そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

山形駅って何かむなしいよね

今日も更新だ!
岩手の盛岡にいるわけだけど、いい町だね。暖かみのある町だ。散歩してて楽しい。僕は東北の県庁所在地だと地元の山形と仙台、福島、盛岡の四つ行ったのだが、それで分かったのは山形駅前が空虚過ぎることだ。これは規模の問題ではない。たしかに一番規模は小さいがさらに小さい米沢駅前の方が空虚さはない。
この空虚さの原因は、駅前の通りの建物が画一的過ぎるところにあるんじゃないかと思う。駅の中央から走る大通り(と、言えるほど大きくない)にブロックを積み上げたようなビルが立ち並ぶ。しかも大きくもなく現代的でもない雑居ビルの居住まいで。この感じが妙に空虚なのだ。山形駅の中も虚ろだ。西口から東口にかけてが、ただトンネルのように直線的な通路で貫かれている。あと、郷土感がない。実際には山形を強調したものはあるのだが、目立たないため妙に匿名的な存在に見える。そう、全てが匿名的なのだ。まるで個性がない。賑わいもなく、無個性な店がバラバラと点在し、道路や建物も単調。変化、変調に乏しすぎるのだ。まるで幾何学的な法則性にしたがっているかのようで、現実にしては貧しすぎる。人が居ないゆえの寂しさよりもより空疎な「空無」がそこには広がっているのだ。実際東北をいくつか回ったあと、山形駅を見てほしい、県庁所在地なので田舎よりも人はいるし規模もでかい。だが、説明しがたいなんともいえない感じがあるのは理解できるんじゃないだろうか。気になる人は是非行ってみて欲しい。

「やる気がある・ない」ってそれ自体はやったかどうかと関係ないでしょ

 なんとなく他の人のブログを読んでいたのだが、アラサーで6500枚のアルバムを聴いていた人がいて絶句した。だって400枚/15年で6000だよ? 僕には到底出来る努力量ではない。他のブログで読んだ話だが、ずばぬけた発想、もしくはとんでもないテクニックを持った人をわれわれは天才と思いがちだが、努力を努力と思わずありえない量努力をして、天才的なスキルを手にするタイプがいるらしい。僕が読んだ人は天才かは知らないが、これだけ出来ること自体が僕には及びもつかないことである。僕の母親も35年毎日日記をつけているが、これも一生出来そうに無い。

 継続的な努力が大きな力になるのは分かっている。だが現状は努力しない自分である。だが僕は「しない」のだ。今までの僕だったら「やればいい」と書いてお終いにしていたが、最近それで決めつけるのも思考停止な気もする。いや、もちろん「やれない」などと言うつもりはない。しかし、だからといって「やってない」のも事実であり、「ただやる」だけで現状を打破するワンワードにもならないというのも事実であろう。つまり、「努力していないのはやらないから」という循環論法から抜け出すために、多少は言い訳チックな自己分析を試みるわけである。

 友達が面白いことを言っていた。「個人を救うにはアドラーの考えが一番いいと思う。でも、実際に悩んで自己嫌悪している人に「ただ考えずに行動しろ」って言っても現実的には出来ないわけじゃん」たしかに、そうなのだろう。「ただ行動すること」という論理は究極的には正しいが、難しいに決まっている。この論理のめんどくささは、どんな反論も「やってないからじゃん」ということで無力化出来てしまうことがある。そして、トピックが抽象的であるほど、この論理は強固になる。例を挙げよう。僕とライトノベル作家が創作の面談をしたときである。

