そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

もしも、人生が今より充実したものであったなら

このブログっていつから始めたっけ?」と思って調べたら九月だった。もうすぐで一年だ! 意外と続いているものである。更新を思い切りさぼってる時期や、実際最近はあまり更新していないが、続けてはいる。なんとなく今回は近況をだらだらと書く回にすることにしよう。記事数を稼ぐのだ。

とりあえず、仕事は続いている。友達が「三ヶ月でやめる」と言っていたが、そのラインは突破したわけだ。俺を甘く見たな! しかし、仕事は続いているものの最近はなにもかもがよく分からない。この先は途方もないし、行為がもたらす結果も分からないし、なにかがどうなったりもしない。虚無感、と一言で言い表すこともできないし、そんな空虚なわけでもない。問題は生活における焦点があっていないことだろう。いや生活に焦点なんてないだろと突っ込みたくなるかもしれないが、それは正しい。良くないのは、僕がそう考えている「こと自体」なのだ。つまり、焦点というのは概念というよりも生活している上での「手触り」のようなもので、どことなくピンボケしているように「見える」のだ。当たり前の事実が嫌なものに「見える」から「問わざるをえない」ということだ。生活を、人生を、あるいは連続した時間上を生きることに意味などない。しかし、我々は普段感じることはない。それでも「ボヤケているかどうか」という基準はあるのだ。原理ではなく、認知と感覚、実感の総合的な判断として。茫洋とした人生は、原理的に我々には「そう見えない」ように出来ている。そのように「見え方」を操作する。誰が? 意味と常識がだ。結婚願望があるものにとって、結婚相手を捜すことは意味のある有意義な行為だ。少なくとも結婚の空虚さに気づくまで。意味は彼の人生を茫洋としたものから明確な形にへと型取りする。仕事が終わった後のビールは、仕事の苦痛を中和し、習慣的な快楽として人生の持続理由となりうるのだ。

 生きるということは、必死だ。なんとしても人生を続ける理由を見つけ出さなければならない。その理由がないと、僕のように「ピンボケ」する羽目になる。僕の友達に面白い奴がいて、心理学や英語を勉強しているやる気ある勢であり、仕事をやめて留学する予定だという。しかしこの前会ったらだんだんやる気をなくしていると言った。彼は結婚はしたいが嫌だという。結婚したらそのまま仕事を続けて配偶者と一緒に暮らして人生が終わるからだ。結婚は生きる意味として最上級に近いが、彼はそのまま人生を終わることをよしとしない、努力家とも変人とも取れる男だ。

 「ピンボケ」しているなら生きる気あるのかと言われそうだが、まずその質問が間違いだ。人生などその気があろうがなかろうが勝手に「生きる」ものだからだ。我々はベルトコンベアに載っていることを忘れてはいけない。心臓は勝手に動くのだ。しかし、ベルトコンベアの上で僕たちはなにをしていよう? なにを目印にしよう? 僕は、目印がないからボケているのだ。ただ、それでもやりようはある。こうやって文章にしてしまうのだ。そうすれば、感覚は相対化され、構造と前提が生まれ、僕はその前提を問い直す。「そもそものそもそも」というタイトルはなにも考えずにつけたが案外的を得ているようにも感じる。

