そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

ジョイ・ディビジョン「クローサー」と「貧しさ」

今回は珍しく個別に作品を取り上げよう。説明不要の名作、ジョイ・ディビジョンの「クローサー」についてだ。

 なんて極限的な世界だ。乾いたビートに、インダストリアルなギター、無表情なベース、あのイアン・カーティス。個々の音の鳴らしを徹底的に追求して、極北に立っている。そして、恐らく「クローサー」はロックの「ロック性」を利用している。ちょっと付き合ってもらいたい。

 表現には時間と空間の要素がある。小説は文章量と時間の厚みが作中の経過時間に関わらず比例するものであり、フォークナーの「八月の光」には空間的な要素も見られる。絵画は平面上の配置の問題があり、それなりのサイズまでなら全部観るのに時間を要しないため空間的だ。交響曲プログレッシブロックのアルバムは物語的であり展開もそれに応じたドラマチックなものとなるため時間的だ。音楽は観賞時間が固定されているためそもそもが時間的なのだが。オーケストラは立体的な音の響きを重視するため空間的になる。コンサートは空間的な要素が根本から強まる。

それに対し、ロックは空間的にも時間的にも弱い。構成がシンプルすぎて時間的な厚みはないし、アンサンブルが素直すぎて立体感もでない(ポストロックを反証にあげるかもしれないが、あれはロックというよりエレクトロと現代音楽とジャズあたりのミックスだろう。)。ロックとは「貧しい」音楽なのだ。大作を作れる理論もなければ、バンドサウンドは空間に立体的な響きをのせられるほど豊潤でもない。

クローサー」の持つ退廃的な感覚には、この「貧しさ」がリンクしている。シンプルな分空しく、響かない分閉塞的に。ロックの持つ行き場のない「貧しさ」の中でとるべき方法は一つ、個性だ。ジョイ・ディビジョンにとっての個性は音の鳴らし、つまりは音色である。「鬱屈とした音作りを、鬱屈とした音作りを、鬱屈とした音作りを」ただそれだけを念頭において「鳴らし」にこだわる。こういったサウンドはロックしかできない。なぜなら他のジャンルは「豊か」だからだ。なにもない中でただ音色だけが妖しく輝くのがロックの世界だ。いや、そこには時間も空間も存在しないから世界にもならない。ただの虚ろ。それこそがロックであり、利用したのがジョイ・ディビジョンという「貧者」なのだ。しかし、イアン・カーティスの圧倒的な「語り」はなんだろう? 訳も分からないまま、情動だけは激しく揺さぶられる。空虚はそこに精神的な要素を感じさせるのだ。情動の原因はイアン・カーティスの精神だと感じさせる。しかし、そこにあるのはただの声であり、空気の振動だ。声の「感じ」、それがロックのすごさであり、「クローサー」の本質である。鬱屈した音作りを各パートがつきつめ、イアンが「なにがしか」を「発する」。なにもありはしないのに。

 

終わり。本当にすごいアルバムだ。音楽の可能性の一端であり、一つの可能性を終わらせた作品でもある。

この作品はイアンの遺作である。みんなも自殺しよう!

感動することに感動した

3人で友達の家にいて彼らは互いにしか分からない話をしてるからブログを書こう。

 実家に帰ってきた。3週間ぶりだから久しぶりもくそもない感じたが、新鮮ではある。ちなみに家に帰ってすぐにしたことは自転車に乗ったことだ。東京には自転車がないからどうしても乗りたかった。しかし、あまりに感動的だった。なんであんなに感動したんだろうか。山形の空気か、自転車から伝わる運動の感触なのか、7時前の朝焼けの差し込み方か、そのとき聴いていたbeckの「blue moon」が素晴らしかったからか。どれもしっくり来ない。もしくはその全てか。わかるのは、どこか言語を突破していることか。言葉を越える瞬間は、誰しも感じるときがあるだろう。この瞬間はなんなのだろうか? 情動に言語的原因はなくとも、自分自身では解釈し続ける。「それっぽい」理由を仕立てあげる。意味がある世界しか、人間には生きることはできないから。でも、たまに越えられる。自分が必死に作り上げた「意味で埋め尽くされた世界」を、突き崩される瞬間がある。僕たちは、その瞬間こそを追い求めるのだ。言語によって構築された、記号と解釈の繰り返し世界。そこを突破したいと「願う」のだ。だからこそ、表現を作り、観賞し、恋愛し、視線と言葉を交わし、美しい「光景」をみたがる。なんの意味もないものによって、完璧ゆえに退屈な世界に間隙をいれたい(厨2病か?)のだ。だから、意志をなくしてはいけない。人は動き続けなければ容易に「完璧なまま」でいる。僕は、究極的に「退屈」が嫌いだ。だからなんとかしたい。

