そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

表現は思想や精神のためだけにあるんじゃないんじゃない?

最近モンハンをしている。ダブルクロスに備えなきゃね。
なんか馬鹿にされるが、モンスターハンターはいいゲームだと思う。精緻に世界観を描き、モンスターのデザインと設定はうまく絡めている。アクションも戦略的な要素とアクションとしての瞬間的な判断がうまく調和している。アクションゲームとかアクション映画は思想性がないためとかく馬鹿にされがちな気がするが、それは側面的な捉え方だ。表現を「深み」でしか捉えられない人の発想なのである。別に、ただ爽快でもいいじゃないか。計算され尽くしたアクション、精密に構築されたビート、リズムパターンの快楽は、「いいもの」じゃないのか。むしろ、アクション映画や電子音楽こそストイックなのだ。思想性が抜かれる代わり、極限まで「気持ちよく」なければならない。そうするために電子音楽はパターンを膨大に用意し任意に組み合わせ、最も美しい隙間と間隔と恍惚の音楽表現となる。
表現は思想表現でも、精神の発露でもない。それらは一側面としてのものであり、快楽性も間違いなく重要な要素なのだ。表現を思考するときは常に全方位を考えねばならない。どんな形態、どんな未知のものであろうが「なんか面白ければ」全く問題ない。だからその「なんか」を見落とさないために受ける情動と作品をあらゆる方法で結びつける必要がある。なぜならば、表現の可能性は常に思わぬところに秘められているがゆえだ。

終わった。もっと適当にいきれば思想なんてどうでもよくなるよ!

閃き力、とかいうと自己啓発本っぽいワードに見える

このブログの記事を書くとき、なにも考えていないことが多い。書き出して、その後は前の文章に繋がるトピックを思い付いて書くことの繰り返しだ。今回も書き出ししか考えていない。不思議なのは、最終的に自分の思想へと至ってしまうことだ。手癖と言うべきなのか、最後は普段考えていることに行き着く。僕がやっていることは会話に近くて、出発点とは全く違う話題になっていることも多い。自分の書いた文章に「返答」しているわけ。この作業は自分の思考が思わぬところで結びついていることを発見できるのが面白い。昨日の記事は顕著な例である。
しかし、人間の思考は非常に不可解だ。神経同士の莫大な繋がりにおいて、普段使われない連携がなされるとき「閃く」のだろうか。アイデアを出せる能力と知能は正比例しない。脳のどこどこの領域が発達していると優れた発想を出せる訳ではないようだ。では発想力のある人は他の人とどう違うのか? たまたま電気的な閃きが走っただけなのか? 誰もが論理的には手塚治虫カフカになれたのか。逆に言えば、才能が無いのに悩むのは発想力があるのかないのか分からないからだとも言える。頭のいい悪いはなんとなく感じることが出来るが、天才的なアイデアは賢さと絶対的にはむすびつかない。才能があるかどうかは死ぬまで分からない。いや、カフカや賢治を見るなら死んでからもわからないと言うべきだろう。分からないがゆえに怯え、一方でもしかしたらと希望を抱く。いつか閃けと念じ、努力する。なんともまあ、虚しい行為である。でも、だからこそひたむきな奴は魅力的で、実際に現実を切り開きうるのだろう。