「努力」なんて言葉は存在しない。何をしても何の意味もないからだ。生は空虚である。ただ生き、ただ死ぬ。それだけだ。でも、だからといって意味は欲しくない。生まれもって意味を与えられたら、それは束縛だから。ゆえに自由とは、甘さがないということなのだ。自由であるとは、他者から意味を受け取らないということは、自らの空虚を全て引き受けるということなのだから。大半の人間は、本当の自由など求めてはいない。意味に甘えていたいのだ。僕は意味に甘え「られない」から、そうなってしまっただけだ。繰り返すが生は空虚だ。同様に行為も事物も空虚だ(なんでも空虚じゃん)。だが空虚なのは生であり、事物であり、あなた自身ではない。だから、あなたは事物に価値をつけてあげる。サッカーを好きだと思い、赤色が嫌いで、ミステリーはたまに読むといい感じで、隣のクラスのA子ちゃんを見るとなんとも言えぬ胸の苦しみを感じる。あなたには、空虚なものを豊かに見れる力があり、社会的な妨害はあるかもしれないが、本質的にはなんでも好きになっていい権利がある。生は空虚だが、あなたは豊かなのだ。生きることは辛くとも、生きることを考えることこそが出来るのだ。だから僕は「自殺した人は自殺する勇気がある人」なんて論理は反吐が出る。死より楽な生などない。我々は環境や自らの力によって生を楽しく「装飾」してるのであって、生は虚ろであり、死と違って長い年月があるのだ(それに比べ死の豊かに見えることといったら!)。

 生が空虚なら、豊かにすればいい。これほど「言うは易し、行うは難し」ことはないだろう。豊かにしても、すぐ空虚さが顔を出す。僕たちはその顔を見つめる。しかし、だからこそ面白い。充実こそが、最も貧しいのだ。表現もそうだが、必要なのはギャップだ。絶望的な生が全体を包み込んでいるからこそ、僕たちがそれぞれに認める「価値」は。信じられないくらいの輝きを放つ。人生が辛く、果てなく、空しいとしても、自分がひたすらに「価値」を求め続ける限りは、素晴らしい「価値」との出会いをどこまでも愛する限りは、人生すらたじろがずにはいられない。

 

終わり。いつもよりシリアスなような。だらだら近況を書くって話はどこへ行った!

気まぐれの果て、僕が立っている(リアルに感じるときはいつも、僕は他人に唾することができる) 

 うーん、最近よくわからん。なんかもやもやした感じがするのだ。怠け気味だが何もしていないほどではなく、かといっていつもよりは冴えていない、微妙な感じだ。たんに疲れているのもあるだろうが。なんとなく今の底流にあるのは、「途方もなさ」な気がする。途方もなくなったのは社会人になったからだ。

 学生の頃は常にポイントがあった。一年になり、二年になり、最終学年になり、卒業していく。入学した瞬間に、数年で出て行くことが約束されるのだ。学生ではなくなると、そういった段階はなくなる。果てもないその後だ。「俺はこのまま仕事を続けて年取って死んでいくのか」的な、脱サラしそうな人の発想とは違う(実際にこんな人いるのだろうか?)。純粋に区切りがないことに圧倒されているのだ。こんなこと言うと目が血走っている奴からキャリアプランとかライフプランを作ることを提案されそうだが、そんな問題ではないのだ。40まで〇〇をする、みたいなのはポイントとは言わない。区切るとなりうるのは、目標ではありえない。常に一つの「終わり」でなければありえない。ひた走る小学校の終わり。自問する中学校の終わり、うつむき歩く高校の終わり、一夜のお祭りのような、大学の終わり。この際の目標と終わりの違いは、始点と終点を自分で決めているか否かだ。目標は、自分で設定して自分で閾値を決定する以上任意に「終わらせる」こともできてしまう。区切りとは、自分で終わらせられないから区切り足りえるのだ。卒業は決まっている。留年はあるが、留年の基準は自分のものではない上、自主的に留年するのはそもそも区切りを大事にしない人の発想だから除外される。ていうか留年するな。ずるいぞ。