「退屈」に耐えられない性質はかなり生きにくい。いい意味で貪欲とも言えるが、他人からの目線にすぎない。「普通」なことが出来なくなるからまともではなくなってしまう。無意味であることの素晴らしさを散々語ってきたが、そうあることよりも「退屈」に耐えられる強さをもちまともに生きることが一番幸せだと僕は思う。皮肉では一切ない。「退屈」が無理なのは人として弱すぎる。人生なんて大半がつまらない。大半が無理なのはあわれなほど脆弱なのだ。大して無感動で、そこそこの家庭をもって暮らして定年まで働く人生はつまらなく見えるが、「強い」生き方でもあるのだ。つまらなくも生き抜くことが可能なのだから。思考停止して生きてる奴は「思考停止しても生きられる奴」と換言することもできる。逆に僕は行動と思考をストップしたら生きられない人間だ。そういう人の生き方は根本的に「その場しのぎ」しかできない。次の手をすぐさま打たなければすぐ「嫌気」がさす。死ぬまで燃え続けなければいけない。

 なんて意味に満ちた世界だろう。息がつまる。「嫌気」のする人間と、「嫌気」のする環境と、「嫌気」のする自分。だからこうやって書いて暴きたてようとする。組み立てられた意味世界を無意識的な情動によって「楽しもう」とする。考えなくても生きられるならそれでいい。無意味なことをし続ける人生など、つまるところ無駄だし。そこになんの意味もないから、価値判断もできない。人生が本人にしか価値がない「娯楽」に成り下がる。しかしそれが一番いい。燃え尽きるときが迫りつつも踊り狂う。なんの意義もない躍動行為。僕だけが美しさを見出だせる。完全に主観的な無意味の美しさを知るのは、音楽を聴いて朝に自転車に乗ることの素晴らしさを感じるのは、意味に溢れたものには理解すらできない。弱いものは強くなれないが、強いものは弱者の儚さを知らない。そして儚いからこそ、無意味に感動するからこそ、僕は命がなによりも尊いことを知っている。

 

しゅーりょー。いつもと文体が違うような。気のせいかね?

自分だった少年に、したいことをしてあげよう

最近批評のアイデアが生まれたので、ブログのペースはかなり落ちるかしばらく書かない。大学のときブログに熱心になりすぎて卒業製作が進まないという、猛烈な本末転倒に陥ってしまった反省だ。本当になにしていたんだろうか……

 今日は朝マックを食べながら書いている。前も書いたが、マフィンが好きすぎるのだ。全部好きだ。味、食感、触感、語感、匂い、アクセント、姿形。なぜか僕には異様に好きなたべものがある。あとはたこ焼き、カップラーメン、マクドナルド全般、メロン味、あたりか。全部安っぽいな。それでいて、これらを頻繁に食べたりはしない。たまーに食べて、大した感動を味わうでもない、って感じだ。だから、どちらかといえば実現したい欲求というよりは憧れに近い。実際にあんま美味しくなくても憧れが消えたりしない。無感動に食べては少しすると恋い焦がれるのだ。意味不明に思えるかもしれないが、マクドナルドなら説明できる。

僕の家は健康志向というほどではないが間食やジャンクフードに厳しめな家庭だった。マックは1年に1回がいい方だったし、お菓子もあまり食べられない。話がそれるが、高校生くらいから僕は食べ物への感動がほぼなくなった。美味しいかどうかは分かるしそう思うが、情動には至らない。感情が動かされることはない。なんでそうなったかは不明である。それでも今すごい好きなたべものは、昔の自分から来る欲求な気がする。自分が食べているのではなく、小学生の自分に「食べさせている」。それはまるでスプーンで子供の口に運ぶように。僕はどこか小学生のときに引っ張られている。あの時期はやたらやる気があって、今よりずっと本を読んでいた。今は一時間もすると本を置くが、あのときは五時間くらい平気で読み通していた。それでいてあそびまくってたし、今思うと我ながらすごい奴だ。僕はずっと昔の自分といる。人から努力家みたいな言い方をされるが、向上心が高いわけでは一切ないし、努力したいとすら思えない。ただ、昔の自分が見ているのだ。あれだけ頑張っていた自分が、今の怠惰を許してはくれない。だから1日が終わってなにもしてないと信じがたく強い罪悪感が襲う。

