても、女性らしさから開放されることが至上命題なグループからは前時代的な思想にしか見えないだろう。抑圧からの開放の志向性は、常に抑圧から遠ざかることだけが念頭に置かれる。しかし、抑圧された状況こそが自分にとってフィットする環境であることは否定できない。だがそうであっても外部からは抑圧されたままでいる人として受け入れられてしまう可能性が高い。この問題は根深い。生きる上で選択するスタイルが他者から見れば押し付けられているように見えても、実際は違うケースはいくらでもありうる。奴隷という階級からは開放されてくても、奴隷としてこなしていた仕事は自分の適性に沿うものであるのかもしれない。

 最近ってこういう非抑圧的な立場、少数派や弱者を平等に持ってく運動が盛んだが、クイア理論にもあるように運動が盛んになるとその分反発も盛んになるジレンマを抱えてしまう。フェミニズムの一方で女子力って言葉が出来てしまうのは妙にシニカルだ。ていうか女子力って言葉ほど差別的な用語もないと思うんだが。女子力が高いってもはや女性性の数値化以外の何者でもない、最も非道な計量器である。それを女が日常的に使うってのが……(どんくらい流行ってるのか知らないけど、少なくとも僕の周りの女性で使ってる人はいる) 面白いのは女力なのではなく女子力なことだ。子である必要がある。少女でなければいけないのだ。

 一方草食系男子というよくわからん流行語もあった(僕はロールキャベツ系男子だけは結構上手い言い回しだと思っている)。もちろん本当に斯様な男が増えていたのかは知らない。ただ、こういった言い方が出来るということは印象的には増えていたのだろう。恋愛に興味のない男友達は何人かいるが、なんとなく、彼らは自らのセクシュアリティをどう取り扱っているか分かりかねている印象がある。ジェンダーというものが曖昧になっていく中というのは、性欲というものが対象を失う過程でもある。男と女がはっきりいれば、その二極が交接すればいい。今の若者が恋愛に積極的でないのは、二次元があることよりも、臆病なよりも、金がないこと(僕も本当に金がないっ!)と性が方向性を失っていることの方が本質を突いている。彼女が要らないというよりも、「友達ではなく彼女という異性でしかありえない関係の中で自分の身をどのように置けばいいのか分からない」というほうが正確であろう。異性らしさが失われたのに、異性としての付き合い方が分からなくなるパラドックスが発生しているのは中々に面白い。女子力を付けるという言い回しが良くなされるが、より女性らしくありたい発想が男側からは理解不能なのだ。男が男らしくあることは、どこか亭主関白で家父長的な前時代のイメージが濃くつきまとう。そうである以上、男は今の時代男らしく生きにくすぎる。「男らしくありたい男」は男性性と女性性ににおけるタイプの中でもかなり強く抑圧を受けている。そして男の難しいところは、ユニセックスなファッションが出来ないところがある。ボーイッシュな女は違和感がないのに対し、女っぽい男はどちらの性からもキモがられる(おすぎとピーコの罪は重い)。宝塚は女だから成り立つのだ。風男塾もそう。僕は今チノパンに縦ストライプの襟付きシャツを着ているから女でもそんな違和感がないが、これくらいが男の限界だろう。いずれにせよ、男は男らしいから外れると服飾の選択肢が減る。これは無視できる問題ではない。服装は自己表現の手段であり、そう見られる以上は。男はある意味で女以上に選択が狭く、ジェンダー上の迷子になりやすい。男らしい格好がいやなら女っぽい格好をすることは男では出来るにせよ恐ろしくやりにくい。もしかすると男性こそがジェンダーの狭間で揺れ動いているのかもしれないのだ。

 

以上。適当に書いてたけど意外とそれっぽく…… なった? 読み返すと序盤要らないね。僕は常々思ってるけど男もスカートをはくことに違和感がない時代が来ねーかな。ファッションの選択肢がそれだけでかなり広がるじゃん。ワンピースとかも着れるし(俺が着るとキモイのは当然だけど、それは先入観の問題であってね……)。書いてるうちに思っんだけど、アニメでボーイッシュな女が実は誰よりも乙女チックって設定、やめにしませんか? 

