そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

歌詞と歌

歌詞はどのように曲に関与するか? 難しい問題だ。そもそも歌詞は言語的な要素であって音楽的なものではない。しかし、歌とはその二つを合わせたものであるのもたしかだ。それでも、ボーカルとは「どんなことを言っているか」よりも「どのように歌うか」の方が重要なのも事実だろう。結局「声」のパートとして魅力的でなければ歌詞もまた魅力的なものにならない。音楽においては声の個性と「歌いよう」こそが重要なのであり、それらが良くなければ歌詞がいくらよくても意味をなさない。基本的に、詩は朗読会するよりも自分で黙読した方がいいに決まっている。
更に、歌詞は文学表現として大したものではない。詩と比べたら単純なレトリックであり、言語的な操作は少ない。それは声の存在を加味するからそれほど文学的な要素は必要ないとも言えるし、ゆえに歌詞は声と歌いように対して遅れをとるとも言えるのだ。そうなると、なにがいい歌詞なのだろう。歌詞のほぼ全ては凡庸だ。その中で、善し悪しの尺度はどこに依拠し、判定を下すのかが問題である。
考えられるのはボーカルとのマッチしている度合い、つまりは適切性が一つの尺度と思われる。いいメロディはまるで「このメロディしかありえない」と思わせるような代替不能な感覚があるように、メロディ、声、歌いようなどに対して「この歌詞しかありえない」と思わせるとき、適切すぎて「この」歌詞以外が想定できないときがあるように僕には思える。レット・イット・ビーでポールが「あるがままに」と歌うとき、なぜピアノの音色やメロディ、ポールの声の感じから「ここはあるがままでなくてはいけない」と僕は思わされてしまうのだろうか。ストロークスの「ニューヨーク・シティ・コップス」に、ニューヨークの警官を歌っている感じがするように思えてしまうのは単にタイトルのせいだけだと言えるのか。ベック「ゴールデン・エイジ」の出だし「両手をハンドルに置いて、ゴールデンエイジを始めよう」を聴いていると、自分の中でなにかが脱力され前に進みたくなるのは一体どう作用しているのか? これは僕の個人的な感覚にすぎない。そして、歌詞が適切かどうか理論化して数学的に判定するのは限りなく不可能に近い。音楽と言葉はどのような結び付きがあり、関係を結び、こちらに訴えかけるのか。あくまで聴覚的なものに過ぎない「音楽」に記号的な「言葉」を介入させて「歌」にするとき、「言葉」はどれほど意味があるか。単なる個人的な価値判断に委ねられるのか、それとも意味がある、もしくはない内のどちらかは音楽を聴くセンスがない証拠なのか。僕は昔は歌詞を重要視したが、今は気にしなくなった。でも、歌詞に不意に感動する気持ちは分かる。意味と言葉のアクセントの合致などを加味して言語学的に解析するのもいいだろうし、方法はいくらでもある。僕には、歌詞がよく思えるのはボーカルがいいからであり、それによる錯覚にすぎないように思える。だが、なぜか変にしっくりくるフレーズがあるのも認める。少なくとも、音は言葉の意味を驚異的に強めるのはたしかなため、歌とは根っこまで「悪質なペテン師」なのだと言うことができる。

ギャグのギャグ性ってなんだ!?

 最近はブログのレイアウトや文章構成も様式化してきたように思う。オモコロとかのwebメディアによくある、画像や吹き出しを利用して文章を漫画的に見せる作りは非常によく出来ている。笑いはセンスに依拠するところが大きすぎるから、出来のいい様式を作って記事の平均的なレベルを上げていくのは非常に合理的な考えだ。商業的にも大きな意義がある。が、一方で画一的過ぎて面白みが無い。平均的に高いクオリティを維持いたために、ギャグにおいて最も重要なイレギュラーさが失われてしまった。この辺はエンターテイメントでの共通の課題であろう。精巧であるがゆえに、無意識的な才気の発露が消失する。シュールレアリスムの正反対である(あれは気が狂ってるだけともいえるが)。僕が2010年代のアニメだと「ラブライブ!」が好きなのは何でもありすぎるところにあったりする。あれもあれで気が狂ってるだけともいえるが。形式と無意識的な爆発、そのバランスをどうやってとろうか?音楽ならエリックドルフィー、小説なら「砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない」あたりがジャンルの文法をそれなりに守りつつ鮮烈なものなのかな。