 昔に戻りたいとは思わない。不可能だからだ。だけど、あのときのやる気は手に入れたい。あのエネルギーに満ちあふれた、全力で生きる姿勢。そこにずっと「憧れ」ている。僕自身が、僕にとっての原風景であり、追い求めるものだ。この事実は人からすると想像がつかないくらい強い。マックで何気なくハンバーガーをたべてて、なんで俺はこんなにマックが好きなんだと思っていたら、昔マックに死ぬほど行きたかったのを思い出したとき泣いてしまった(そんな号泣ではないよ)。今のために僕は生きているが、「自分だった少年」を、ずっと羨み、見張られ、ご褒美に食べたいものを食べさせてあげるのだ。今食べたチキンクリスプマフィンも、やっぱり「自分」はなにも思わず食べていた。

 

終わり。今までにないパターンじゃないか? ハンバーガー2個頼んで飲み物なしだからのどがすごい乾いた。

私はあなたと友達です。全く同時に、あなたは私と友達です。

 人は一人では生きていけないと、このブログでは度々書いてきた。それは孤独という面でもそうだし、人は自分で決められることの方が少ないという意味でもそうだし、どうしても周りの影響を受けてしまうというしがらみとしてもそうだ。今回は「影響」について考えてみたい。

 われわれの周囲にいる人たちは「教師」か「反面教師」のどちらかだ。たまになんの影響も受けないケースもあるのかもしれないが、個人的な能力よりも相性や接する環境の方がでかいだろう。あまりにレアケースだ。周囲の人にとっても、僕は「教師」か「反面教師」のどちらかなわけで、互いに心の領域を侵犯しつつ、痕跡を残していく。果たして、影響を「受けるだけ」もしくは「与えるだけ」とはありえるのだろうか? 影響を与えるということは、そのとき相手に干渉している。自分から触れることは、相手から触れられていることと等しいのだ。触れ続けている状況では、どっちが「触れにきたか」など判別できなくなる。大学の講義ほど一方的になれば与える影響はかなり偏るのだろうが、友人関係くらい双方向なものとなればどちらが痕跡を「残しにきたか」はわかるはずもない。僕の友達に「俺はいろんな奴からいい影響をもらった」と言ってきた奴がいたが、そいつ自身はそんなに影響を与えていないから、やはり大したものではないのだ。根本的に、深い影響とは逆に気づけないのだ。互いに緊密な関係を築き、一段落したときに自分の変容に驚く。悪くとも良くとも、深い影響を残し合うときは気づけないほど両者は一体化する。相手との関係を「前提」に生きるから自分の変化も「前提」に組み込まれてしまい、気づくことができない。友達の話で言うなら、人からいい影響を貰ってばかりだと思っていてもそれは根付くようなものではない。深い影響は離れてから気づくが、浅い影響は離れてから失うのだ。結局、その人と実際に接していなければ維持できないレベルのものでしかないのだから。与えずに受け取っても、見よう見まねの域を出ない。混ざりあうことで、別れても相手の痕跡は自分と混じりあっているから消えたりはしない(これは長編小説の面白さの一原理でもある)。