 この、二十中盤の僕は、どこに次のポイントがあるだろう。曲がり角は目視できているのだろうか? 高校の場合は、一年経ったら三分の一だ。今僕が一年経ったら、分子と分母はいくらだろう? 次の「終わり」はいつくるのだろうか? 僕が今問題にしているのはもちろん自分の将来についてではない。この先がどうなるかわからないから不安なのではない。この先を「区切れない」から途方にくれているのだ。別にこの先どうなたっていい。嫌なのは、先が「どれくらい」なのか計れないからやりようがないのだ。今をひたすら楽しめばいいと、ポジティブな人は言うだろう。しかし、僕はいつだって現在志向だ。だからなのだ。僕は現在を楽しみたいから、続けすぎたくない。余分な荷物を持ちたくない。時が経ったら、色んなものを捨てていきたいのだ。年を取るのは怖いが、それは必然だ。ほんとに嫌なのは、持ちすぎてしまうことだ。そして一番恐れているのが、もう捨てられなくなってしまうことだ。「友達だから」という言葉はなんて空虚だろう。「友達」とは、自分にとっての他者の「所属」に過ぎない。友達だから大事にするんじゃないだろう。そいつが魅力的だから、他にはない煌きを有しているから、一緒に遊びたいと思えるのだろう。僕が嫌うのは、「関係のための関係」なのだ。人間はそのような傾向にある。最初魅力的に見えて、今魅力を失っても「友達だから」で済ませるときがある。代替不能な魅力を、一般名詞的な所属へと貶める。コミュニティの罪悪とはそこにある。所属しているから、などと思わせてしまう。人間はもっと突き詰めていいのではないか。ずるずるとつまらない付き合いをするよりも、自分の楽しさを考えていく必要があるのでは? 僕は、だから捨てられるときには捨てられるようになりたいのだ。それが、自分を大事にするとということの本義なのだから。

 もやもやは晴れない。でも、書いたら少しは分かった気がする。なにかに所属するとは、歴史化していくということだ。コミュニティの歴史と自分の歴史が連動していくということ。それは、自分と時間が同期していくということだ。しかし、所属していかないと歴史はなくなる。ただ捨てていき、先にはなにもない。どこにもいないから、時間と切り離されていく。「あの頃」を共有することがなくなる。だったら僕は、まだ捨てられるようだ。前の記事で僕は自分を「賎民」と称したが、僕は本質的に貧しいのだ。時間の中で生きることも、所属の中で生きることも嫌う。現在への過集中は、なにもかもを失うのだ。そこにあるのは感覚だけだ。知覚していることと、それに動かされる自分の情緒、ただそれのみ。過去の厚みも、未来の豊かさもない。だがそこには「閃き」がある。一瞬間の中で、全てを忘れるのだ。だとしても現実には時間がある。一瞬間にあとには、「途方もないほどの途方もなさ」が待ち構えている。極貧もいいところである。しかし美しいものは常に瞬間に宿る。例え永遠があるとするなら、それは正に、鮮烈なほんの一時にしかない。

僕は正しいことをしているんです!

 良いものとはなんだろう。誰にとって良いものだろう。なぜ良いものなのだろう。なんで良いものなんだろう。それは客観的に良いのか、主観的なのか。

 今回考えることである。一体、良いこととは、良いものとはなんなのか。幸福な状態にさせてくれるものなのだろうか。今回のきっかけは、友達とマックに行ったとき(行き過ぎな気がするがまあいい)である。友達はこう言っている。「美味しいものを食べるのは幸福である」と。僕はそうでもないと言うと、これは真理なのだといった。あまりにしょうもない導入であるが、ここから始めてみよう。美味しいものは幸福をもたらすか。もちろん、真理なのだから誰にでも。いやそんなはずはないだろう。実際僕の兄は食べ物はコスパと栄養価でしか考えていないと断言している。と結論づけるのは可能だが、そもそも彼は何を持って真理と言っているのだろうか。その後彼の言動をみる限り、みんなそうだから真理なのではないのだ。彼にとってはみんなが「そうあるべき」だから真理なのだ。そんな真理はあるのであろうか。たしかに、正しさとは、良いとは何か分からない。正しさのために人には変わる必要性はあるのか、それとも今正しいと思うことが正しいのだからそのままでいいのか。人はそこで延々と迷うはめになる。自分をどのように変えるのか。どういうときに変えるのか。