 笑いの話に戻るが、そもそも笑いって「笑わせる文脈で無いのに笑える」時が一番面白いのであって、オモコロやギャグ漫画はその意味では頂点には到達できない。だから、僕にとって一番面白いのは小説と学問書である。シェイクスピアは最高のギャグ作家だし、フロイトも素晴らしいギャグを放つ。結局、本人がギャグと意図していないのが一番面白いのだ。バクマン。で言及された「シリアスな笑い」はたしかに笑いの本質を突いている。テニスの王子様、ブリーチ、彼岸島、バキに勝てるギャグ漫画はないのだ(最近はギャグとして認知されすぎてなんともいえないが)。あと、「笑ってはいけない状況でのギャグ」も良い。街中や電車で変な人を見つけたとき、そうでもないのに死ぬほど面白く感じるのは、自分が笑いをこらえることが面白く、倒錯的にギャグ性を獲得するからだ。富野監督のアニメでも、殺し合いや死に際に笑えるシーンが来ると異様に笑いたくなってしまう。さすがは禿。僕も文章にギャグを混ぜるが、意図的なのでつまらないのだ。天才になりてえなあ。

 

終了。ほんと、人を笑わせるのに必要なのは才能だ。努力でなんとかできるものだろうか? あと、センスがある奴は他人の面白い話の引用も上手いから倍面白い気がする。ずるい……。

人の好きな作品にけちをつけたいタイプ?

 作品批判に否定的な物言いをする人はよくいる。以前誰かが「個人的に面白い映画を友達と観て感想を聞いたら全否定されてその作品を素直に楽しめなくなった」とツイートしたらそこから議論が始まったこともあった。

 僕は批判なんて好きにやるべきだとと断じている。そもそも表現の自由とは自由に批判していいことも含むのであり、封殺することは弾圧的な態度と等しい。そして批判してきたら「んなわけねーだろバカかお前は」と返すこともまた許されている。最低だと言った奴に最低だと言うのも、もちろん自由だ(そして最低のイタチゴッコがスタート!)。 

 ただ、好きなものに水を差されたくないから批判すんなってのはまあ分かる。実際言い返すのはエネルギーが要るし、そんな筋の通った反論したいほどムキになる気もないのだろう。表現の自由がある一方で、表現に対するスタンスの自由もまたある。ぶっちゃけそこを理解せずに文句垂れてる奴は空気が読めてないとも言える。めんどくさい奴だ。でも、僕はやっぱり議論したい。言語的、感覚的、文脈的齟齬によって永遠に終わらない作品議論。これだけ科学が進んでも、表現の解明は一向に進まない。そこにはクオリアの問題もある。クオリアは他人に伝えられないからだ(余談だが、ラマチャンドランはクオリアを人に伝えられないのはクオリアを言語化できないからだと言っている。面白い意見だ)。その中でなんとか自分と他者と感覚と言語観を摺りあわせて「それらしいたしかな」魅力を獲得できるのか。出来るかは僕には分からない。だが、それを知るためにとりあえずやってみたい。表現による感動の根源、驚嘆の原因、歓喜の理由を。それはやはり一人では出来ない。一つの視点、一つの見方ではどうあっても表現の魅力の「たしかさ」をモノに出来ない。そのために僕は批判して、批判されたい。そして言い返し、言い返されたい。だから自由は常に争いを呼ぶ。好きに言って、暴言を吐かれ、やり返す。まあ、それでいいんじゃないかと思う。変に押し黙るよりはずっと建設的なんじゃないかな。空気を読んで語ろう!

 

終わり。議論を喚起するための文章についてまた議論が起こる、メタ的な状態になったら議論喚起の文章は最大の目的を達成したといえるよね。もっと飛ばし記事気味に書いた方がいいのか?「批判する奴はクズ」みたいなタイトルにしたほうが食いつきはいいよね。どうでもいいからやんないけど。

 

面白いことを言うために徹夜するのか?

