そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

第二章は迷走していましたね

 このブログでは日頃思っていることを綴っている。最近は頑張ることの否定が主なテーマだった。たしかに、頑張ることにはなんの意味もない。でも最近、頑張ってみようかとも思った。一昨日の記事を書いたときそれをふと思ったのと、友人の言葉がきっかけだった。「お前は一回心理カウンセラーの勉強をしてみるといいかもしれない。そうすれば自分と否応なしに対峙するから、少しは空虚さがなくなって意味が分かるかも」みたいなことを言われた。確かに面白い案だ。そのときは曖昧な返事を返したが、今ならはっきり答えられる。俺からしたら自分を見るのはしょうもないことにしか思えない。そんなことになんの面白さも感じられないし、そもそも意味がわかって欲しくもない。何一つくだらない。だから、僕は出来る限りやってみようと思う。今回気付けたのはそれだ。友人のアドバイスのおかげで、ようやく自分を捨てられたのだ。空虚は確かにある。だが全てに意味がなくなったりはしない。表現を作るとき、鑑賞するときに非言語的な、ある種の宗教的な酩酊感を感じる瞬間に取りつかれているのは否定しようがないから。僕はオタクなのだ。特定の対象にしか興味を抱けないし、そこに有無を言わず引き寄せられる。それは意味を持たなくとも、好きでなくとも、良いことでなくとも関係ない。もっと「暴力的」だ。ただ僕は感覚を言語化する癖があるからそうなるだけだ。つまり、全てが空虚とは完全な客観であるように見えて、そのことを証明すること自体が完全な主観なのだ。そこに気づけていなかった。だからこそ安心して僕は自分を捨てられる。なぜなら外部に考えることが、理論を編み出すことこそが僕にとっての「主観性の表現」であるから。客観性を重視することが、同時に主体の個性を表現する。虚空が広がっていても、それは「心を動かす、非言語で作られた美しい虚空」であるのだ。あまりに盲点だ。全てはやはり空虚だ。ただ、僕にとって空虚は美しかったのだ。

 そして、つくづく自分らしいと思う。友人の言葉に従うのではなく、反抗することで気づけたからだ。昔から反抗的な人間だった。ほめられても何も感じないが、貶されたときは無性にやる気が出る。誹謗されたわけではないが、僕からしたら自分を見つめるなんて否定されているのと同じだ。この場を借りて彼に感謝しておきたい、結局空虚の空虚さを考えることは自己への言及であり、たいした意味を持つわけではなかった。ただ、空虚が美しいことに気づけば良かっただけだ。そこに対して大きなヒントになった。僕はもう少しやってみようと思う。頑張ることに意味はない。価値もない。いいことなのかも分からない。ただ、僕は思考がスパークした果てにある「美しい風景」を見たいだけだ。美しさを感じることは言語的体験ではない。だから、そこには意味も価値も疑義を差し挟む余地がない。ただ美しいものが、言語的なフォルムを持たずに僕に本質をもたらす。非常に宗教的な言い回しになっているが、つまるところ人間の原動力とはそういうところに見出されるのではないだろうか。人間は理屈で動けない。意識は常にセーブをかけるから。最後にあるのは非言語と無意識だ。原始的な衝動性こそが人を動かす。だがそこに至るのに必要なのは批評性なのだ。分析的な態度が無意識と出会うとき、美しい響きが生まれる。言葉を失うためには言葉を得る必要がある。非言語的体験の素晴らしさは、言語があることで生まれる。忘れてはならないことだ。

 ここらで二章は幕を閉じる。迷走している章だったが、無意義ではない(ロック批評家の中山康樹だったら、「ジョージ・ハリスンインド音楽時代」と評するだろうか)。三章は……未定だ! 特になにをやるべくでもない。まあ、いずれ発想は出るだろう。ゆっくりしていよう。僕は行為しかできない。閃きは、僕の領分ではない。そういうときは、表現がいつか僕に教えてくれるのだろう。何の意味も有さない表現だけが。

 

二章終了。お疲れ様!

若いころは馬鹿してたんなら、今も馬鹿しろよ!