 僕が興味深いのは、真理なんて言葉を使って主張する意味だ。なぜ、真理だと思い、真理だと確信したのか。僕だったら使わないだろう。なぜなら、自分が正しいとは思えないし、それ以上にそこまで人に対して「そうあるべき」と思えない。ていうかなぜ思うんだろうか。「そうあるべき」と思うのが傲慢だからではない(個人的には傲慢は限定付きで肯定される)。僕からしたら、そんなにしてまで人を変えたいと思えないからだ。僕はその辺が変わっていて、自分以外のことしか考えないがその考えを洗練させていくだけで他者には向かない。だから、逆なのかもしれない。自分のことを考えるが故に、他者に向かって行くのが、人間というものなのだろう。精神の構造よりも、自分の物の見え方の方に注意がいくから、疑いがない。これは悪い意味で言っているのではない。主観的な知覚や感覚もまた、非常に重要である。ただ、人と人の関わりの中ではデメリットになりうる。自分と他人の感じ方は違うからだ。

 僕の大学の先生が「今書いてる批評で言いたいことは『小説にもいろいろある』ってことだね」と言っていたが、本質的である。一面的な評価で表現は語れない。そしてこれは人間にも当てはまる。本来人の関わりの中でしっておくべきことはたった一つだ。「人にもいろいろいる」ということだけなのだ。人間の持つ究極の相対性はそこからなる。好きな音楽も、食べ物への態度も、食器の趣味も、全部違う。同じと思うことがあったとしても、全くの同一ではない。結局、「そうあるべきこと」とは、「自分には世界がこう見える」ということに過ぎない。僕にとって食べ物は幸せも大きな感動ももたらさない。そういう見え方なのだ。そして、それが変わったりしないだろうし、困ってもいない。

 正しさは本来存在しない。ただ自分の感覚の中ではそう思わざるをえない。「そうあるべき」ことも、存在はしない。ただ他人を変えたいとき、関わりたいときに創出される。そのように思えるのは少しうらやましい。なぜなら、自分と同じように他人も感じているだろうと思えているのだから。自分とと他の人は違うことをわかってるし、「実感」してるから(中二病かよ)、どうしても正しさを標榜して生きられない。いわば賤民なのだ。友人は「美味しいものを食べることは幸福だ」と言っていた。正しさとは、あるべきこととは須く幸福のためにある。正しいことこそ、自分の中の幸福要件なのだから。そう考えると、腑に落ちるものがある。正しさを「そうあるべき」と考えるのは、自分の幸福要件を他者と共有し分かち合いたいのだ。傲慢だが他己的だ。でも前提である正しさ自体が幻なのだ。だから苦しむ。ときには怒り、嘆き、自他を線引きする境界線を眺めながら今日も明日も生きていく。

 

自分は表現である。

表現を作ることで自分が救われる人がいる。僕もそうだ。でも、なんでそうなのかはいまいち判然としない。ちょっと考えてみよう。smashing pumpkinsの「today」は出だしが「今日は最高の日、明日のことなんて信じられない」である。意を汲むと「明日に意味を見出だせないから死にたい」になる。実際作詞のビリー・コーガンは鬱々としていたらしい。だが、世間は今を肯定する曲だと捕らえた。僕もそう思ったろう。異様なパワーと美しさを持っているからだ。面白いのは、結果的にコーガンはこの曲を作ったらなぜか救われたことだ。

 もうひとつ見てみよう。懐疑主義者だ。懐疑主義とは、なんでも疑うスタンスである。究極的には、「今見ている現実は嘘かもしれない」まで行き着く。非常に絶望的な考えとも言えるが、懐疑主義者の中にははこのように「懐疑」していくことで救われるものもいるのだ。