僕「すいません、中々書き出せなくて困ってるんです……」

作家「書けばいいじゃん!(やたらテンション高くてウザい)」

僕「いや、どの程度プロットを書いてから書いていいかわかんなくて……」

作家「じゃあプロットを書かないで書けばいいんだよ!」

この場合「創作について」というある程度方向性のあるトピックであるため(ウザいという欠点はあるものの)ラノベ作家は具体的なアドバイスを言っている。僕もこう言われて結構救われた面はある(てか昔は弱気だったなあ)。だが、もっと抽象的な場合、例えばある種の自己啓発においては、こうは行かなくなる。漠然としたポジティブなメッセージを送信し続けても、反論できなくなる。自己啓発のしょうもなさは論理性の無さである。自己承認や行動主義はいかに正しくても「ただそれだけ」である。なんの下支えのない、当たり前のこと。逆にわざわざ自分から言いすぎる事でもない。努力できません! って言われたら「じゃあしろよ」で済むが、自分から人間は「ただやる」といってもなんの意味のあるものではない。論理の一環としてだったらまだしも、それを話の中核に据える価値が無い。だって誰だって知ってるから。

しかし、努力しないこの現状をどうしよう? 僕は最近は「頑張らない」ことにしている。てか、がんばろうと思うことで何か変わったりするのか疑問である。第一、努力家とは大抵努力を努力という認識なしでやっているだろうし、そもそも、認識がどの程度のレベルで行動に及ぼすかは疑問である。実際、やる気を出そうと思っていた時期と自然体の今で、別に僕の本を読む時間や執筆量は変わっていない。はっきり言うと「頑張ろう」と思う気持ち自体が一つの言い訳になってしまうように僕には感じられる。「頑張ろうと思った」のだから、「頑張る気が無い奴」よりマシになるのだ。そう思ってる人はいないだろうが、しかし原理的に言い訳になってしまうのであり、頑張ることに振り回されすぎることにもなる。

 本来、意識改革など何の意味も持たない。僕は自然でいいと思う。向上心は「心」でしかない。行動しろっていう言葉自体がある意味では行動ではない。ただ自然に振舞い、駄目だったらしょうがない。成功したなら万々歳。そうすることで全ての結果は自分の責任になる。そうすることが、僕の思う「自分の人生を生きる」ことだ。

 

以上。この論を実践すると、かえって頑張ろうと思っていたとき以上に怠惰が怖くなる。だってやらないことが自分の「素」になるから。

文章をネットに「放流」するのはなんで?

昨日友達から「この調子で毎日更新しよう」とのラインが来た。そもそも毎日更新をチェックしないで欲しいよ。怖いよ。……が、そのせいで今日も脅迫観念に駆られて仙台から山形行きのバスでブログをポチポチ書いている。作戦負けだ。
このブログは文章を習慣的に書くためにやっているだけで、別に考察を書く場ではないのだが、自然とそんな風になってしまった。今の時代はLINEやTwitterFacebookなどはみんななんとなくやっているが、ブログはある程度意識的にやるもののように思われる。ブログはテキストサイトなども含まれるため歴史の長いWebメディアだが、LINEやTwitter、古くはモバゲーやmixiのように、やってない若者はそれだけで「輪から外れてる感」のあるレベルまで流行ったことは僕の体感的にはない(ちなみに僕はmixiは遂ぞやらずに20代中盤になってしまった。もしかしてはぶられてる?)。まあ、ある意味当然だろう。ブログは使いようにもよるが、今あげた4つと比べると圧倒的に手軽さはない。モバゲーやmixiやLINEにも日記機能はあるが、これらはあくまで生活を書くためのものであり、「誰か」に発信していることは明白である。ブログはその点違う。別に日々を書かずに論考を書いてもいいし、SNS程友達がいることを前提として始めたりしないから誰に発信しているかがよく分からない。だから、ある程度能動的でないとブログはやらないものではある(文章を書くことが習慣づいている人はまた別かもしれない)。なにを書くかが特定されないため、それなりに目的意識も要求される。
そう考えると結構不思議な媒体である。創作は一人で行い、出来るまで人に見られることはない。日記に至ってはノートを埋め尽くしても人に見せるわけではない。ブログは人に公開している。それはなぜ? もちろん内容によって理由も異なるだろうが、なぜ見せる必要はあるのだろう。別に日記のように自分で書いて完結しては駄目なのだろうか。僕の場合は人に見られていると緊張感が上がるから見せている。だからブログは助かる。貧しい想像力を働かせるなら、人気ブロガーになって一攫千金したい人はいそうだ(アフィリエイトのまとめブログとかね)。これは分かりやすい動機だ。では、ただの日記をブログで書くのはどうか? これはSNSで代替可能だ(だが、そもそもSNSはほとんどの機能は交換可能なものではある)。ブログの方がSNSより自由にレイアウトをいじれるため、自分の個性を見せたいのか。
ちょっとよく分からなくなってきたから閑話休題。しかし、こうもSNSが発展した現代では内面とはどこにあるのだろう。色々な事情をネットに暴露し、放流する。心は公開されてしまう。内面とインターネットは溶け合い、個人の領域は失われていくような感覚が僕にはある。実際、悩みを全て表明してしまったら、その時点で内面はインターネットに放流され、一人の悩みでないから内省自体が不可能になるはずだ。それが怖いと思うのは僕が古い人間なのもあるだろう。10代からすれば自分を世界に発信することは当然であるから、怖いもなにもない。自殺サイトが自殺防止に役立つように、悪いことばかりでもない。考えるべきは、世界と自分の距離が縮まったことで「できること」だ。出来なくなったことを考えすぎても愚痴にしかならないし、それは以前の価値観での思考である。なにができるのか、そしてできることにまつわる問題領域はなにか。まず、新しいものの価値を考えなければ、古い価値観に引きずられて終わってしまう。アップデートによる「広がり」を考えることで初めて、それによって薄まった箇所への言及はまともに行うことが出来る。