 帰省してきた。今回はなぜか夏休みのときと比べてひどく懐かしく感じた。単純に時間が空いていたのもあるが、冬なのもあったように思う(東京から山形に着いた瞬間雪が積もっていたのは分かっていても心を動かされた)。それもあってか、山形で印象に残っていた場所を撮影してtwitterにアップしたりしていた。それで、友人ともそれなりに会ってきた。会うたびに全員少しずつ変わっていて、中学の友達になると「結婚したい?」的な話も出てきて、さあ人生も一旦落ち着き時だ! 感はある(僕は別に変わっていないのだけれども) そうだ、僕は今25歳だ。確かにそろそろプランを練ってもいいのかもしれない。これまで生きてきて、プランを練ることなんてなかった。刹那的で、瞬間の切れ目の中にいて、余裕がなかった。今となっては「処世」を少しは知っている。そして、刹那に生きるのも大抵の人には限度があるのだろう。よほど捨て身でない限りは地に足をつけたいのだ。落下地点を探さねば。

 帰省して会った友達からは、「いっそ仕事を頑張って小説を捨てようと思う」と言われた。僕は否定する気は全くない。物書きは、物書きである以前に人間だ。人間に執筆の義務はないのだから。この友人含め、みんな生きていた。今回の帰省では、それぞれの生き方がとても目に付いた。それぞれがそれぞれの生き方を選択している。家族も含め、適当な奴もいれば信念に基づくものもいたし、飄々としている者もいれば悩み続けている奴もいた。僕は彼らの人生に上下をつける気はない(面白さに上下はあるけどね)。ただ、その中でも「将来への担保」の程度はそれなりにある。仕事をしているか、安定して付き合い続けている異性がいるか、精神や肉体に問題を抱えてはいないか。これは良し悪しではない。それでも、安定しているやつの方が不安度は少ないし、あまり病んでることもなかった。そう考えていてふと思ったのだが、若さってのは所詮「落ち着き」への準備段階に過ぎないのではなかろうか。反抗的な思春期を経ることで社会性を獲得するように、刹那的な若さに身を埋没することが将来的な安定への気づきになる、ということだ。流石に統計的なデータは取っていないが、昔から暗くて50過ぎても独身と言う男と、遊び人だがふらふらしていたら50過ぎていた、では前者の方が多いんじゃね? ってことだ。

 以前邦楽のインディーシーンについて書いた本を立ち読みしたが、「アイドルやロックは常に若さを前面に押し出すことが共通している」とあった。でも、みんな大人になるのだ。バンドマンの女は、公務員と結婚するのだ。プロアマ問わず一部の人間だけが、いくつになっても若さを追い求める(しかし求めても大半は「過去の若さのパロディ」になるのは何たる皮肉か)。いつまでも若くいたい人なんてそうはいない。その場限りのアクションも、乱痴気騒ぎも、将来の安心へ吸い込まれていく…… そんな構図だ。「昔は馬鹿なことやってたよ」って言う人は、昔が煌いてるのと同時に、反省の材料なのだ。そして、昔の馬鹿を何年経っても忘年会で話したりする。ある種の安定的な話題として。非常に否定的なニュアンスに聴こえるが、繰り返すけど僕は否定する気はない。今回の記事で狙いとしてあるのは、若さへの疑義だ。なんつーか、若さって様々な言い方はされども良いこととして捕らえる人が多いし、若いときの無茶を自慢する人が多いけど、それって安定への準備段階に過ぎないでしょ? ってことを言いたいのだ。僕が破壊したいのは、過去の馬鹿騒ぎを宝物にする態度だ。お前が若かったその瞬間は、今の安定を得るための行動に過ぎない。もちろん昔楽しんでいた瞬間は素晴らしいが、振返って思えば安定するための助走行為、姿勢制御に過ぎなかったな。そのことは年取って勢いを失ってもスタイルを変えないロッカーにも言えるし、もう訳が分からなくなってしまったのにだらだら続けるシリーズものにも言えるのかも知れない。