救われるときは、一般的にはネガティブな表現の方が多い気もする。ハッピーなものでは却って効果がないようだ。この辺りは、悲しいときに明るい音楽を聴くより暗い音楽を聴く方が悲しみが薄れることと関係あるのかもしれない。いずれにせよ、自らの悲観を描くこと、もしくは誰かの悲観を体験することは対象化されるから悲しみから救われるのだろうか。なにか違う気もする。表現とは、操作である。伝えることのできない自分の気持ちを、表現のシステム(音色、色彩、構図、文体といった表現各々の持つ特性、性質)を通すと、なぜか鑑賞者は言葉によって気持ちを説明よりも遥かに気持ちが「分かる」。ただ、分かるのは勘違いではある。表現によって作者の考えが鑑賞者にダイレクトに伝わるはずがない。表現のシステムは複雑過ぎるし、理論化が進んだとはいえ解明できているとは全く言えない。伝わるはずはないのだ。だが感じるのだ。そこに理屈はない。そして、自分にとって素晴らしい表現は神の啓示と等しい力を持つ。表現から作者の考えは読み取れないのに。それはなぜ? 恐らくは、違う形で作者が「露出」しているのではないだろうか。表現を通して作者の考えはねじ曲がる。同時に、作者にも創作とは制御不能だ。そこから「なにか」を作者自身も読み取る。創作行為とは、自分の「なにか」と向き合いながらひたすら自己とやりとりしてくのだ。そのときの作業は言語を(文章創作であっても)超えている。意識的な思考の範疇を超え、表現のヴェール越しにいる自分を見続けるのだ。

 しかし、「today」の美しさはほんとに信じがたい。コーガンはなぜ救われたのか。それは、表現と自分がどこかで近しいのだと思う。コーガンの場合音楽に、つまりはメロディやリズムなどの音楽的要素を考えることが、自分を考えることにつながっている。この場合の自分を考えるとは、先ほど言ったように非言語的な思考だ。だから傑作とは無意味で、非言語的な体験をさせてくれる。表現の快楽とは言葉のない世界につれていってくれる「最高の旅」に他ならない。ほんの一時、言語という当たり前過ぎて感じることすらない、つまらない現実認識を取っ払った「ときめき」に出会える体験装置。言語や社会の決めごとから放たれた、無垢な草原のような領域。そこでしか出会えない自分がいるのであり、他人もいたりして、少しずつ自分の「どうしようもなさ」を解消していく。

よく分からない自ら。人によって様々な言い方があるだろう。不幸、不満足、拘束、なにかが足りない、悲しみ、漠然とした不安、下らない世の中、最高の人生……打ち消す方法も様々だろう。救い、依存、嫉妬、創作、破壊行為、自傷、自己拘束、神経症による疾病利得、泣くこと、すがること、死に絶えること……

表現は、僕たちの無意識を代弁する。衝動を言い表す。なぜそうなのだろう。それは、「美しい」からなのだ。あの激しさ、優しさ、愛しさが美しい。克明に引かれた線と色が、言葉からこぼれ落ちる言葉の思いが、常世から遠く離れた打鍵からなる響きが、美しくてたまらない。そこに思いはない。だが、あの美しさに「宿っていないはずがない」。だから、傑作とは生の力なのだ。ジャン・コクトーは「傑作とは、死に打ち克つことである」と言った。正しい。どれほど暗澹とした作品だろうと、傑作は僕たちを生きさせる。あの「美しさ」を前にして、死のうと思う訳がないから。素晴らしい表現は、いつでも味方であり続けるのだから。

 

終わり。そろそろ長い文章かかないとなー。

「今が最高」だよね!?