終り。山形は吹雪ですが、チャリで頑張って帰りました。雪国ではない人にトリビアです。吹雪にチャリで走ると眼鏡が目隠しになります。

何をしようが、どう思おうが生きていくしかないわけだ

大学四年ですが、内定が決まった。
卒業も決まっているから、もうなにもしなくてもいいわけだ。
そして春になったら社会人になって、定年まで働くことになる。なんて言い方は意味がない。終身雇用なんて今では幻想だよ、なんてツッコミは置いておくとしても、こういう風に言う奴は「ジジイになるまで働きづめの人生さ」的なニュアンスで話すが、そうでもないだろう。本当に定年までずっと無感動に過ごす人がいるはずがない。もっと言語化できない内容があるのだ。
人生は長い。辛い。眠い(?)「クロスボーンガンダム鋼鉄の7人」において、「なぜ俺が生き残った」と悔やむ人物にたいしあるキャラはこう返す。「・・・・・・人間生きたいだけ生きられる奴も死にたいときに死ねる奴も滅多にいやしないんだよ!生きていこうぜ 今までもそうしてきたように どうせそれしかないんだ」
最近読み返したら、この台詞で泣いてしまった(俺は大丈夫だろうか)。そうなのだ。なにをしようが、どんなことが起きようが人生は続いて「しまう」。人生最大の歓びを手にしても、何事もなかったかのように人生は続く。不慮の事故や自殺でもない限り、人生は延々とひた走る。人生の辛さは、つまるところこのことに集約されるのだと僕は思う。なぜ続いてしまうのか。体は衰え、頭の冴えは鈍り、容姿が醜くなっていっても、終わらせてくれない。意志はそこではなんの意味もなさない。行動も、自らを死に至らしめるものでなければ全く効果がない。どう思っていても人生が続き続ける。そこでは惰性で生きるとか、真摯に生きるとかを考えても無駄だ。どうせ続くのだから。功利主義者なら、続くんだったら幸せに生きようと言うだろう。宗教家は神のために一生を使うだろう。合理主義者は生き方を効率化させて、不自由をなくすだろう。
この人生が「続く」中、我々は価値を、くだけて言うなら「楽しいこと」を見つけなければならない。だが、楽しいことをしても「続く。」その先があって、またその先…… だったらなにか意味を見つければいいのか? 僕からすると、それが一番つまらない。意味のある人生は、日々を解釈化する。「続く」意味を見出だしたら、何が面白いのだろう。なんのために生き続けているかわかったら、あとの人生は無価値だ。なぜなら、意味があったらもう自分で価値を考える必要はないのだから。だから、続くことだけを思う。それから、ずっと死ぬまで悩んでいいのだ。だって、この世も人生も興味深く、かつ巨大なのだから。世界への興味は、人生が無意味なところから出発する。無意味をどうしよう。それを解決するために自分以外へとアクセスして、「なんとかする」こと。矛盾やジレンマを内包するから、生きることは面白く意義深い。

終わったぞ! さて、僕は定年まで働けるでしょうか!?

漫画アニメのテンプレ的な台詞は、面白い

漫画アニメのテンプレ的な台詞を僕は愛している。一種の様式美と美学を感じるよね。好きなものをいくつか抜粋しよう。

「ここはあいつの庭みたいなもんさ」
凄い迷いやすい場所をこちらの利としている人を評して。これを使う気持ちは結構わかる。庭の的確かつ洒落た感じはい。個人的に「もんさ」が語尾だとベスト。お前は何を知っているんだ。

「いい目をしている」
有名なテンプレ。最も有名なのはランバラルか。だからお前は何を知っているんだ。体つきとかではなく目で判断することで歴戦の戦士感を出したいのかも知れないが、冷静になるとよく分からない。

「やったか!?」
ブリーチが特許を取得してしまったテンプレ。これがないと全体的にクールになる。これがあることで絶望が増すが安易と言えなくもない。より強いバージョンに「やった!」がある。こちらを言って違った場合の小物感は半端ではない(確実に違うのだが)。

「あの○○を一撃か」派生形「大したものだ。あの○○を一撃とは」

個人的にすげー好きな台詞。どんだけ上から目線なんだよっていう。「まあ俺も一撃で倒せるけどね」って暗に言ってる感じがたまらん。ただ、これを言う奴が作中最強なケースって滅多にない気がする。

「この(団体名)の恥さらしが!」
この後三割くらいの確率で処刑されます。大体違うやつが出向いて負けて、恥さらしは悪くないことが判明するのが大半。ていうかよく分からない悪の組織にどハマりしないで下さい。台詞いってる人。

「こいつは俺の獲物だ」
かっこいーー! て、俺はなる。最強キャラが圧倒してたら個人的に恨みがあるやつが割り込んで…… ってパターンがそこそこあるような。あと、案外獲物にされた人が勝つパターンがないような。

「お前では役不足だ」
意味が真逆ですよ。実際は対等なのに自信家なため言うときもある。 なぜか「あの○○を一撃か」と比べると小物感は否めない。やっぱ強さを見せるには相手を誉めた方がいいのだろう

「ここまでは完璧……」
これからは? 俺が記事のテーマを決めるきっかけになった台詞。死亡フラグが折られるときは数あれど、このあとも完璧だったケースはあるんだろうか? 個人的にこの台詞は燃える。大体地力では負けてる奴が言うときが多いため、こっから逆転されるのが暗示される訳だが、むしろ逆転されてからが弱いものの意地の見せどころである。完璧と言いつつも完璧じゃないときを覚悟して放つ、遺志の強い言葉だと思う。俺が見つけた中じゃ一番好きかな。

これで以上だが、こういう台詞は画一的であるからこそむずかしい。だが漫画アニメではテンプレ的をここぞと言うとき放つと妙にキレがある。それがサブカルチャーの「リアル」だからなのだろうか。