 だから、僕は感傷的な気分になる。感傷にしては珍しく、自分自身ではなく他者を見て、僕はエモーションを得ている。学年が下の友達もいないから、みんなもう学生ではなくなった。仕事をやめて鬱々としていたり、自己に悩んだり、結婚したかったり、絶望したり、まだまだ創作を続けていたり、嫌気がさしていたり、仕事に四苦八苦したり、生きていたり! そろそろ落ち着き時だ。「若さ」の幕は降り、引き続き「家庭」が始まる。僕がやたら変わらないと言われているのは、多分悩んでいないからだろう。安定していようがいていまいが、みんな悩んでいる。僕はそれに比べてあまりに無邪気だ。だからこそみんなを見て感傷的になる。今後のおよそ六十年ほどに、人生の途方もなさに対して、計画を立てるのか欝になるのかはともかく悩んでいる。将来がどうでもいいとは全く思わない。「若さの時代」が良かったとも思わない。ここまで来ると理屈でもないのだが、僕はみんなにもっと「我を忘れて欲しい」と思っているのかもしれない。若さ故のエゴでもなく、自分の人生計画をただ眺めているのでもなく、他者について考えるということ。「ダンス」を踊るということ。もう一つは、単純に忘我するまで楽しんで欲しいということ。ああ、やっと結論が分かった。それなのだ。自分は差し置いて、もっと他者を見て欲しい。恥も外聞も問わず好きなことをして欲しい。生きている「この現実」を、たまには忘れて欲しい。そのことが、なんでそれが必要なのか、大事なことであるのか僕の言語感覚で言うなら、自分と他者への「慈しみ」がそこにあるからだ。

 

おーわり。いつもより前向きじゃない? うつ病でいるのも飽きた品。

世界と現実の差異、主体と人生における関係性と両者がナラティブを学修することで得られる永続性について

タイトルはかっこいいことをいいたいだけです、それではどうぞ。

 

どうにも、俺は盲目的になれない質のようだ。
 そう思うのは特別なきっかけがあるわけじゃないが(思考や行動に動機を求めるのは『不純』だ。現実は道徳の作文でも就活の『大学生活で学んだこと』でもない)、とにかくそう思ったわけで、そうなると考え続けずにはいられない。盲目的になれない理由ははっきりしている。俺は「絶対的な価値」を信じられないのだ。これまで書いてきたように価値なんてそれぞれが勝手に決めているもの、というのが大前提にあるため良いと思うものも「これは俺が良いと思っているだけ」という感触がつきまとう。比喩的に(もしくは本質的に)言うならば「神」を信じられないのだ。神=個々人における絶対的価値、と置き換えたときに信ずるものがないということだ。敢えて言うなら感覚が俺の中では「神」の座に最も近いが、それも結局は「感覚こそ各々が神を信奉するに至る論拠であり、であるからこそ絶対的でもある」というロジックに過ぎない。絶対性とは、もっと無根拠でなければいけない。「なぜこの神を信じているか」にいちいち理由を求めてはいけない。
 それが、どうしても嫌なのだ。なぜ何も考えずなにかを求め続けられないのだろう。いや、求めるのは出来る。ただそれは衝動性がもたらすもので、対象に対して愛着があるというわけではない。理由もなく好きといいたいのだ。訳もなく見蕩れてみたい。意味もなく後ろを振り向いてみたい。信じられないほど信じてみたい…… 僕は内実が信じられない。普遍的な真理は、構造にはあるかもしれないが思想には存在し得ないと考えるから。「その事象はどのように現実としてあるのか」は語れるが、「その事象はどんな現実であるか」は語れない。なぜなら現実は描写できないから。ゆえに内実は見えない。そうだ、だから最後には空っぽになるのだ。世界と僕の両方が。空っぽだ…… 

 

僕が何もかも意味がないと思うのはそこにあるのかもしれない。「理由なき好き」とは究極的に主観的だが、だからこそ主体の中で極限的に価値を持つ。いわばそれこそが、自分自身の「エリア」であるから。空っぽとは「エリア」が、幻想であったとしても内実が、中身がないということだ。そして同時に一貫性を失う。世界に対する位置づけを失い、意味のあるなしでの判断が封じられる。理由付けしか出来ない者は、世界「を」相対化できても世界「に対して」相対化できない。主体が世界に対して一貫性を持つときは、常に自分の中の意味による比較なのだから(物語もそうだ。そしてそれ以外に物語の意味はありえない)。ただ、僕はそれが嫌いになれない。「理由なき好き」とは主体にとっては最大の愛着だが、同時に最大の呪縛だ。「好きになれずにはいられないし、嫌いにもなれないの」だから。何もないとは、何をしてもいいということでもある。脅迫も恫喝も存在しない世界なのだ。その代わりなにをしても無意味だ。一昨日、友達が「俺は意味のないことをしたい」と言っていた。そのとき例示したのは、終電を逃してしまい、深夜に17キロ歩いた後背中から朝日が上がった瞬間についてだった。確かに素晴らしい。だがそれをしたい時点で意味があるのだ。少なくとも有意義だ。