 いつだって関係のなかに生きている。なにかを学ぶとき、なにかを学ばせなければいけない。相手を罵るとき、罵られる彼を見ざるをえない。いずれにせよ、一方向ではありえない。もしそうだとしたら、なにも生み出してはいないし、変わってもいない。誰かといることはジャムセッションだ。スタイルは違えど、共有されるグルーヴとエモーションのの中で意識は混淆される。そこから優れた音楽は生まれ、また関係の中では「なんとなく」であっても「そうとしかおもえない」ほど強く人の気持ちがわかったと「思いこむ」。しかし思いこみであっても、かけがえはない。代替不能なものは言語の支配を免れ光景となり、原風景として登録される。だから人は「いつかみた景色」をまた見たくて、かげがえのないものを求め続ける。決して手に入れられないと分かっていても、探すことをやめられない。幸せになりたいのも、許されたいのも、それは「いつかみた景色」への郷愁なのかもしれない。理由なき欠如とは、最も純粋な体験へのノスタルジーを意味するのだろうか? だとしたら、人は宿命的に不幸で救われない。欠如の形をぴったりとはめるピースはどこにもない。だから、代替品をいくらでも作り出す。対象は常に関数であり、少しでも欠如を埋めてくれるなら救済関数Xにはどんなものをいれてもいい。友人、家族、恋人、表現、風景、アクセサリー…… 僕たちが日頃仲良くする相手とは「代替品」である。断言する。でも僕たちにはそう思えない。だったらそれでいいじゃないか。互いに思いこみ続け、幻想のなかで、信じきって、「代替品」として使い物にならなくなるまで、視線を交わしながら、全力で、限界までセッションを、「ばか騒ぎ」をやろう。

 

終えた。朝マックを食いながら書いてました。僕マフィン大好きなんだよね。頼むから昼と夜もマフィンを売ってくれませんか?

大人になりたくないのは大人だけです

友達に「俺が仕事したらどんくらい続く?」と聞いたら「3ヶ月いないでやめると思う。1週間以内も十分ありえる」と言っていたが、1週間は乗りきったぞ。少1からの付き合いだから予言に怯えながら働いてたが、なんとかなった。3ヶ月後はどうなるかな!
働き始めて思ったが、たしかに仕事中心で時間が回る。休みは洗濯しなきゃ、明日仕事だから遅くまで飲んじゃいけない、疲れたから今日はすぐ寝よ…… とか。とまあ、今までにない発想で生きている。が、だからといって僕が「仕事人間」になった感もない。本は読むし、CDも聴くからね。大学の准教授が言っていた、「書くならフリーターより社会人の方がいい。スケジュールが勝手に決められるから」は確かに正しいと思う。仕事すると1日の行動が決められるから、そこに本を読む時間とか文章を書く時間を入れ込みやすい。僕が元々本を読む人ではないとはいえ、案外読書量は変わっていない。帰宅して食事して風呂に入って読む時間を厳密に決めるからサボらなくなる。それに、バイトは間違いなく肉体労働だから体力が削られる。僕はオフィスワークだが、肉体的な疲労は確かにあまりない(その代わり精神的にはくるが)。片手間に文章を書くのもそれなりに余裕をもってでる。社会人になることを「くだらない大人になる」とか、「社会の犬になる」とか言うやつは、ただ幼稚なだけだ。別に社会にいたまま子供の心を持つことはできるだろう。それに、僕は牙を抜かれるどころか研ぎつづけている。子供のように生きることと社会性を安直に結びつけて考える奴ほど、「子供のよう」であることがどういうことか分かっていない。むしろ、社会に反発しすぎる態度は「大人」の発想だ。そもそも、子供には大人になることから「逃げよう」などと思っていない。社会から逃げ続けるものはただの「幼稚なじいさん」なのである。子供は、もっと鋭い幼さを持っている。自分の言葉を持ち、世間に服従しない独特な価値観。世界に対する無知が、新たな地平を切り開く。社会反発という手垢にまみれた概念と手法に頼っているようでは、及ぶべくもない。
立ち現れるものに既存のものを当てはめることなく感動すること。我々の持っている既成概念のなんとみすぼらしいことだろう。だから、常に個々のものにはそれぞれ違ったやり方で立ち向かう必要がある。サブカルチャーへの無理解はその典型だ。文学でないものを文学で解釈する意味がどこにある? 愚昧な停滞を露呈するだけだ。子供のように新しいものを新しい感じかたで無邪気に表現すること。それは恐ろしいことだ。大失敗の可能性が常に含まれているのだから。しかし、可能性を提供することこそが世界への「貢献」であり、自分自身が年齢に関わらず可能性を保ち続けられ、永遠に子供でいられる手段に他ならない。

終わったぞ。社内の一室で隔離して作業してるけど、終わったのでのんびりブログを書いてます。まる。

なぞなぞです。声と表情と視線、これらに共通するものはなーんだ!

この二日間やたらアクセスが伸びている。なにがあったんだ?