 前に書いたが、人生はなにをしても続く。偉業を成し遂げても、「偉業のその後」がある。「伝説のその後」がある。

 この事実にひたむきに向き合ったのが劇場版ラブライブ!じゃないかと思った。スクールアイドルという輝かしい時代が終わる。でも人生は続いていくのだ。そのことに言い知れぬ不安を覚えるμ's。しかし、結論として彼女たちはプロのアイドルになることもせず、すっぱりと辞める。なぜなら、彼女たちは「飛べる」からだ。スクールアイドルという地盤がなくなったら、また違うところへ行こう。その精神を彼女たちは持っているから。劇場版の凄いところは、謎の女シンガーを登場させたことだ。穂乃果と似たような過去を持ち、今はメンバーと離れ離れになった上でも楽しく生きる彼女。穂乃果はそんな彼女にどうすればいいのか問う。彼女は「飛べるよ」と返す。そう、スクールアイドルは今の穂乃果にとって全てだが、期限切れはやってくる。ゆえに、今の全てでも人生の全てではなありえないのだ。だから穂乃果、ひいてはμ'sは飛ばなければならない。スクールアイドルは終わっても人生は終わらないから、果てなき人生を進み続けるしかない。直にまた期限切れになるかもしれない。それでも飛ぶのだ。プロのアイドルを拒絶するのは、スクールアイドルの残りかすを追うのは「飛んでは」いないからだ。本当にスクールアイドルが好きだから、「今が最高」だからこそ、「その下」に行ってはいけない。スクールアイドルが終わろうが、メンバーと関わりがなくなろうが「今を最高」にさせ続けることが「飛ぶ」ということなのだから。

 スクールアイドルである「今が最高」なのは間違いない。そういう意味では、瞬間を賛美するアニメでもある。だが、スクールアイドルに期限切れはあっても、人生に期限切れなどないのだ。死んだ瞬間だけが「期限切れ」なのだから。人生の終わり際まで「今を最高」にしていけるから、スクールアイドルをやめられる。劇場版ラブライブは、今と今後全てを肯定する、非常に包容力の強いアニメである。だから素晴らしい。アイドルという有限な存在に対して、完璧な答えを出している。ラストの台詞(というか歌詞)は「今が最高」である。この台詞が単に今だけを賛美しているわけではないのは説明した通りだ。だからその後を描く必要などないし、やはりライブシーンで終わるのがベストなのだ。「今はスクールアイドル」である以上は。そして、彼女らはスクールアイドルでなくてもスクールアイドルのような輝きを保ち続けるのだから。

僕たちの人生にも期限はある。例えば学生。いつかは終わるものだ。所属や肩書きでなくとも、肉体は衰え、脳は劣化し、容姿は老化の一途を辿る。期限が迫るにつれて色々ダメにはなる。それでも人生は続く。だから飛ばないといけない。何が終わろうが、衰えようが「今を最高」にすることはできるのだ。過去を羨むときとは、昔が良かったのではなく今が駄目なだけだ。人生は常に肯定され続ける。素晴らしい今も今後も、「可能」なのだと人生は肯定する。だから責任逃れはできない。肯定されている以上、駄目であるなら自分自身にしか原因はない。懸命に生き続けること。現状と向かい合うこと。正しさを判別すること。「ライブ」とは、常にそのような意味を持ち続けるのだ。

 

終わり! 矢沢にことなんだかんだ穂乃果が俺は好きかな……

 

 

夢という夢が虚しく消えていく、そしてメジャーリーグが勃興する

今回はブラック企業にいる大学の友達に向けて書いた。最終的に誰に向けて書いてるのか分からなくなったが、まあ良い。じゃあ行こう。

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無思考のための思考。非理性のための理性。空前と広がる、霞ばかりの砂原と内的世界。