 じゃあ僕はしたいことがないのかというと、流石にそれはない。このブログを一年以上続けたのだし、そこは「したかった」のだろう。ここで僕は自分に問うことになる。他人にはその意味が分からない、「エリア」のなかの問い。僕は、表現が好きなのだろうか。一般的に見たら好きなんだろう。音楽と文章に関しては、明らかに鑑賞しているほうではある(一日平均30分も読まない奴が、本当に? と思う方は「一般人」の世界を知らない人です)。だが、ここでは一般論は意味がない。僕の話だ! さてどうだろう。好きか、と言われると答えに詰まる。昔なら断言していただろう。今はなんだろう。他にやることがないだけ、だから? そうともいえる。逆にみんなはなにをしているんだろう。暇つぶし? なにを以って暇と呼ぶかによるが、退屈しのぎになるのは確か。救われるから? 表現は、結局僕を救っているんだろうか。僕は表現に救われているんだろうか。数々の作品が僕の心を動かしてきた。ドフトエフスキー、エヴァンゲリオン、R.E.M、ペイヴメントカフカ機動戦士ガンダム、今ならシェイクスピアモデストマウス。こいつらは僕を救ったか? こいつらなしでも僕は人生を運営できるんじゃないか? 本当にお前らは価値があるのか? 今書きながらレディオヘッドのハイ・アンド・ドライをレコードで聴いているが、救ってくれたのかは分からない。だが、やはり素晴らしい。ここまで僕を痺れさせるものはそうない。だが痺れさせることの意味は? 痺れるっていいことなの? 無限の問いに答えてくれる者はいない。問いが、どこまでも空虚にしていく。価値を藻屑へ変える。だが、それは言語にするからだ、「痺れる」とかいう言葉を使うから悪い。感覚はそんなこと言ってないし、言わない。「今感じているこれ」はいいものだ。言語を封じ込めるのは、いつだって非言語ということだ。そうだ、表現は救いも痺れさせたりもしない。ただ「感じさせる」のだ。それにとやかく言う必要もないし、そもそも言葉でないから口出しは出来ない。だがそうであっても「理由なき好き」とはまた違うものだ。世界に対する相対化の機能も、意味と無意味の線引きもしてくれない。ただただ、情動的な情報。究極の幸福であり、地獄の空虚。僕はそこに価値付けられない。ある意味では絶対性の極地であるが、ただのゼロでもある。

ここまで書いて思うのは、僕が思うことは、表現は僕を救ってくれなくとも、僕に世界を見せてくれるのは表現だけだということだ。脳科学者ラマチャンドランは、表現とは現実をディフォルメすることで現実よりも現実らしくすることだと言った。僕は論理レベルではなく、実感としてよく分かる。現実は何一つ取り留めを持たない。無秩序だ。だが、表現には理論があり、要素を操作していく物なのでまとまりを持つ。そのスコープを通したとき世界を、人生を理解できるのだ。そのことにどんな価値があるか分からない。別に理解する必要性はないとも言える。でも確かに、僕がよく分からなくなったときに、理解が何もできないときは、表現が教えてくれた。感覚を通じて感じるままにいることと。そしてそのとき見たものは、描かれていた景色は、言語を失したなにかこそ、僕の心を読んだかのような「答え」だったのだ。

 

 

 

終わり。人生なんてくそくらえだ!(なぞの怒り

怒りの広島第二章(広島への風評被害が深刻)

やはり、俺は怒っている。

鬱憤なのだ。憤懣は尽きねども、発散する場がない(そういいつつ文章を書いている。なら文章に怒りをぶつけているわけになるから、言語化した瞬間に矛盾化するのだ)。この前は分からないだったが、今は「くだらない」だ。俺の本質は、やはり「くだらなさ」にあると自分で思う。ポテチとジュースの新商品を買い求める、幼稚なくだらなさ。全てくだらないと吐き捨てる反抗的態度。事物は全て下らないと断ずるニヒリズム。くだらなさに美しさを見いだそうとする批評的な姿勢。そうだ、「くだらなさ」こそ俺を通底するものであり、同時に俺自身と響き合うものなのだ。だから言いたいのだ。くだらないと。なにもかも、森羅万象ありとあらゆる全ての事柄、物質に「くだらない」と言い捨ててしまいたい。「より良い人生を生きる」だとか、「強い人間になる」だとか、そういう模範的な態度はくだばってしまっていい。どこまで努力しようと、人生などくだらないし、人間などくだらないし、お前自身もしょうもないのだ。その癖に必死に頑張る意味なんてどこにあるんだ。虚無を打ち消すためのごまかしのような行為をいつまで続けるつもりなのか。スタバでマックブックを使うと虚無が消えるなら、今すぐやろう。