山形駅って何かむなしいよね

今日も更新だ!
岩手の盛岡にいるわけだけど、いい町だね。暖かみのある町だ。散歩してて楽しい。僕は東北の県庁所在地だと地元の山形と仙台、福島、盛岡の四つ行ったのだが、それで分かったのは山形駅前が空虚過ぎることだ。これは規模の問題ではない。たしかに一番規模は小さいがさらに小さい米沢駅前の方が空虚さはない。
この空虚さの原因は、駅前の通りの建物が画一的過ぎるところにあるんじゃないかと思う。駅の中央から走る大通り(と、言えるほど大きくない)にブロックを積み上げたようなビルが立ち並ぶ。しかも大きくもなく現代的でもない雑居ビルの居住まいで。この感じが妙に空虚なのだ。山形駅の中も虚ろだ。西口から東口にかけてが、ただトンネルのように直線的な通路で貫かれている。あと、郷土感がない。実際には山形を強調したものはあるのだが、目立たないため妙に匿名的な存在に見える。そう、全てが匿名的なのだ。まるで個性がない。賑わいもなく、無個性な店がバラバラと点在し、道路や建物も単調。変化、変調に乏しすぎるのだ。まるで幾何学的な法則性にしたがっているかのようで、現実にしては貧しすぎる。人が居ないゆえの寂しさよりもより空疎な「空無」がそこには広がっているのだ。実際東北をいくつか回ったあと、山形駅を見てほしい、県庁所在地なので田舎よりも人はいるし規模もでかい。だが、説明しがたいなんともいえない感じがあるのは理解できるんじゃないだろうか。気になる人は是非行ってみて欲しい。

「やる気がある・ない」ってそれ自体はやったかどうかと関係ないでしょ

 なんとなく他の人のブログを読んでいたのだが、アラサーで6500枚のアルバムを聴いていた人がいて絶句した。だって400枚/15年で6000だよ? 僕には到底出来る努力量ではない。他のブログで読んだ話だが、ずばぬけた発想、もしくはとんでもないテクニックを持った人をわれわれは天才と思いがちだが、努力を努力と思わずありえない量努力をして、天才的なスキルを手にするタイプがいるらしい。僕が読んだ人は天才かは知らないが、これだけ出来ること自体が僕には及びもつかないことである。僕の母親も35年毎日日記をつけているが、これも一生出来そうに無い。

 継続的な努力が大きな力になるのは分かっている。だが現状は努力しない自分である。だが僕は「しない」のだ。今までの僕だったら「やればいい」と書いてお終いにしていたが、最近それで決めつけるのも思考停止な気もする。いや、もちろん「やれない」などと言うつもりはない。しかし、だからといって「やってない」のも事実であり、「ただやる」だけで現状を打破するワンワードにもならないというのも事実であろう。つまり、「努力していないのはやらないから」という循環論法から抜け出すために、多少は言い訳チックな自己分析を試みるわけである。

 友達が面白いことを言っていた。「個人を救うにはアドラーの考えが一番いいと思う。でも、実際に悩んで自己嫌悪している人に「ただ考えずに行動しろ」って言っても現実的には出来ないわけじゃん」たしかに、そうなのだろう。「ただ行動すること」という論理は究極的には正しいが、難しいに決まっている。この論理のめんどくささは、どんな反論も「やってないからじゃん」ということで無力化出来てしまうことがある。そして、トピックが抽象的であるほど、この論理は強固になる。例を挙げよう。僕とライトノベル作家が創作の面談をしたときである。

僕「すいません、中々書き出せなくて困ってるんです……」

作家「書けばいいじゃん!(やたらテンション高くてウザい)」

僕「いや、どの程度プロットを書いてから書いていいかわかんなくて……」

作家「じゃあプロットを書かないで書けばいいんだよ!」

この場合「創作について」というある程度方向性のあるトピックであるため(ウザいという欠点はあるものの)ラノベ作家は具体的なアドバイスを言っている。僕もこう言われて結構救われた面はある(てか昔は弱気だったなあ)。だが、もっと抽象的な場合、例えばある種の自己啓発においては、こうは行かなくなる。漠然としたポジティブなメッセージを送信し続けても、反論できなくなる。自己啓発のしょうもなさは論理性の無さである。自己承認や行動主義はいかに正しくても「ただそれだけ」である。なんの下支えのない、当たり前のこと。逆にわざわざ自分から言いすぎる事でもない。努力できません! って言われたら「じゃあしろよ」で済むが、自分から人間は「ただやる」といってもなんの意味のあるものではない。論理の一環としてだったらまだしも、それを話の中核に据える価値が無い。だって誰だって知ってるから。