今日は5時に寝て9時半に起きたためやたら眠い。おかげででかいあくびが頻発する。あくびは脳が酸素を取り込むみたいときにしてしまうらしい。つまり、積極的にあくびした方が脳は活発に活動するはずだ。そのことを思いついたので、すげーペースであくびしまくっているが、いい感じに頭がさえる気がする。間抜けなのを除けばいいメソッドだ。
ただ、脳の健康の度合いがどれほどパフォーマンスを向上させるかは謎だ。偉大な表現者も徹夜したり不規則な生活を送っている人は多く、脳が不健康でもさりとて問題はないようにも思う。実験で徹夜すると作業能率が低下するのは実証されているようだが、創作行為には影響を及ぼさないものなのだろうか。単純作業のような注意力の要する作業と違い、創作行為は閃きが強く関与するからなのか。たしかに、疲労していると健康なときとは違う閃きが生まれるケースはありうる。「脳の思わぬ電気的結合」を意図的に起こすために、表現者は様々な状態を試して閃きを意図的に作り出しているのか? 境界性スペクトラム統合失調症の患者は独特の特徴が見られるらしいが、生活スタイルの違いも表現にある傾向をもたらすのだろうか。早寝早起きと昼夜逆転型のタイプ分けが一種の意味を持つのか? 暇な人は誰か考えてください。

おしまい。僕は日が変わるまでには寝て、6時には起きる健康優良児です。でもそのわりに不眠症になったりする。どうすりゃいいんだよ!!

過ぎたもの、刹那にあるもの、いずれ来るもの、一番大事なのは?

 「オタサーの姫~」シリーズのレビューをしたら作者にとりあげられていて、まあ嬉しい。僕も偉くなったもんである。三巻のレビューもしてやろうか(上から)。

 

 卒業製作が終わらない。製作に集中すべくブログを放置していたらこの様だ。今第三稿を出した余暇を使って書いている。それにしても、文章を書くのはなぜこんなにもめんどくさいのだろう。何を書くのか考えるのも、どのように書くかも、実際にどんな言い回しを選択するか、全部めんどくさい。創作行為自体が人間には手の負えないあまりに難解で複雑な処理を要求しているのは間違いないと思う。いくら理論を積み上げても、創作とは魚釣りのようなものだ。間違いなく面白くなる手順はない(しかし、ハリウッドやディズニーの製作理論やスタッフ編成を見てみるとたしかにある程度面白くなるように出来ていると思う。これは驚異的であり、人類の叡智と言っても決して過言ではない。「あの」表現をある程度解明したのだから)。そんなのに対してやる気が出たりする訳ないのだ。表現を鑑賞するのも、あんな意味不明なものは感じたくない。僕から言わせれば、東野圭吾の小説すら本来的には分析不能だと思う。そもそも分析という行為自体が表現の本質を壊しているのだから。

 でも、最終的にはまた執筆するハメになり、分かるはずもないテクストと向き合ってしまうのだ。現に今ブログを書いているのもそうだし。なぜそうしてしまうのだろう。少なくとも、僕の場合は逆に分からないからやっているのだ。ゼミの教授曰く、人は知っていることの方が知らないことよりやりたがるものらしいが、僕はむしろ知らないことにしか興味がない。知ってることは所詮反復運動でしかないとすら感じてしまう(ミニマルミュージックは大歓迎なのだが)。表現はその点いい。毎回違うものと出会えるのだし、書くときも新しい境地で望むことができる。その分クソ大変ではあるが、まあ楽しい。これは僕が極端に現在志向の人間であることも関係するだろう。今がどこまでも新鮮でありたい。その欲求だけで僕は生き続けている。面白そうなことが十生分くらいはありそうなのは幸いである。ただ、過去が好きな人は自分の過去を本当に活き活きとした語り口で話す。僕は記憶力はいいが、出来事をひたすら覚えているだけでどんな感じだったかはほぼ抜け落ちている。過去志向の人間は、過去の自分の情動を覚えているから、思い出を大事にしているのだろう。そういう見方で行くなら、僕にとって過去は残骸のようなものになる。こわっ。さすがこんなんじゃないぞ。面白いのだと、来世を信じている未来志向の奴もいた。未来の予測不可能性をポジティブに捕らえて楽観的に生きるスタイルが先鋭化したのだろうか。

 最後に、この三つの志向をいい悪いでまとめるとこうなる気がする。

いい過去志向 現在から過去を汲み取り、過去から現在までの軌跡を追うことが出来るため、時間的に豊かで幅が広い。

悪い過去志向 相対的なものの見方しか出来ず、過去の体験より劣るとそれだけで価値が無くなる。ひきこもり的。

 

いい現在志向 今の判断と行動が全てなため活動力が高い。人生のライブ感が高い。

悪い現在志向 あらゆるものを切り捨てがちで貧相になる。即物的で短絡的。

 

いい未来志向 未来に対する意味のない不安を取り除ける。現在への不満を軽減できる。

悪い未来志向 未来の予測不可能性に頼って現在と過去から逃げ続ける。逃亡的。

 

一種の性格におけるアーキタイプっぽくなったが、あてはまるものはあるかな?