昨日の記事補足

 ラストシーンの必然性だが、実際はそんな意味のあるものでもない。必然=妥当ということであり、最後のシーンってみんなわかっていたことを具現化する、所謂サービスだよね。東浩紀への反駁が含まれていたから言っただけな感はあった。ただ、記憶を失ったのに何で覚えているんだっていうリアリティの問題は残る。もちろんこの作品にそういったリアルを求めることに意味があるのか、という疑念はあっても、記憶が作劇上で恣意的にコントロールされていたように感じられたのは否めない。「君の名は。」における問題点の一つだろう。僕も若干気にかかりはした。というか秒速五センチメートルもそうだけど、作劇っていうものを優先しすぎてリアリティが失われ(同時に作画によって現実感を補填していくのが新海のやり方のような気も)キャラクターが駒になっている感じはある。僕が言の葉の庭が好きなのは、最後雪野先生が今までの態度から反転して醜く泣くからである。この作品においては背伸びをやめることこそが彼女にとっての成長の証であり、弱さを露呈することで自分が前に進んでいくこと、しかし前に進むためには主人公という「靴」がいることを素直にいえたこと、同時に弱さを共有することで主人公の弱さをどこまでも許容するということ、そして何より彼女は晴れであっても構わず泣きはらしたこと、ラストシーンの号泣にストーリーの帰結、象徴的な成長の意味づけ、そしてあれだけ神秘的に、生活感のないキャラとして描いた後になりふり構わず行動すること、つまりそれがキャラクターが躍動することであり、新海の映像表現もあいまって感動的に写る。この瞬間我々はこの物語が彼女のために用意されたのだと分かるのだ。

 

こんくらいか。補足を書こうとしたら言の葉の庭の批評になったが、まあ良い。

「君の名は。」感想

 昨日「君の名は。」の話をしていた。

 友人は東浩紀を引用してきた。どうも彼曰く、「ラストの二人が出会うのシーンは運命の人と結ばれることを描出しているのではなくなぜ運命の人に出会ったと思いこむのかの理由を描出している」らしい。確かに、ラストシーンは彼の言うとおりキャラクターの描写にも妙な現実感があるようにとれる。ただこの批評はいまいち意味の分からない点も多いような気がする。確かに二人は互いを知らないから、出会いはただのインスピレーションのレベルでしかない。つまり片方しか思ってなければストーカーである(恋愛というのは全く同じ行為でも双方向か片方向かで意味合いが真逆になることでえお示唆している)。つまりラストシーンまでのことはなんも彼らの記憶にないわけで、二人にとっては運命的に感じられることの原因を知っているのは視聴者のみである。だからこそ二人が意を決して「君の名は。」って言うシーンで「よく言った!」みたいな決断に対するカタルシスがあるわけであり、そこから二人の始まりが、彼ら二人にとっては正に今から積み上げられる関係の始まりとして表現される。

 まあ、徹底的に俯瞰して考えられているといえる。相手がどう思っているか分からないという恋愛の確証性のなさとそれでいて我々はその縁をしっているもどかしさ、何も知らない相手でも思い切って喋る決断の素晴らしさを描く上でこの批評はそれなりの説得力を持つと思う。ただ、僕は異論を言いたい。

 僕にとってこの作品の面白さは単純に「死んだ人間を現代に引き上げて出会うことのダイナミズム」じゃないかと思う。三葉は実質的には蘇生といってもいいわけだが、彼らは実際にあったわけでもなく、死それ自体は三年前の出来事である。だから、(比喩に頼ってしまうが)天の川をはさんでいるような断絶された環境にある。それでも「昔に死んだ会ったことすらない田舎に住んでる彼女」に対し主人公の「今を生きてる彼女に会いたい」という今⇔昔 田舎⇔都会 会ったことがない⇔会いたいという風に全部を乗り越えていくこと自体の面白さじゃないかと思う。だから、片割れ時に二人が会うとき二人は声を頼りに違う時空を同じような身振りで「手探りに」求め合う。忙しないカメラワークの中で。違う時空でも、会ったことがなくても、組紐の「結び」と劇中にあったように「私の中に君がいて、俺の中にお前がいた」というある意味では最も強烈なつながりを頼りに二人は出会おうとする。そういう意味では、僕の中でラストシーンは妥当なのだ。秒速5センチメートルと違って「過去の君を現代の東京に」引き上げることが出来たんだから。だったら「君の名は。」って呼びたくなるじゃん! 多分それは記憶がなくても決断することなのではなく、巧みな作劇がもたらす必然性なのだ。そう、やっぱりハッピーエンドだ!

 

おしまい。僕自身この文章書くまでは「言の葉の庭」が一番好きだったけど、案外「君の名。」もよく見えてくるな。ちなみに一番すきなのはテッシーだよ。

才能で人生は決まるんなら、君は人生を見れるんだ!?

 才能と努力どっちが大事論はよくブログとかでとりあげられる印象がある。これ専門知識なしでも一般論で語れちゃうから手軽なんだよね。だからちょっと知的風味なブログは大抵やってる気がする。僕もするぞ!