過激さが求められるこんな世の中じゃ

 サボっていたの今日も書く。

 ブログを多少は続けてわかったことだが、やっぱり有名な固有名詞があるとアクセスされやすくなるのね。批評家とかアニメのタイトルとかはやっぱ効果的なようだ。あと、こんだけアクセスが少なくても意外と検索ランキングの上位に配置されるもんなのね。これには結構驚いた。

 検索とアクセスの話をして思い出したが、メルカリとかヤフオクの検索に引っ掛けるために有名なキーワード入れるのはマジでうざい。なんでもない安物スピーカーに「bose」「onkyo」「ゼンハイザー」って入れるとかさ。死ぬほど迷惑なため死んで欲しい案件だ。ただ、常にこういうことは行われているのも事実。パワーワードというわけではないが、炎上や人の目を引くためのコピーはいくらでも存在する。僕はそういう炎上しそうなことを思いつけないため、結構感心する。だが、僕は「過激さの安売り」が嫌いでもある。トランプ大統領を筆頭に、現代は過激である人を見てフラストレーションを解消しているとの分析は良く見るし、僕も体感している。端的な物言いは常に魅力的だ。はっきり言い切ってくれると明快で力強く、気持ちがいい。でも、それは最早端的な意見に全てを託し、自分は舞台から降りることのようにも感じられる。過激な発言に全面同意して一体化し、カタルシスをえるのはある意味では生きるための手段、自らの無意味を効率的に解消する方法論でもある。しかし、生きることに立ち向かうのに本当に必要なのは懐疑だ。常識を、素朴な知見を、信頼している人の主張さえ疑い、切り崩し、自分の思考とすり合わせる。そうすれば、徐々に生は強固になり、鍛えられた目で見れば世界の見通しも良くなる。スピノザはそういった意味で正しい。喜びは一人では供給できない。話し合うことで、疑うことで、他者と「ダンス」することで、自らの世界へのつながりは深くなり、宇宙へとつきぬけ、遂には一つになる’(理想だけどね……)客観的な価値はこの世に存在しない。だから不安にもなる。だが、価値判断を自分で決められるのがこの世における最大の幸福でもある。

 

以上! でも、哲学者ってやたら自殺してるよね。駄目じゃねーか。

いつか来る卒業の悲しさについて

 風邪を引いてしまった。といっても20日くらいには直っていたのでただの怠慢に過ぎない。久しぶりに風邪を引いたが、なんか休んでるときのだらだらしてる感じを今回は引きずってしまった。いっつもこんな感じだったっけ。