われわれは、現実のために如何なる手段が取れるだろう? 自己を社会という「鋳型」にフィットさせるために、どのように変型させていけばよいのか? 悪質な企業は、非常に厳密に「鋳型」に合わせられた人間を作成する。決められた形状から寸分も離れることは許されていない。歪は、破滅的なものであると解釈され、人間は溶解され液状化し、鋳型どおりに固められる。身を溶かす熱に耐えられない場合、早々に逃走する。溶解は、企業にとっての「ふるい」である。落とされることは一つの結果に過ぎず、想定外ではない。溶かされたものはある程度の耐熱性、順応性を備えているが、同時に意志亡き者である。彼らは思うがままに作り変えられ、企業によって設計された「美しい造形物」と化す。少しの歪みのない、滑らかなオブジェへと。しかし、何一つ面白みはない。あるのは極端な順応性と完璧なフォルムだけである。ゆえに、神が創ったにしてはあまりに不自然で退屈な無機物なのだ。
 さて、ここまで二つのタイプが提示された。もう一つある。溶解の灼熱に耐えた上で、「鋳型」にはまることは拒否できないタイプだ。これは非情な矛盾に満ちている。忍耐力があるが、同時に意志を殺すことも不可能だったのだ。そのため、留まることはできるが常に苦痛を味わう。溶解されたまま、液状化したままでいるのだ。肉体がとかされ、企業に従属する作業員が「鋳型」にはめこもおうとしても、「鋳型」によって完成される自分を受け入れられないのだ。彼は液体のまま彷徨う。固体として確固とした姿形を持つことも許されず、溶かされたまま…… 
 だから、彼が行うのは「無思考のための思考」なのだ。「美しい造形物」のような無思考にはなれない。逃げるほど弱くもない。なら「考えないように考える」しかない。当然ながら、矛盾である。考えを止めた瞬間考え始めている。考え始めた自分に気づき考えを止める。その瞬間考えが始まっている。照明のスイッチを無限にオンオフし続けているかのような光景が展開される。思考が無思考を飲み込み、無思考の思考が思考を瞬間的に切断する。だが、刹那であっても思考を停止させなければならない。まるで、コンピューターゲームの最中に突然コンセントを抜くことでデータを保存させないように。そこではプレイするのもコンセントも抜くのも自分である。思考によって得られた財産を、自分自身で捨てるのだ。それは効果的ではある。だが、空虚だ。生産し、放棄し、何も残らない。固体として存在することもできない、液状化された意識がズルズルと徘徊する。
 空虚はどうやったら消えるのか? いくつか考えられるだろう。まず徹底した依存だ。なにかに寄りかかり続けることで、形を保ち、空虚で「ないように」見せる。問題は、依存対象によって社会的、経済的に破滅する可能性と、大抵依存先を次々と変え続け、比例して心が壊れていくことだろう。次に逃げるのも考えられる。やめてしまえば手っ取り早い。もちろん相応のリスクはある。が、低リスクなやり方でもある。少なくとも崩壊は免れるからだ。他には結果的に洗脳されるのもある。単なる無機物に成り下がるので、空虚ではなくなる。だが、完全に無機物になるのは人間の脳機能的に不可能なのも事実だろうから、常に崩壊のリスクは潜む。
 これらに最適解などもちろんない。僕たちは、なぜこうも苦境にいるのだろうか? 行動してしまえば、全ては終わる。だがどう行動すれば正解なのだろうか? 手持ちの情報があまりにも少なすぎるのだ。唯一つ分かるのは、今歩いている方位に歩くことが一番楽なことだ。自分の見えている世界ならやり方は分かる。例えそれが辛かろうと何だろうと、やりやすいのだ。一般論とは裏腹に、可能性というものを人間は欲しがらない。未知は膨大な可能性を提供すると同時に巨大なリスクももたらす。そして、人は可能性よりもリスクを怖がる生き物である。それは社会の中ではより顕著になる。自分の行動で社会まで影響が及ぶのだから。個人的にはリスクを恐れず可能性をとれ、とも思えない。そういう生き方が良いと説く人は成功した人で多いが、つまるところ彼らは「可能性マニア、もしくは中毒」であるからそう思うだけだ(僕もその節はあるが)。人生は、他人の言葉を鵜呑みにする場所ではない。だからこの文章も信じなくて一向に構わない。だが、読んだあなたにこの文章はなんらかの影響をもたらすのも事実である(表現とは『挑発』なのだ)。人間は経験から有無を言ぅこともできぬまま影響を「もらう」。だが、もらった影響に対して咀嚼することは可能だ。そして、本当にピッタリくる影響もない。どれだけ共感しても、本当にそのままそっくり自分の意見なはずがない。だから行動することにおいて、人生には所詮自分しかいない。誰がなにを言おうとやろうと、参考程度にしかならないのであり、自分がしたこととはどうであっても「私が考えてやりました」となってしまうのだから。自分が自分を考えるのは、だから途方もない。どんな周りの意見もしっくり来ない。自分を考えるのは「最初であり最後」なのだ。だからといって無思考になるのも否定するわけでもないし、鵜呑みにするのも悪いとは言わない。自分で選んではいるのだし。ただ、やはり空虚なのだ。自分がそこにないから、おかしな空白を抱えてしまうことになる。ただそうは言っても、人間などどうしても空虚だし、くだらない。主観的に見ればそれはどうしようもないことでもある。だから唯一つだけ、僕は僕が考えることとして、他の誰でもなく「自らの空虚」と向き合うことを選んだのだし、それが一番面白いとも思えたのだ。