 

 

 

 

 

オタサーの姫と恋ができるわけがない。シリーズを二巻までレビュー

 君の名は。の感想を書くときは有名すぎるからそんなに力を入れて書かなかったが、今回の対象となるシリーズはそんな有名ではないから力をいれようと思う。一巻はそうでもなかったが、二巻は目を見張るものがあったのでレビューするに至った。

あらすじ。とりあえずアマゾンから一巻を引用。『神園心路は高校入学を機に“バカにされようともオタ充になる”という目標を掲げていた―「あのね、ヒメ、心路くんの彼女にしてほしいの」―って入学早々に告白イベント!?だが、相手は『オタサーの姫』として学内で有名な花咲百合姫で!?しかも彼女は“二次元以外ありえない”と昔フッてしまった幼なじみ!?そう百合姫は心路の理想のヒロインになるため、オタク修行して現役ラノベ作家にまで昇り詰めてしまったのだ。心路は彼女のお願いでニジケンの復興を手助けするのだが―「色々危険だから勧誘は女子限定な」「うみゅ、まさかハーレムを作る気なの!?」するとオタクな美少女が次々入部してきて!?』

これだけ読むと底が浅い作品のように思える人もいるだろう。が、オタ充(オタクでリア充)という言葉の意味合いが二巻で面白い成り行きを見せる。

 タイトルとあらすじから一見するとヒロインである花咲とハーレムでありつつも花咲が選択される、いわゆる正ヒロインとして選ばれる物語であるように見える。しかし、主人公の神園は花咲の「好きになってもらうためにオタサーの姫になった」ことに「それはどうなんだ?」と疑問を投げかける。もっと言うなら、そもそも異性として魅力をあまり感じていない。幼なじみという一点以外では全くヒロインとしての魅力を持っていないのだ。一方同じクラスでよく喋り、二巻以降は一緒に登下校することになる空野継未に神園は淡い恋心を抱く。しかし神園はもし隣の席にいたのが違う子だったらその子に対して同じように恋愛感情を抱いたろうと推測する。一方で神園は花咲に幼なじみであるがゆえの「唯一性」に惹かれる。幼なじみという事実自体の運命性に心奪われている。 

 そのため、神園は空野に「リア充的な」三次元としての恋愛対象として魅力を感じるが、「オタク的な」唯一性、運命的な要素に欠けるため彼女が充実した人格を持っていてもそれが代替可能なように思えてしまい決定的な恋愛感情に至らない。大して花咲は「オタク的な」要素は十全に備えていても「リア充的な」現実の人間としての魅力が乏しい故実際に付き合えるかと問われるとまた別の問題になってしまう。このことから分かる通り、オタクとリア充は神園の中でジレンマと化してしまい、共存不可能である。つまり「オタ充」という言葉は、そもそも二つの単語の合体すること自体の矛盾を字面で体現している、呪縛である。当然ながら、オタクでなければ空野が選ばれるだろう。ここで作者が(恐らく意図的ではないにせよ)徹底しているのは空野と神園にはっきり恋愛感情を抱かせるためのイベントを用意しなかったことである。恋愛を創作するとなるとどうしてもそういう「ときめくための」イベントは必要になりやすい。特にハーレムものでは主人公の魅力をエピソードに凝縮して手っ取り早く惚れさせる(ここで惚れるとめでたくチョロイン!)手段が用いられる。しかし空野と彼においては「よく喋っていた」という事実が全てである。だとしても、現実の恋愛も恋愛感情を抱く前から大抵良く喋っているものであり、そこから恋愛に発展するのは違和感のあるものでもない。花咲との恋愛を幼なじみという「形式」だけで描くのに対し、空野とは実際の会話の積み重ねによる「実質」こそが肝になる。この対比も正しく二次元と三次元を表現していて、きれいに構造化されている。

