そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

過激さが求められるこんな世の中じゃ

 サボっていたの今日も書く。

 ブログを多少は続けてわかったことだが、やっぱり有名な固有名詞があるとアクセスされやすくなるのね。批評家とかアニメのタイトルとかはやっぱ効果的なようだ。あと、こんだけアクセスが少なくても意外と検索ランキングの上位に配置されるもんなのね。これには結構驚いた。

 検索とアクセスの話をして思い出したが、メルカリとかヤフオクの検索に引っ掛けるために有名なキーワード入れるのはマジでうざい。なんでもない安物スピーカーに「bose」「onkyo」「ゼンハイザー」って入れるとかさ。死ぬほど迷惑なため死んで欲しい案件だ。ただ、常にこういうことは行われているのも事実。パワーワードというわけではないが、炎上や人の目を引くためのコピーはいくらでも存在する。僕はそういう炎上しそうなことを思いつけないため、結構感心する。だが、僕は「過激さの安売り」が嫌いでもある。トランプ大統領を筆頭に、現代は過激である人を見てフラストレーションを解消しているとの分析は良く見るし、僕も体感している。端的な物言いは常に魅力的だ。はっきり言い切ってくれると明快で力強く、気持ちがいい。でも、それは最早端的な意見に全てを託し、自分は舞台から降りることのようにも感じられる。過激な発言に全面同意して一体化し、カタルシスをえるのはある意味では生きるための手段、自らの無意味を効率的に解消する方法論でもある。しかし、生きることに立ち向かうのに本当に必要なのは懐疑だ。常識を、素朴な知見を、信頼している人の主張さえ疑い、切り崩し、自分の思考とすり合わせる。そうすれば、徐々に生は強固になり、鍛えられた目で見れば世界の見通しも良くなる。スピノザはそういった意味で正しい。喜びは一人では供給できない。話し合うことで、疑うことで、他者と「ダンス」することで、自らの世界へのつながりは深くなり、宇宙へとつきぬけ、遂には一つになる’(理想だけどね……)客観的な価値はこの世に存在しない。だから不安にもなる。だが、価値判断を自分で決められるのがこの世における最大の幸福でもある。

 

以上! でも、哲学者ってやたら自殺してるよね。駄目じゃねーか。

いつか来る卒業の悲しさについて

 風邪を引いてしまった。といっても20日くらいには直っていたのでただの怠慢に過ぎない。久しぶりに風邪を引いたが、なんか休んでるときのだらだらしてる感じを今回は引きずってしまった。いっつもこんな感じだったっけ。

 昨日でゼミが終わり、今日で最後の授業が終わった。単位は両方とももらえるのが確定しているため、晴れて卒業だ(就職については何も言うまい)。別に四年間を振り返って感慨に耽る気もないが、まあそれなりに楽しい4年間だったんじゃないかと思う。だが、楽しかったとはいえ寂しさはない。なぜか分からないが、昔から寂しさを感じた経験が乏しい。小、中学の卒業式では友達も人並みにいたのにそそくさと一人で帰った。今思うと、なんであんなにあっさり帰ったのかは疑問だ。進学するたびに縁が切りたいわけではない。僕は中学の友達とはいまだに良く遊ぶし、むしろ大学の友達よりいまだに付き合ってる奴の方が多い。

 卒業するときはなぜ感慨深いのか。別れはなぜつらいのか。そして、なぜ僕自身は寂しさを感じないのだろうか。別れのつらさは単純だ。「もっと一緒にいたいのにいられない」ことに尽きる。でも、卒業しても会うことは出来るはずだし、一緒に居ることはできるだろう。そうなると、一緒に居られる時間の削減が問題なのか? たしかに、僕からしたら学校生活はべったり人と居すぎだ。何であんなに頻繁に同じ人と会わなくちゃいけないのか理解に苦しむ(仕事はまだいい。あくまでビジネスパートナーであるためだ)。六番目の小夜子でも言及されていたが、学校、ひいては教室は異様な空間なのだ。校則によって統一され、全く同じ年の地理的に極端な近さを持った人間が三十人詰め込まれる。そこでは関係は煮詰まり、学生という暇だらけの存在は互いの領域を意識しあう。学校は社会にでる練習というが、見ようによっては学校の方がよっぽど特異で異様だ。同学年である基準を設定してひたすら能力を計量し、学期末毎にそれが数値化されて自分は競争にとりこまれる、規律訓練の場。そんな場に一緒にいる仲のいいクラスメイトとは、ある意味ではかけがえなく「ならざる」をえないのかも知れない。学生ののときの友達の特別感とは、長年の友というよりも、一緒にあの空間にいたこと自体の特別感なのかもしれない。(カズオ・イシグロ「私を離さないで」はこのことをよく書いている)卒業の別れは、だからどんな別れよりも悲しいのだろう。