 

終わり。まあ僕は「空虚マニア」なんだと思うよ。

ジョイ・ディビジョン「クローサー」と「貧しさ」

今回は珍しく個別に作品を取り上げよう。説明不要の名作、ジョイ・ディビジョンの「クローサー」についてだ。

 なんて極限的な世界だ。乾いたビートに、インダストリアルなギター、無表情なベース、あのイアン・カーティス。個々の音の鳴らしを徹底的に追求して、極北に立っている。そして、恐らく「クローサー」はロックの「ロック性」を利用している。ちょっと付き合ってもらいたい。

 表現には時間と空間の要素がある。小説は文章量と時間の厚みが作中の経過時間に関わらず比例するものであり、フォークナーの「八月の光」には空間的な要素も見られる。絵画は平面上の配置の問題があり、それなりのサイズまでなら全部観るのに時間を要しないため空間的だ。交響曲プログレッシブロックのアルバムは物語的であり展開もそれに応じたドラマチックなものとなるため時間的だ。音楽は観賞時間が固定されているためそもそもが時間的なのだが。オーケストラは立体的な音の響きを重視するため空間的になる。コンサートは空間的な要素が根本から強まる。

それに対し、ロックは空間的にも時間的にも弱い。構成がシンプルすぎて時間的な厚みはないし、アンサンブルが素直すぎて立体感もでない(ポストロックを反証にあげるかもしれないが、あれはロックというよりエレクトロと現代音楽とジャズあたりのミックスだろう。)。ロックとは「貧しい」音楽なのだ。大作を作れる理論もなければ、バンドサウンドは空間に立体的な響きをのせられるほど豊潤でもない。

クローサー」の持つ退廃的な感覚には、この「貧しさ」がリンクしている。シンプルな分空しく、響かない分閉塞的に。ロックの持つ行き場のない「貧しさ」の中でとるべき方法は一つ、個性だ。ジョイ・ディビジョンにとっての個性は音の鳴らし、つまりは音色である。「鬱屈とした音作りを、鬱屈とした音作りを、鬱屈とした音作りを」ただそれだけを念頭において「鳴らし」にこだわる。こういったサウンドはロックしかできない。なぜなら他のジャンルは「豊か」だからだ。なにもない中でただ音色だけが妖しく輝くのがロックの世界だ。いや、そこには時間も空間も存在しないから世界にもならない。ただの虚ろ。それこそがロックであり、利用したのがジョイ・ディビジョンという「貧者」なのだ。しかし、イアン・カーティスの圧倒的な「語り」はなんだろう? 訳も分からないまま、情動だけは激しく揺さぶられる。空虚はそこに精神的な要素を感じさせるのだ。情動の原因はイアン・カーティスの精神だと感じさせる。しかし、そこにあるのはただの声であり、空気の振動だ。声の「感じ」、それがロックのすごさであり、「クローサー」の本質である。鬱屈した音作りを各パートがつきつめ、イアンが「なにがしか」を「発する」。なにもありはしないのに。

 

終わり。本当にすごいアルバムだ。音楽の可能性の一端であり、一つの可能性を終わらせた作品でもある。

この作品はイアンの遺作である。みんなも自殺しよう!