 

昨日から電話対応している。正直に言うが、一回で聞き取れたときが一回もない。毎回「すいません、もう一度担当部署とお名前をおねがいしてよろしいでしょうか?(接待ボイス)」とリクエストしている。だってわかんねえよ! ほんっとに電話越しの声は聞き取りにくい。ていうか着信が鳴ったら文字が出るポケベル方式で不便ないだろ。

 歌でも、やたら歌詞が聞き取りにくい奴がいる。ミスチルの櫻井が代表格だ。youthful daysのサビの出だし「胸の鐘の音を」を聞き取れた奴はいるのか? 歌詞が聞こえることはどれほど意味があるだろう。われわれがロシア語を聞いても意味のない音塊でしかないが、ロシア人には「言葉」として聞こえる。意味が分かるかで、言葉の響きも変わってくるはずだ。ネットでオーディオオタが「どんなオーディオシステムよりも英語を覚えることには及ばない」といっていたが、果たしてそうか? 意味のない音塊は、その分純粋な「響き」として聴こえるのではないか? だがこの問題は検証不能だ。聴こえる世界は聴こえない世界が分からず、逆もそうだから。練習して聴こえるようになったとしても、聴こえる世界にいる時点でもう聴こえない世界は思考不可能なのだ(できない世界は、できるようになった時点でもう思考できない。野矢茂樹の「論理空間」に対する反証である。)

それにしても、声は恐ろしい。声、表情、視線は肉体的な要素(個々の声質、顔立ち、目の形の差異)がはっきり出るから、自分でコントロールできない。だから、精神的なものを感じ取ってしまう(中でも特に志向性が強い視線に着目したラカンは本物のヘンタイだと思うぞ)。

もちろん、そこに何もあるはずがない。われわれは無理に意味を読み取る。ためしに、30秒ほど壁の「細部」を見てほしい。こつは、「壁」を見るのではなく「細部」だけ見るのだ。それも細部だけが見えるほど近づくのではなく、少し離れた上で全体ではなく微妙な凹凸といったディティールを感じるのだ。そうすると、壁が病的なものに見えるだろう。われわれは無意味を嫌う。ゆえに無意味を「不気味」と解釈し、意味化する(無意味も意味じゃん、といえそうだが違う。これは「実感」の問題だ。恐らく、僕らは無意味を概念として知っていても実感したことは「一度も」ない。この問題は現実界と繋がっている……はずである)。声、表情、視線は無意味だ。話す際に声は出てしまうし、感情によって表情をつくってしまい、誰かに目を向けたら視線は出来上がる。作為的であるときもあるが、日常的な動作に付随するものに過ぎない、逆に、だからこそより恐怖が増す。意図的に発せられた声、表情、視線。恐ろしく不自然なものだ。しかも、徹底的に無意味である。でも、だからこそ惹きつけられる。無意味な「なにがしか」に触れたくなるときがある。ちょっと話をそらすが、闘牛には牛とマタドールのほかにピカドールという役割がある。これは槍でそのままでは強すぎる牛を弱らせる役だ。マタドールのような危険はないが、下手すると死ぬ。ピカソは画家になれなければ、ピカドールになりたかったという。岡村多佳夫「ピカソの絵画」では、牛とピカドールの関係が、絵筆とキャンバスの関係と似ていないだろうかと提唱する。これは素晴らしい卓見だと断ずる。表現とは何をしても死なない。だが、下手すると取り込まれてしまう。この微妙な関係を抉り出している。僕が思うに表現で声や視線、表情が出ると面白いのは、いくら危険でも表現であるから実害はなく、しかし本当に「危ない」気がするからではないだろうか。ロックのボーカルのやりすぎで危うげな感じ。ヒッチコックの映画における暗喩的だと「思わせる」視線。優れたアクターの持つ作品のテーマを一瞬で表すような面妖な面付き。なんて魅力的なんだろうか。そこに意味なんてありはしない。そしてそれに対して文章はあまりに拙く、「寡黙」だ。でも、書かずにはいられない。あの現実から隔絶したかのような「味わい」に追いつけなくとも、考えずにはいられない。そして僕たちが現実から離れる唯一の方法があの「味わい」に身を任せ、これこそが真実だと「思い込まされる」、あのひとときなのだ。

 

END.今回も前半は仕事サボって書いてたが、いい感じな気がする!

うちのブログは笑顔の入れ物なんです!