 昨日でゼミが終わり、今日で最後の授業が終わった。単位は両方とももらえるのが確定しているため、晴れて卒業だ(就職については何も言うまい)。別に四年間を振り返って感慨に耽る気もないが、まあそれなりに楽しい4年間だったんじゃないかと思う。だが、楽しかったとはいえ寂しさはない。なぜか分からないが、昔から寂しさを感じた経験が乏しい。小、中学の卒業式では友達も人並みにいたのにそそくさと一人で帰った。今思うと、なんであんなにあっさり帰ったのかは疑問だ。進学するたびに縁が切りたいわけではない。僕は中学の友達とはいまだに良く遊ぶし、むしろ大学の友達よりいまだに付き合ってる奴の方が多い。

 卒業するときはなぜ感慨深いのか。別れはなぜつらいのか。そして、なぜ僕自身は寂しさを感じないのだろうか。別れのつらさは単純だ。「もっと一緒にいたいのにいられない」ことに尽きる。でも、卒業しても会うことは出来るはずだし、一緒に居ることはできるだろう。そうなると、一緒に居られる時間の削減が問題なのか? たしかに、僕からしたら学校生活はべったり人と居すぎだ。何であんなに頻繁に同じ人と会わなくちゃいけないのか理解に苦しむ(仕事はまだいい。あくまでビジネスパートナーであるためだ)。六番目の小夜子でも言及されていたが、学校、ひいては教室は異様な空間なのだ。校則によって統一され、全く同じ年の地理的に極端な近さを持った人間が三十人詰め込まれる。そこでは関係は煮詰まり、学生という暇だらけの存在は互いの領域を意識しあう。学校は社会にでる練習というが、見ようによっては学校の方がよっぽど特異で異様だ。同学年である基準を設定してひたすら能力を計量し、学期末毎にそれが数値化されて自分は競争にとりこまれる、規律訓練の場。そんな場に一緒にいる仲のいいクラスメイトとは、ある意味ではかけがえなく「ならざる」をえないのかも知れない。学生ののときの友達の特別感とは、長年の友というよりも、一緒にあの空間にいたこと自体の特別感なのかもしれない。(カズオ・イシグロ「私を離さないで」はこのことをよく書いている)卒業の別れは、だからどんな別れよりも悲しいのだろう。

 で、僕はなんで悲しくないのかだが、書いているうちに興味を失ってしまった。多分だが、僕にとって人生は過ぎ去るものでしかないからだろう。今文章を書いている間にも時間は過ぎていく。どんなに卒業がいやだとしても、日めくりカレンダーは一枚一枚破られていく。そして、一枚破られること自体が一つの「変遷」なのだ。一枚破られていくごとに同じような毎日でも徐々に僕たちは老化する。それは誰しもの「成り行き」であるし、とめることはできない。いつかは肉体を失い、煙か土か食い物だ。だから、余命宣告をされた人が死を実感して受け入れるように、僕にとって学生生活が終わること自体が実感されている。だが、記憶は沈殿し続け、後の人生に痕跡を残し続けるのだ。

最後に、パール・ジャム 「ナッシング・マン」から歌詞を抜粋しよう。

 

忘れ去るものは

常に

思い出すことを

宿命づけられて……

 

 