 才能か努力か? やっぱり遺伝子と初等教育で人生九割は決まるよね。僕が見た記事でも才能のほうが大きいって言ってて、だからどうやって諦めをつけるかが肝要だと言っていた。僕はもうちょいポジティブである。まず限界とは? 一つに物理的に無理やろってものがある。サイコロを100000個振って全部1を出すとか、歩いてインドに行く、とか。当然才能以前のハードウェアとしての限界のため除外。もう一つがオリンピックで金メダル、ロックでミリオンセラー、世紀の大発明とかの以前にやったことのあるもの。これできるかに才能はどう考えてもいる。僕はどちらかといえば才能より教育だと思ってて、偉人の親は大抵子供に肯定的だよね。ビートルズみたいに違うのもあるけど、家庭環境が悪いがゆえに不良になってロックに走ったケースになった結果的に良かった例。

 こうなると遺伝子と教育が悪い奴は妥協するか絶望するかないのか、ていう論になりがちだけど、前提として才能も教育も計量は出来ないものでしょう。才能がわかることなどあるのか。死んだ後評価される奴はどうしようもないし、いくら評価されても自分に能力がないと思ってる奴すらいる。逆にいえば、才能がないと思うことは能力のないことの証明にならないし、生きてる間に自分の作品が評価されなくてもその先は分からない。だから、才能が分かる日はこない。そして才能がなくて諦めたら試合終了なのだ。だからやり続けたたらいいんじゃないかと思う。もちろん社会的な立場を捨てて努力するした場合時間に比例してリスクは無際限に増大する、その現実的リスクに対して自分の言い分は「未来も才能も予測不可能」であることのみだ。なんて頼りない主張。でも、本当に予測は出来ない。努力する限り「いつか」に希望を持つことは非現実的なわけではない。何も分からないから何が起きるのかはわからないからである。どう選択するかは自由だ。頑張るのをやめた方がいいときもあると思う。未来は分からないから、気楽に行こう。

 

以上! すっげーポジティブになった。でも、未来の予測不可能性を人生に組み込むと絶対的に気楽なものになってしまうんだよ。だからって適当にやりすぎると破滅するけどねえ。この記事で一番言いたいのは、どんな人生でもチェックメイトはありえないけど、金は最低限持ってろってことです。社会から離れてもどうせ金という社会的な制度はいるからな!

理論的なことはいいこと? 悪いこと?(やはりかっこよくなくては)

 表現でいつの時代が好きなのかはみんなあるだろう。ロックなら60、70年代でしょ、アニメなら80年代が、文学は近代、みたいな。例がすごいコテコテになったけど、まあよい。

 表現の可能性は、案外早く掘りつくされるものだ。多分、上の例の時点でそのジャンルの表現の新しい要素はほぼ出尽くしている。出尽くした後は、今まで出た要素を組み合わせることに終始するほかない。僕は出尽くした直後の時代が一番すきなのだ。なぜかというと、その辺でジャンルの解体が始まり、そしてそれは後のものより大胆だから。90年代アニメの面白さは徹底的に過去の作品を解析して組み込んで混ぜ込むことにある。エヴァンゲリオンとはそういうものの極地であろう組み合わせることの異質さ、それによって見慣れていたものがまるで別物になる驚きが秘められている。オルタナティブロックはノイズをいれ、ときにはポップであり、しかし自閉的な響きを持ち、要素間は複雑に絡み合い、ジャンルはその多義性に目覚め、強烈な印象を与える。美術でいえばキュビズムなどもそうだ。

 この直後であることのよさとは、テクニックと対象の豊かさが両立している点だ。テクニック、つまり要素を混ぜ込むことは恐らく後の方が上手い、ていうか後のものは物語的な快楽を保ちつつしっかり既存のものを掛け合わせて行くからやっぱすごい。た理論が完全に打ち勝ってしまい、表現としての豊かさは失われる。モンドリアンの二枚の絵を見てみよう。

 

ブロードウェイ・ブギウギ「ピエト・モンドリアン「コンポジション」の画像検索結果

 

 どちらがいいだろう。僕には左の方がいいように思う。同じように理論だった作品であっても、左の方が情報に溢れ、色彩がうるさく、目を見張る。「ブロードウェイ・ブギウギ」というタイトルで、長方形と線で車と道路を表している。理論が存在し、同時に賑やかに書いていくことは価値がある。懐古ファン的だが、僕はシンゴジラよりエヴァンゲリオンの方がやっぱり好きなのだ。あのどうしようもない、しっちゃかめっちゃかで物語として成立したものでも、なぜかキャラクターはいきいきとしていて、惹きつける力がある。そう、僕が考えているものはそこなのだ。あの「つまらないのにはっとしてしまうもの」の原動力を探すことが、今の目標だ。わけのわからないものが、なぜか面白い。矛盾しているのに、それでいいと納得できうる。そのりゆうだ! 表現の理論とテクニック。それを超えるなにか。迫力とは理論を越えているのだろうか。どうか。

 なんというか、しばらくは退屈せずにすみそうである。

 

おしまい。魅力、文字通り魅惑する力ってどっから来るんだろうね。僕の場合、かっこいいロボットが出てたらその時点で魅力的だからすごくシンプルなんだけど。ブラックサレナがあればいいのだ。なにが自分にとって良くて、豊かな作品とはなんなのか。みんなも考えてみよう! 