 で、僕はなんで悲しくないのかだが、書いているうちに興味を失ってしまった。多分だが、僕にとって人生は過ぎ去るものでしかないからだろう。今文章を書いている間にも時間は過ぎていく。どんなに卒業がいやだとしても、日めくりカレンダーは一枚一枚破られていく。そして、一枚破られること自体が一つの「変遷」なのだ。一枚破られていくごとに同じような毎日でも徐々に僕たちは老化する。それは誰しもの「成り行き」であるし、とめることはできない。いつかは肉体を失い、煙か土か食い物だ。だから、余命宣告をされた人が死を実感して受け入れるように、僕にとって学生生活が終わること自体が実感されている。だが、記憶は沈殿し続け、後の人生に痕跡を残し続けるのだ。

最後に、パール・ジャム 「ナッシング・マン」から歌詞を抜粋しよう。

 

忘れ去るものは

常に

思い出すことを

宿命づけられて……

 

 

終わり。

表現の良さ、かっこよさ

昔からそうなのだが、僕はかっこよさやダサさが今一わかっていない節がある。音楽や本の感想を言い合っているときでも、かっこいいと言われてもいまいちピンと来ない。ダサい、かっこいいと思われているものはたしかにそう思うのだが、「普通そう思うだろうなあ」くらいで、自分自身が感じているわけではない。表現における味わいや雰囲気はどう作用しているのかは興味深い問題だ。そもそも、かっこよさなどの雰囲気のようなものと本質的な表現性を分離することは可能なのかが分からない。かっこよければいい作品なのか? 逆に、面白くてもダサければ駄作なのか? 例えばエドガー・アラン・ポーは構成や設定は驚異的に上手く、それらを組み合わせ迫力のある展開を見せてくれるが、文章がダサすぎる。ただの中二病だし、幼稚で大振りだ。文章のダサさは許容されて当然なのか、そうではないのか。
僕の友達にはかっこよさを重視する奴がいる。感性的に全く理解できすることができない。では逆に僕はなにを基準に置いてるのか? 多分、ある種の極端さ、狂ったものを求めている。こちらを鷲掴みするような異様さ、唾すら飲めないほどの緊張感を。いい表現はどこか徹底するものだ。あらゆる要素を取り合わせ、一つの強烈な情動を描出すること。時間と空間の流れに緩急をつけ、言語化することは到底叶わない「狂いよう」を見せつけること。僕はそれに期待している。それができれば、特にかっこよさは要らないのだ。かといって、情動や狂気もどのような価値を持つのだろう。表現は鑑賞者抜きには成り立たない。それぞれの認識する価値が違うのはたしかだとしても、表現は「こうあればいいもの」といいうる尺度を示せる言葉はあるのか。多様なジャンルがあり、多様な個々の価値判断によって変動する感動の質の共通点。分析の集約点を見いだせる日が来るよう、みんなで話し合おう。

終わりー。やっぱり狂ってて単純なのが一番だね!

今週のお題「2017年にやりたいこと」、しかしやりたいこととはなんだろう

今週のお題「2017年にやりたいこと」

 

まず、今週のお題って機能があったことを知らなかった。なんて楽で、便利で、人を堕落させる機能だ。僕もネタに困って世間で話題になってることをブログに書いたりしたが、それは「ネタがないなりにどうするか」をしょうもないアイデアだとしても自分自身でひねり出して解決したわけだ。やはり、自動化は人の脳機能を低下させる。ツールによる効率化が重要なのは言うまでもないが、ある程度無駄な知的作業も必要なように思う。どうせ人間はどっかでサボるしな。

 

やりたいこと。中々難しいお題だ。箇条書きにしたら無数に挙げられるが、文章である以上論旨を絞って書く必要があろう。つまり、やりたいことを抽象化してしまうのが一番いいやり方になる。全てのやりたいことに共通する要素を抽出してしまえば、今の興味もあぶりだせる寸法になるのだ。しかし、やりたいこととはなんだろう。自分の意志で何かを選択すること自体が可能なのか僕は疑問がっている。結局、選択の作業には実現性を考慮した「絞り込み」が伴う。そうしてしまった時点で、自分の意志「らしき」ものに制限がかかり、「選ばされている」ようにも感じられる。まあ、選択肢を絞り込むのは当然だという反論もあるだろう。我々はそういう制限を受けることで利便性を手にしているのだから。