 努力なんてなんでするんだ。頑張っている奴が偉いなんて論理は誰が作ったんだ。死ね。全てがくだらないことには美点がある。頑張らなくていいことだ。何一つそこではくだらない。全ての評価がくだらないになる。通知表に書いてある国語も数学も社会も「評価:くだらない」がつく世界で本来はあるべきだ。俺はそうであるべきだと思うのだ。なぜ努力を義務化する。いや、義務的に努力しているわけではなくても、そもそも「自分をよりよくしたい」なんて発想がなんで出てくる。自分をよりよくすることが自分をよりよくするのか。違うだろう。どこまで言ってもやはりくだらないのだ。そこには「多少はマシ」みたいな修辞は存在しない。どこまで言っても「くだらない」という形容詞一つで完結する世界がこの世だ。君がいる現実だ。何度でも言うが、「人生は下手な役者」だ。へたくそなのだ。それなのに人は理想像をたてる。「幸せになりたい」なんてのもどうでもいい。そんなものに束縛されているようではまやかしの中でイエスを崇めるのと変わらない。なぜなにかを求めるのかということだ。今よりましななにかいいやり方があったりしない。(オーガユーアスホール「もしあったなら」はそう思わせる力のある名曲だ)言いたいことはそれだ。もっとくだらなさに気づけ! 「何をしても何も起きない」のだ! 感覚の中では確かに違う。自分の中ではそう思えないものだ。だったら理想像など立てるな。好き勝手に生きてみせろ。人間は色々なものを背負い込むが、結局は何も「持てない」のだから。いつだって荷物はないのだし、錯覚を解くだけで十分だ。生きるくだらなさとは、あまりに貧相だが同時に軽快だ。だからおれはなにもしたくないし、同時に常に怒っている。くだらないのに、それっぽい内実を持とうとすることに。充実とは虚飾だ。豊かとは肉襦袢なのだ。人生など遺骸に過ぎない。この文章も推敲したりしない。別にいい作品を書こうなどと思ってもいない、思ったことをなんの思慮も介入させずに書くだけだ。それでいい。

 

 

 

終わり。終わりだ!これを書いている間「アビーロード」のB面を聴いていたことを付記しておこう。

怒りの広島第一章(続かない)

※注意! いつもより文章が乱れています!

考えないで書いたせいです!

 