終わり。

表現の良さ、かっこよさ

昔からそうなのだが、僕はかっこよさやダサさが今一わかっていない節がある。音楽や本の感想を言い合っているときでも、かっこいいと言われてもいまいちピンと来ない。ダサい、かっこいいと思われているものはたしかにそう思うのだが、「普通そう思うだろうなあ」くらいで、自分自身が感じているわけではない。表現における味わいや雰囲気はどう作用しているのかは興味深い問題だ。そもそも、かっこよさなどの雰囲気のようなものと本質的な表現性を分離することは可能なのかが分からない。かっこよければいい作品なのか? 逆に、面白くてもダサければ駄作なのか? 例えばエドガー・アラン・ポーは構成や設定は驚異的に上手く、それらを組み合わせ迫力のある展開を見せてくれるが、文章がダサすぎる。ただの中二病だし、幼稚で大振りだ。文章のダサさは許容されて当然なのか、そうではないのか。
僕の友達にはかっこよさを重視する奴がいる。感性的に全く理解できすることができない。では逆に僕はなにを基準に置いてるのか? 多分、ある種の極端さ、狂ったものを求めている。こちらを鷲掴みするような異様さ、唾すら飲めないほどの緊張感を。いい表現はどこか徹底するものだ。あらゆる要素を取り合わせ、一つの強烈な情動を描出すること。時間と空間の流れに緩急をつけ、言語化することは到底叶わない「狂いよう」を見せつけること。僕はそれに期待している。それができれば、特にかっこよさは要らないのだ。かといって、情動や狂気もどのような価値を持つのだろう。表現は鑑賞者抜きには成り立たない。それぞれの認識する価値が違うのはたしかだとしても、表現は「こうあればいいもの」といいうる尺度を示せる言葉はあるのか。多様なジャンルがあり、多様な個々の価値判断によって変動する感動の質の共通点。分析の集約点を見いだせる日が来るよう、みんなで話し合おう。

終わりー。やっぱり狂ってて単純なのが一番だね!

今週のお題「2017年にやりたいこと」、しかしやりたいこととはなんだろう

今週のお題「2017年にやりたいこと」

 

まず、今週のお題って機能があったことを知らなかった。なんて楽で、便利で、人を堕落させる機能だ。僕もネタに困って世間で話題になってることをブログに書いたりしたが、それは「ネタがないなりにどうするか」をしょうもないアイデアだとしても自分自身でひねり出して解決したわけだ。やはり、自動化は人の脳機能を低下させる。ツールによる効率化が重要なのは言うまでもないが、ある程度無駄な知的作業も必要なように思う。どうせ人間はどっかでサボるしな。

 

やりたいこと。中々難しいお題だ。箇条書きにしたら無数に挙げられるが、文章である以上論旨を絞って書く必要があろう。つまり、やりたいことを抽象化してしまうのが一番いいやり方になる。全てのやりたいことに共通する要素を抽出してしまえば、今の興味もあぶりだせる寸法になるのだ。しかし、やりたいこととはなんだろう。自分の意志で何かを選択すること自体が可能なのか僕は疑問がっている。結局、選択の作業には実現性を考慮した「絞り込み」が伴う。そうしてしまった時点で、自分の意志「らしき」ものに制限がかかり、「選ばされている」ようにも感じられる。まあ、選択肢を絞り込むのは当然だという反論もあるだろう。我々はそういう制限を受けることで利便性を手にしているのだから。

 でも、僕には違和感がある。なんでたった今富士山を猛烈に上りたくなったとしても、僕はしないのだろう。今すぐにブログを書く機能を有したパソコンを破壊したくなったら、すりゃいいのに僕はまたしてもしないだろう。自由ってのは、やりたいことを好きにやるってのは、極限まで拘束を減らさなければならない。僕は自殺が嫌いで絶対にしたくないが、それでも自殺自体は選択肢に入れておきたい。「やらないこと」ではなく「できないこと」がある時点で自由は目減りする(なんで出来ないかっていうと、それは社会的な対面のようなものだ。ばからし)。そう、「たった今、この瞬間」「この場所で」「全てのこと」ができなくてはならない。そして、やりたいことは「やれること」ではない。つまり、「できないこと」を考慮する必要が無い。そうなると、やりたいことは以下のようになる。

 

つまようじを100万本買いたい。

一年間寝て起きるだけの生活をしたい。起きたら常識では考えられないほど長いあくびをしたい。

マクドナルドの店員にモスチーズバーガーを投げつけたい。

野良猫と話したい。

ししゃもを食べたい。

長椅子を買いたい。

僕の大学の橋に大量のサンドイッチを置いてみたい。多分面白い。

 

やってみて分かったことだが、恐らく僕のやり方は「やりたいこと」の本質に迫れるが非常に無意識的でくだらなくなる。このメソッドを試すときは注意しよう。