 でも、僕には違和感がある。なんでたった今富士山を猛烈に上りたくなったとしても、僕はしないのだろう。今すぐにブログを書く機能を有したパソコンを破壊したくなったら、すりゃいいのに僕はまたしてもしないだろう。自由ってのは、やりたいことを好きにやるってのは、極限まで拘束を減らさなければならない。僕は自殺が嫌いで絶対にしたくないが、それでも自殺自体は選択肢に入れておきたい。「やらないこと」ではなく「できないこと」がある時点で自由は目減りする(なんで出来ないかっていうと、それは社会的な対面のようなものだ。ばからし)。そう、「たった今、この瞬間」「この場所で」「全てのこと」ができなくてはならない。そして、やりたいことは「やれること」ではない。つまり、「できないこと」を考慮する必要が無い。そうなると、やりたいことは以下のようになる。

 

つまようじを100万本買いたい。

一年間寝て起きるだけの生活をしたい。起きたら常識では考えられないほど長いあくびをしたい。

マクドナルドの店員にモスチーズバーガーを投げつけたい。

野良猫と話したい。

ししゃもを食べたい。

長椅子を買いたい。

僕の大学の橋に大量のサンドイッチを置いてみたい。多分面白い。

 

やってみて分かったことだが、恐らく僕のやり方は「やりたいこと」の本質に迫れるが非常に無意識的でくだらなくなる。このメソッドを試すときは注意しよう。

歌詞と歌

歌詞はどのように曲に関与するか? 難しい問題だ。そもそも歌詞は言語的な要素であって音楽的なものではない。しかし、歌とはその二つを合わせたものであるのもたしかだ。それでも、ボーカルとは「どんなことを言っているか」よりも「どのように歌うか」の方が重要なのも事実だろう。結局「声」のパートとして魅力的でなければ歌詞もまた魅力的なものにならない。音楽においては声の個性と「歌いよう」こそが重要なのであり、それらが良くなければ歌詞がいくらよくても意味をなさない。基本的に、詩は朗読会するよりも自分で黙読した方がいいに決まっている。
更に、歌詞は文学表現として大したものではない。詩と比べたら単純なレトリックであり、言語的な操作は少ない。それは声の存在を加味するからそれほど文学的な要素は必要ないとも言えるし、ゆえに歌詞は声と歌いように対して遅れをとるとも言えるのだ。そうなると、なにがいい歌詞なのだろう。歌詞のほぼ全ては凡庸だ。その中で、善し悪しの尺度はどこに依拠し、判定を下すのかが問題である。
考えられるのはボーカルとのマッチしている度合い、つまりは適切性が一つの尺度と思われる。いいメロディはまるで「このメロディしかありえない」と思わせるような代替不能な感覚があるように、メロディ、声、歌いようなどに対して「この歌詞しかありえない」と思わせるとき、適切すぎて「この」歌詞以外が想定できないときがあるように僕には思える。レット・イット・ビーでポールが「あるがままに」と歌うとき、なぜピアノの音色やメロディ、ポールの声の感じから「ここはあるがままでなくてはいけない」と僕は思わされてしまうのだろうか。ストロークスの「ニューヨーク・シティ・コップス」に、ニューヨークの警官を歌っている感じがするように思えてしまうのは単にタイトルのせいだけだと言えるのか。ベック「ゴールデン・エイジ」の出だし「両手をハンドルに置いて、ゴールデンエイジを始めよう」を聴いていると、自分の中でなにかが脱力され前に進みたくなるのは一体どう作用しているのか? これは僕の個人的な感覚にすぎない。そして、歌詞が適切かどうか理論化して数学的に判定するのは限りなく不可能に近い。音楽と言葉はどのような結び付きがあり、関係を結び、こちらに訴えかけるのか。あくまで聴覚的なものに過ぎない「音楽」に記号的な「言葉」を介入させて「歌」にするとき、「言葉」はどれほど意味があるか。単なる個人的な価値判断に委ねられるのか、それとも意味がある、もしくはない内のどちらかは音楽を聴くセンスがない証拠なのか。僕は昔は歌詞を重要視したが、今は気にしなくなった。でも、歌詞に不意に感動する気持ちは分かる。意味と言葉のアクセントの合致などを加味して言語学的に解析するのもいいだろうし、方法はいくらでもある。僕には、歌詞がよく思えるのはボーカルがいいからであり、それによる錯覚にすぎないように思える。だが、なぜか変にしっくりくるフレーズがあるのも認める。少なくとも、音は言葉の意味を驚異的に強めるのはたしかなため、歌とは根っこまで「悪質なペテン師」なのだと言うことができる。

ギャグのギャグ性ってなんだ!?