俺は怒っている。様々な要因が考えられようが、自分に才能のないことにまず怒っている。今日クラブMCをしている友人のプレイを観に行ったが、渋谷のかなりでかい箱のメインフロアで堂々とプレイしていた。彼のMC歴など一年半かそこらなものだが、なんつー才能かと思った。それだけでなく、最近友人と話していると俺が3年以上考えて辿り着いた理論をパッと出していたりした。一体なんなんだこの才気は。2年くらいで作家になった奴もいるし、昨日唐突に名曲を送ってきた奴もいるし、なぜこうも逸材がいるのだ。いやしかし原因は分かっている。要は俺の努力が足りなかったというだけであろう。もっと頑張っていれば、もう少し追い縋ることも出来たのは否定しようがない。とはいえそこまで頑張ってどうするんだ。なんか起きるのか。ハッピーエンドが確約されるとでも言うのか。なぜああも皆頑張れるんだ。分からん。(「この世界の片隅に」の浦野すずの名台詞「わからん、わからん、さっぱりわからん! 帰る! 広島に帰る!」が思い起こされる。最近の俺の心情をこの上なく言い表していると思うのだが、広島は関係ない)いや、ニヒルになりたい訳じゃないし、出来ないことの言い訳をしたい訳じゃない。先程の引用を踏まえて言うなら「広島に帰っていいのかすらわからない」のだ。ていうかなにすればいいんだ。本読めばいいのか。文章を書けばいいのか。踊ればいいのか。今までの俺の論に従うなら「やりたいことをする」に尽きるが、やりたいことってなんだ(こんな感じのことを言うと自分が凡人になれたようで気持ちがいいが、それについて変に考察をするから凡人の地位は崩れさる。「こんな人間じゃなかったら、どんな人間になればいいんだ」というニルヴァーナの名曲「オール・アポロジーズ」の一節が浮かぶが)。そうだよ! これを読んでる人がいたらなにをしてるか教えて欲しい。動機も附記して! でも動機なんて考えてるから駄目なんだろう。結果=原因が対象aであるのだから。行動と理由は常に循環論法的なのだ。なにしたらいいか分からないから、いっそ行くとこまで行ってしまいたい気もする。自活出来ないほど狂気に身を振るか、死ぬほど努力するか、とてつもなく普通になるか! このいづれかになれれば文句はない。そうだ、僕の不満はここにある。行けるとこまで行っちゃえばいいのに、行けないのだ(それが人生の本質であるのは言うまでもない。だがここまで中途半端なこともそうないだろう。シェイクスピアジュリアス・シーザーの壮烈な台詞「人生は下手な役者だ。所在なさげに舞台と袖を行ったり来たり」は何て正しいんだ!)いや行ったら行ったで苦労もするんだろう。というかこの中途半端な感覚は自分でなくても感じているのだろう。(結局そうやって人の心理は普遍化され、一般化される。一体構造となんなのだろう。心はどこまで行っても個別ではないのか?ならなぜうつ病神経症のように、名によってカテゴライズされていくのか? 共通項がないものも、相違点がないものもない。同じように見えるのも、違うように見えるのも所詮は操作による錯覚だ。僕とマリリン・モンローは人間という点では同じ存在といえよう。だから同じだと言うこともできてしまう。そんな馬鹿な、と思うかもしれないがレトリックとはそういうものなのであり、小説のメカニズムもここに依拠しているのだろう。ピカソ箴言「表現は真実を暴きたてる嘘」は、本質そのものだ)、ただ程度の問題はあるのだと思う。だから僕が言いたいのはパラメータ「存在の不確かさ」が極めて高い数値を叩き出しているのではなかろうか、ということだ(「彼は○○な人である」なんてありえない。あてはまるのが「優しい人」だとしても、属性「優しさ」がなんなのか説明して見せて欲しい。「優しい人」間に共通項なんてないのだ。ただ諸条件によってパラメータ「優しさ」が上昇して評価者の価値観によって「優しい人(っぽい人)になるだけだ」)。ただ、だから優しくしてくれって訳ではない。最終的には、僕は怒っているのだ。結局最初に行き着いてしまった! 言いたいことというのは常に通り過ぎるものでしかありえないということなのか。まあいい、とにかくむしゃくしゃするということだ(そうなると、僕の主張したいことは最初の一行で全て完結してしまう。だが、小説とは常にそういうものじゃなかろうか。あらすじも、テーマも本当は一行ですませられる。いや、そうじゃないだろう。その一行で済むわけがないだろう。もっと言葉にできぬ思いがあり、試したい文学的手法があるだのだから。ゆえに無限に遠回りする。ひたすらに迂遠な手法。だがそこには言語化不可能な情緒が、声にならぬ声が宿る。そしてそこから解釈が生まれる。名作とは、言語を操作することで言語化不可能な感情を読者に供与し、底抜けに多様な解釈と永続的な喜びをもたらす。それは間違いなく、文章にしか出来ない仕事だ)そう、むしゃくしゃする。そしてなにも片付かない、文章なんて役に立たない。だから、広島に帰ろう!

 

終わり、こんなんだから駄目なんだよ! なんでこうなったんだ!

多数派と少数派のデスマッチ

おはようございます! それじゃあ今回も行ってみましょう!

謎テンションのスタートだが、結局はいつも通りだ。しかし、人生とはそんなものでしかないのだ。

以前書いたことをちょっとまとめる。

多数派は、無自覚に社会に順応できるが故に、無自覚に少数派を痛めつける可能性がある。「おかしい奴」だと判断してしまうわけだ。また無自覚に順応できるが故に、社会に対して疑念を抱きにくい。この世の中の不自然さに、対応できるから気づくことができないのだ(もちろん全員ではない)。