 花咲の好きになってもらうためにオタサーの姫になることはストーカーじみている。神園はそれを感づいてか花咲の求愛活動が「理想的な二次元」であることを認めつつも「それはどうだろう?」と疑問を呈す。花咲は神園の欲望に答えたに過ぎないが、かといって断る権利は当然ある。しかし、神園は振った罪悪感から微妙な位置に花咲を置く。このことを神園と花咲の所属するニジケンの部員でありハーレム要因の雪村からバカと形容される。このとき神園に「――自分が選択した行動の全てに罪悪感を覚える病気。――自分が影響している森羅万象に、重圧を感じる病理。――言ってしまえば、中途半端にリアルと関わってしまったオタク。あるいは中途半端に二次元に拘っているリア充」と言っているが、本質を一筆書きのように描いた発言である。神園は中途半端すぎるから呪縛にあう。空野は二兎を追うものは一兎も得ずと例える。神園はそれに対し両方無理ならそのときは諦めると答える。空野は神園に現実的な対応策、「自分が彼女になること」を考える。自分の欲望も叶えられるから、正しく現実的なのだ。

 神園のオタ充の呪縛が最大限に発揮されるたのが二巻ラストである。花咲は小学生、一巻出だし含め三回目の告白をするも、振られる。花咲は言う。「ヒメが心路くんの理想を完璧に、再現できていたら……継未ちゃんと、噂になる暇すら与えなかったのに…… でも、ヒメはまだ、心路くんの理想のヒロインになれていなかった……」彼女は病的に「形式」にこだわる。そうでなくては、二次元になれないからだ。花咲は文化祭までお試しに付き合うことを提案する。「アニメでいうところのとりあえず3話まで視聴」とまるで現実感のない例えを用いて。神園は承諾する。ここで二巻は終わる。

 

斉藤環はオタクは二次元と三次元を切り離すこと特徴としてあげていたが、このシリーズは「現実では見ないような二次元引きこもり型オタク」が実際の恋愛をすることの苦難が描かれる。実際主人公のジレンマは現実では滅多に見られたものではないだろう。いくらロマンチストなオタクでも、それなりな着地点に落ち着くものだ。二次元的なデフォルメをされたオタクが二次元と三次元の両立を図る、しかし作品自体は当然空想であること、その「現実(我々の世界)内に作られた空想(オタサーの姫という作品世界)の中のオタク(しかし現実のオタクとの対応関係がない架空のステレオタイプなアーキタイプ)がオタク(形式的なもの、象徴としての花咲)とリア充(実質的なもの、象徴としての空野)の両立の矛盾と戦う」奇妙に入り組んだこのシリーズがどこに行くのか、僕は非常に興味がある。みんなも読もう!

光だって闇だってきっとー、はやっぱかっこいい

アジカンバンプはいいバンドなのだろうか? 僕は好きだ。だけど、何がいいかと問われると答えにくい。メロディ? リズム? プレイヤー? どれも言いたいことはあるがしっくり来ない。
しばしばアジカンとかバンプは「漫画、アニメ的」と言われる。なぜだろう。それはアニメのタイアップが多いからではない。そのことは結果的にそうなだけで原因ではないのだ。そして大塚英志を採用しても仕方ない。(リアリズムと音楽は関係が希薄)じゃあなぜ漫画アニメ的だと感じるのか。それはフェティシズムではないのかと思う。つまり、かっこよさがこちらの感性を刺激することだ。
彼らの疾走感や独特な声、ちょっとした深刻さは個性的な世界観を立ち上げる。その「イカした感じ」が、なんかかっこいいのだ。もちろん、音楽として優れているかとは別物である。だが、思い出してほしい、漫画やアニメはかっこよければ、可愛ければ成立するものなのだ。カウボーイビパップは監督自身が中身がないと明言しているが、かっこいいからいいのだ。アニメとはそういうものである。それに、個性的な世界観とはそれだけである程度魅力になる。彼らにしか出せない音が好きなら、彼らを聴くことは当然なのだ。音楽的に優れているとはなんだろう。アジカンの雰囲気に呑まれることは悪いことなのか。そもそも雰囲気とクオリティは関係がないのか。彼らにはまだ研究の余地が残されている。音楽性ということの意味を考える上で、面白い素材になりうると僕は思っている。