 最近はブログのレイアウトや文章構成も様式化してきたように思う。オモコロとかのwebメディアによくある、画像や吹き出しを利用して文章を漫画的に見せる作りは非常によく出来ている。笑いはセンスに依拠するところが大きすぎるから、出来のいい様式を作って記事の平均的なレベルを上げていくのは非常に合理的な考えだ。商業的にも大きな意義がある。が、一方で画一的過ぎて面白みが無い。平均的に高いクオリティを維持いたために、ギャグにおいて最も重要なイレギュラーさが失われてしまった。この辺はエンターテイメントでの共通の課題であろう。精巧であるがゆえに、無意識的な才気の発露が消失する。シュールレアリスムの正反対である(あれは気が狂ってるだけともいえるが)。僕が2010年代のアニメだと「ラブライブ!」が好きなのは何でもありすぎるところにあったりする。あれもあれで気が狂ってるだけともいえるが。形式と無意識的な爆発、そのバランスをどうやってとろうか?音楽ならエリックドルフィー、小説なら「砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない」あたりがジャンルの文法をそれなりに守りつつ鮮烈なものなのかな。

 笑いの話に戻るが、そもそも笑いって「笑わせる文脈で無いのに笑える」時が一番面白いのであって、オモコロやギャグ漫画はその意味では頂点には到達できない。だから、僕にとって一番面白いのは小説と学問書である。シェイクスピアは最高のギャグ作家だし、フロイトも素晴らしいギャグを放つ。結局、本人がギャグと意図していないのが一番面白いのだ。バクマン。で言及された「シリアスな笑い」はたしかに笑いの本質を突いている。テニスの王子様、ブリーチ、彼岸島、バキに勝てるギャグ漫画はないのだ(最近はギャグとして認知されすぎてなんともいえないが)。あと、「笑ってはいけない状況でのギャグ」も良い。街中や電車で変な人を見つけたとき、そうでもないのに死ぬほど面白く感じるのは、自分が笑いをこらえることが面白く、倒錯的にギャグ性を獲得するからだ。富野監督のアニメでも、殺し合いや死に際に笑えるシーンが来ると異様に笑いたくなってしまう。さすがは禿。僕も文章にギャグを混ぜるが、意図的なのでつまらないのだ。天才になりてえなあ。

 

終了。ほんと、人を笑わせるのに必要なのは才能だ。努力でなんとかできるものだろうか? あと、センスがある奴は他人の面白い話の引用も上手いから倍面白い気がする。ずるい……。

人の好きな作品にけちをつけたいタイプ?

 作品批判に否定的な物言いをする人はよくいる。以前誰かが「個人的に面白い映画を友達と観て感想を聞いたら全否定されてその作品を素直に楽しめなくなった」とツイートしたらそこから議論が始まったこともあった。

 僕は批判なんて好きにやるべきだとと断じている。そもそも表現の自由とは自由に批判していいことも含むのであり、封殺することは弾圧的な態度と等しい。そして批判してきたら「んなわけねーだろバカかお前は」と返すこともまた許されている。最低だと言った奴に最低だと言うのも、もちろん自由だ(そして最低のイタチゴッコがスタート!)。 

 ただ、好きなものに水を差されたくないから批判すんなってのはまあ分かる。実際言い返すのはエネルギーが要るし、そんな筋の通った反論したいほどムキになる気もないのだろう。表現の自由がある一方で、表現に対するスタンスの自由もまたある。ぶっちゃけそこを理解せずに文句垂れてる奴は空気が読めてないとも言える。めんどくさい奴だ。でも、僕はやっぱり議論したい。言語的、感覚的、文脈的齟齬によって永遠に終わらない作品議論。これだけ科学が進んでも、表現の解明は一向に進まない。そこにはクオリアの問題もある。クオリアは他人に伝えられないからだ(余談だが、ラマチャンドランはクオリアを人に伝えられないのはクオリアを言語化できないからだと言っている。面白い意見だ)。その中でなんとか自分と他者と感覚と言語観を摺りあわせて「それらしいたしかな」魅力を獲得できるのか。出来るかは僕には分からない。だが、それを知るためにとりあえずやってみたい。表現による感動の根源、驚嘆の原因、歓喜の理由を。それはやはり一人では出来ない。一つの視点、一つの見方ではどうあっても表現の魅力の「たしかさ」をモノに出来ない。そのために僕は批判して、批判されたい。そして言い返し、言い返されたい。だから自由は常に争いを呼ぶ。好きに言って、暴言を吐かれ、やり返す。まあ、それでいいんじゃないかと思う。変に押し黙るよりはずっと建設的なんじゃないかな。空気を読んで語ろう!

 

終わり。議論を喚起するための文章についてまた議論が起こる、メタ的な状態になったら議論喚起の文章は最大の目的を達成したといえるよね。もっと飛ばし記事気味に書いた方がいいのか?「批判する奴はクズ」みたいなタイトルにしたほうが食いつきはいいよね。どうでもいいからやんないけど。