 このブログは読者を意識せず好き勝手書いてるが、最近、ブログに書く行為自体が「手紙」のようなものである気がしてならない。誰に送っているのかというと、たぶん「僕の周りの人」だ。と言ったものの、周りで読んでいるのは3,4人くらいで、多くは存在すら知らない。それでもよく遊んでいる人や兄などに「送って」いるのは確かなのだ。ただ読んでわかるとおり、全く個人的な内容にしていないし、する気もない。ある程度一般化して、分析している。が、このブログのインスピレーションは自分が小説や評論を書くときと比べると圧倒的に僕が出会った人から刺激と影響を受け、考えたことを書いている。そうした方がネタに困らないのもあるし、そしてそれ以上に彼らとの「目くるめく日々」を保存したいというのがある。それは文章でなくては駄目だ。前に書いたが、僕はなにが起きたかを憶えるのは大得意なのだが、そのときどんな感情だったかは全く憶えていない。だから、根本的に「楽しい」思い出などない。(悪い意味では全くなく)振り返ると常に「灰色の」思い出なのだ。でも、文章に残せば情動が入る。記憶は意識的に過去を探すが、文章だと無意識が入り込む。なぜなら文章には言語化不可能な知覚と感覚のレベルが存在するからね。単なる説明文よりも遥かに「説明的」に思えて「しまう」とき。学問よりも深く人間の本質が見えて「しまう」とき。文学には、少なからずそのような要素が入り込む。表現はそういう意義も備えているのだ。ダニエル・ジョンストンは「音楽や絵は自分の思ったことをそのまま表現できる」と嬉しそうに語っている(同時にダニエルの才気に震えさせられる台詞だ)。そのような力を信じて「文章表現」の一つとしてブログを書く。かといって思い出に浸るためのツールにしたいわけではない。逆だ。

 人間はどんどん駄目になっていく。未知のものが減っていってその分「処世」の仕方を覚えていくから、油断するとあっという間に堕ちる。そのために「めくるめく日々」を記録する。あのときを懐古するのではなく、あのときからどれほど変われたか、そのあと「めくるめく時」がどれほど味わえたか。「めくるめく日々」に身を任せていないか。「処世」し続けて、その場しのぎに陥っていないか。僕はブログを見ると自分が書いたにもかかわらずびっくりする。こんなに楽しげに日々を過ごしていたのかと。僕以外には分からないのかもしれないが、僕には明瞭に見てとれる。昔のばか騒ぎの感覚が、自分の記憶に頼るのとは比較にならないほど感じられて「しまう」。そして、その楽しさに頼ってはいけないのだ。それこそが惰性そのものであり、「処世」に他ならないのだから。

 人生は、ただひたすらに自分の「今」の感覚と向かい合う作業だ。そうであるから、昔に使った手法など使えるわけがない。表現は初見が最も面白いように、常に何かを生み出さなければいけない。それはものすごいちょっとしたことでも構わない。少し違う道を歩く、変な創作料理を作る、目的もなく卓球のラケットを買う、奇天烈な冗談を言う、ありえないほど寝てみる…… 全部馬鹿らしいが、なにか違うこととはそれだけでどこか新鮮だ。だが、人間は「型」にはまるのを好む。そうしていれば「間違える」ことはないから。それは確かだ。そういえば、子供のときはいかに変わったことをしていただろう。何も知らないから、自分でなんとかするしかなかったあのとき。もちろん子供のとき誰しもが幸福であったわけではないが、幸福でなくとも、どこか「新鮮さ」があったのは確かだろう。それはもう手に入らない。だが、それでもやりようはある。自分に対して誠実であるとは、常に面白いことを「見つけてあげる」ことだから。そのためにずっと努力することだから……

 この記事も手紙だ。文面に「お元気ですか?」という意味合いが練りこまれている。僕がブログに生き方ばかり書くのは、なんだかんだいってみんな救われてほしいと願っているのだろう。それは感謝の念などではない。そもそも悪い人生を「歩いていい」奴などいないからだ。全員が良い人生を歩く。そうであることが「良いこと」であるのに疑う余地はない。アニメ映画「この世界の片隅に」で、主人公は死んだ人を思い「うちはこの先ずっと笑顔の入れ物なんです」と気づくシーンがある。僕が手紙を書くのは、それと似ている。今まで出会った数々の入れ物として、これからの楽しさにつなげるための手段として、これからも書き続けるのだろう。

 

終わり。前半は仕事サボってメモ帳に書いてました。あと、今回は個人的な内容だよね。