しかし、努力しないこの現状をどうしよう? 僕は最近は「頑張らない」ことにしている。てか、がんばろうと思うことで何か変わったりするのか疑問である。第一、努力家とは大抵努力を努力という認識なしでやっているだろうし、そもそも、認識がどの程度のレベルで行動に及ぼすかは疑問である。実際、やる気を出そうと思っていた時期と自然体の今で、別に僕の本を読む時間や執筆量は変わっていない。はっきり言うと「頑張ろう」と思う気持ち自体が一つの言い訳になってしまうように僕には感じられる。「頑張ろうと思った」のだから、「頑張る気が無い奴」よりマシになるのだ。そう思ってる人はいないだろうが、しかし原理的に言い訳になってしまうのであり、頑張ることに振り回されすぎることにもなる。

 本来、意識改革など何の意味も持たない。僕は自然でいいと思う。向上心は「心」でしかない。行動しろっていう言葉自体がある意味では行動ではない。ただ自然に振舞い、駄目だったらしょうがない。成功したなら万々歳。そうすることで全ての結果は自分の責任になる。そうすることが、僕の思う「自分の人生を生きる」ことだ。

 

以上。この論を実践すると、かえって頑張ろうと思っていたとき以上に怠惰が怖くなる。だってやらないことが自分の「素」になるから。

文章をネットに「放流」するのはなんで?

昨日友達から「この調子で毎日更新しよう」とのラインが来た。そもそも毎日更新をチェックしないで欲しいよ。怖いよ。……が、そのせいで今日も脅迫観念に駆られて仙台から山形行きのバスでブログをポチポチ書いている。作戦負けだ。
このブログは文章を習慣的に書くためにやっているだけで、別に考察を書く場ではないのだが、自然とそんな風になってしまった。今の時代はLINEやTwitterFacebookなどはみんななんとなくやっているが、ブログはある程度意識的にやるもののように思われる。ブログはテキストサイトなども含まれるため歴史の長いWebメディアだが、LINEやTwitter、古くはモバゲーやmixiのように、やってない若者はそれだけで「輪から外れてる感」のあるレベルまで流行ったことは僕の体感的にはない(ちなみに僕はmixiは遂ぞやらずに20代中盤になってしまった。もしかしてはぶられてる?)。まあ、ある意味当然だろう。ブログは使いようにもよるが、今あげた4つと比べると圧倒的に手軽さはない。モバゲーやmixiやLINEにも日記機能はあるが、これらはあくまで生活を書くためのものであり、「誰か」に発信していることは明白である。ブログはその点違う。別に日々を書かずに論考を書いてもいいし、SNS程友達がいることを前提として始めたりしないから誰に発信しているかがよく分からない。だから、ある程度能動的でないとブログはやらないものではある(文章を書くことが習慣づいている人はまた別かもしれない)。なにを書くかが特定されないため、それなりに目的意識も要求される。
そう考えると結構不思議な媒体である。創作は一人で行い、出来るまで人に見られることはない。日記に至ってはノートを埋め尽くしても人に見せるわけではない。ブログは人に公開している。それはなぜ? もちろん内容によって理由も異なるだろうが、なぜ見せる必要はあるのだろう。別に日記のように自分で書いて完結しては駄目なのだろうか。僕の場合は人に見られていると緊張感が上がるから見せている。だからブログは助かる。貧しい想像力を働かせるなら、人気ブロガーになって一攫千金したい人はいそうだ(アフィリエイトのまとめブログとかね)。これは分かりやすい動機だ。では、ただの日記をブログで書くのはどうか? これはSNSで代替可能だ(だが、そもそもSNSはほとんどの機能は交換可能なものではある)。ブログの方がSNSより自由にレイアウトをいじれるため、自分の個性を見せたいのか。
ちょっとよく分からなくなってきたから閑話休題。しかし、こうもSNSが発展した現代では内面とはどこにあるのだろう。色々な事情をネットに暴露し、放流する。心は公開されてしまう。内面とインターネットは溶け合い、個人の領域は失われていくような感覚が僕にはある。実際、悩みを全て表明してしまったら、その時点で内面はインターネットに放流され、一人の悩みでないから内省自体が不可能になるはずだ。それが怖いと思うのは僕が古い人間なのもあるだろう。10代からすれば自分を世界に発信することは当然であるから、怖いもなにもない。自殺サイトが自殺防止に役立つように、悪いことばかりでもない。考えるべきは、世界と自分の距離が縮まったことで「できること」だ。出来なくなったことを考えすぎても愚痴にしかならないし、それは以前の価値観での思考である。なにができるのか、そしてできることにまつわる問題領域はなにか。まず、新しいものの価値を考えなければ、古い価値観に引きずられて終わってしまう。アップデートによる「広がり」を考えることで初めて、それによって薄まった箇所への言及はまともに行うことが出来る。