 

 

 

 

 

 

90年代のテクノ、良かったねえ

 アンダーワールド、ケミカルブラザーズ、プロディジー。どいつも90年代のテクノとロックの融合を象徴するバンドだ。ひたすら音を重ねて酩酊しまくるアンダーワールド、最もバンドサウンドに近い音を出してスタイリッシュに演出したケミカルブラザーズ、ロックのみならず様々なジャンルを混ぜ込み、歪みと攻撃性を徹底して求めた。プロディジー。どれもいいものを作る。アンダーワールドならビーカップフィッシュ、ケミカルならカムウィズアス、プロディジーはファットオブザランド、がそれぞれのベストかな。

 彼らの共通点はボーカルにある。それぞれ作風にあったイカした声だ。たゆたうように、しかしメロディアスに歌い上げるカールハイド、ゲストミュージシャンを適切に起用し大振りなダンスミュージックに仕上げるケミカル、プロディジーの激烈なビートに挑戦するかのように弾けるキース。どのバンドもヒップホップのパンチアウトのように気持ちのいいフレーズを曲に織り込んで、わかりやすいがゆえに非常にストレートに来るグルーブを生む。オウテカスクエアプッシャーの変態的なビートもいいが、ボーカルつきの素直な作りもまた楽しい。ボーカルの持つパワーを十二分に味わえる。

 彼らのダンスミュージックとロックの融合が成功した原因は、巧みにそれらをミックスすること以上に、魅力的なボーカリストの存在が一番大きいように見える。ロックはボーカルがヘボならお終いだから、ある意味彼らの鋭さはボーカルのチョイスにあるのかもしれない。声はリズム楽器になりえないが、肉声には不思議なパワーがある。ファンクのコール&レスポンスが呪術めいたパワーを持つように、ビートと歌が融合すると単なるインストの電子音楽とはまるで異なる高揚感がある。そういう意味では、彼らは下手なロックバンドよりよほどロックを上手く扱いこなし、そして優れたロッカーでもあるのだ。

マクロスデルタ、良かったねえ

 マクロスデルタを観終わった。

 中後半失速したのは否めないが、ラストは面白かった(急展開過ぎたけど)。最終回でラスボスが世界中の命を一つにして誰も悲しまない世界を作ろうとする、どう観ても人類保管計画じゃん的な計画が発動するのだが、それに対する主人公ハヤテとライバルキースの意見が面白かった。彼らが主張するのは「空も雲も海もあるから」という物理的な事実である。マクロスでは飛行機ものであるため空へのこだわりがよく書かれるが、今回は特に風や空の単語がくどいほど頻出した。それと合わせて、ライブシーンの「ライブ感」の強さも印象に残る。ラグナ脱出時の、ヒロインフレイヤの生録りされたライブはこの作品最大の見所だと思うのだが、瞬間にかけるということこそデルタの魅力だったように思う。だから将来的な不安を取り除くために「今ここにある空」を失うことを誰も承認しなかった。ライバルとラスボスが所属し、フレイヤの祖国であるウィンダミア人の寿命が30~40程度という設定も効いていた。短命だから命を永遠にするか、だからこそ今を生きるしかないのだという対立は面白い。ただ、ラスボスの方はもうちょい丁寧に書いてくれ。なんでそんな永遠にこだわるか分からん。フレイヤは自らの歌の力を酷使しすぎて寿命が縮んでしまう。それでも関係なく、空があって雲があって海があって、歌がある。

デルタは物質の豊かさを讃えるアニメである。観念に囚われることなく、ただその場のものを楽しむということ。今歌うのだということ。不安という無意味な感情は、物質の持つ美しさ、表現の持つ力の前では霞でしかない。楽しむこと。マクロスデルタはどこまでもポジティブで、現代人への力強いエールになれるのだ!

 

おわり。最終話、戦闘は地味すぎた! もっとラスボスくさいバルキリー出してよ…… あんなどうでもいい雑魚相手に駄目でしょ。デルタは戦闘がちょっといまいちだったかな。戦闘を盛り上げるためのキャラの関係描写は上手かったから、もっとハラハラするものを魅せて欲しかったかな。どちらかといえばワルキューレのライブの方が見ごたえが合ったね。ジークフリードとドラケンかっこいいんだけどな。