異端と中庸。自覚と無自覚。少数派と多数派。社会不適合と社会順応。批評家が世界を変えられないのはここに端を発する。いくら社会不適合者が世の中の理不尽に自覚しても、多数派が賛同できることはまずない。そもそも、「やっていけている」世界を変える必要性がないのだ。人間も、社会も大半は維持を好む。変革は良くない。なぜなら全て壊れるかもしれないから。問題の先延ばしはとても良い。少なくとも「まだやれている」のだから。現代社会がこれほど問題を抱えながら変革できずにいるのは「まだやれている」からだ。システムがこれ程強固になってしまっては、そう簡単に「こと」は起きないようにできている。

ここで疑問を提示する。先ほどの対立軸に、「自閉症スペクトラムと定型発達」は入りうるだろうか。僕は診断したわけではないが、間違いなくアスペルガー発達障害は持っていると思われる。ていうかこんな辺鄙なブログ書く時点で怪しいし。ただ、学校では常に多数派だった上、友達がいない経験も全くない。もちろんアスペルガーで友達がそれなり以上にいる人は一杯いるだろうし、定型発達者でも友達がいない人だっている(人の精神や心は常に例外的なのだ。)。気になって自己分析をしてみたことがあるのだが、僕は間違いなく人の感情は読めていない。「どう感じている」かは全く掴めない。その代わり、「何を言っているか」論理的に判断することは出来る。感情は分からないが、言葉の意味を論理的に解析してある程度ずれない返しは出来ていると思う。ちなみに、僕は初対面の人が極めて苦手だが、その理由は他人の情報を集積して「文脈」を作って行くタイプだからだと思う。どういう傾向にあるか分析して、会話でより良い回答を探って行くのだ。だから僕は人によって全く違う対応をしている。逆に初対面になるとなんの情報もないし表情が読めないからかなり苦戦する。今も友達でいる人はそれでも「なんとなく」そのことを気にしなかったとみんな言っている。変人だなあ。まあ誰でも出来るやり方ではない。元々情報処理が早いタイプだから何とかなるだけで、多分そう簡単には出来ない。だから僕は明らかに変人でありながら多数派の思考様式もある程度分かる。個人的な見解として、駄目になっている奴は大体「バカ」って印象だ。ひどい言い様だが、実際そうだと思う。適当にタイプ分けしてみよう。

1、変人だが元気に生きてる人……大体趣味に没頭している人が多い。自分のやりたいことをずっとやってる、いい意味で「お花畑」な人。ただ、元気だが闇が一番深いのもこのタイプ。俺の一番好きなタイプだが、ダントツに狂ってるのもここ。

 

2、変人で駄目になってる人……傾向的には無駄なプライドとかこだわりを引きずりすぎてるときが本当に多いと思う。もしくは怠け者。メンヘラは大体ここ。地頭はいいと思われがちだしそうかもしれないが、はっきり言ってこのタイプが一番バカで愚かしい。3から見下される時も多い。赤木しげるの名言を引用しておこう。「どうしてもっとスカッと生きねえのかな」

 

3、まともで元気な人……「なにも考えないで生きられる強かさと知恵を持ってる奴」か、「単にエネルギッシュ」な人が多い。一番安定感があるが、一番無自覚になりがちでもある。色んな傾向があるため一概には言えないが、このタイプの友達を一人は持ってると助かる(経験論)。逆に2とか4ばっかりだとマジで危ない。

 

4、まともで駄目になってる人……色んな事情があるだろうが、向上心がない人が多い。ヤバいとマルチ商法とかにはまったりする。人間的には一番「屑」感がある。2と比べると拗れてない分マシともいえるし、魅力がないともいえる。俺はこういう人好きだよ。

 

俺の今まで出会った人から見た分類法。今回はここで終わるけど、なにかのプロトタイプに出来そうな気がする……

 

 

終わり。あまりにまとまりがないが、俺個人としては収穫が多かった

常識VS主観のデスマッチ

久しぶり。相変わらずの月2ペースだよ!

 

今回の議題は「理不尽」です! 明るい調子の割に歪んだテーマだが、まあいい、いつものことだ。

まず、理不尽に感じる時はどういうときだろう。これは理不尽だろうか。

「最近髪切ったんだ」「そうなんだ! じゃあ死ね!」

どう考えても理不尽だろう。髪を切る→であるが故に死ぬべきというのは意味が分からない。が、ほんとにそうだろうか。この死ねと言ったB君が、幼少期の頃髪を切るたび親に「あんたは死ぬべきなのよ……!」と言われながら半殺しに遭っていたら「髪を切った奴は死ななければならない」と学習する可能性は大いにあり得る。ぱっと見馬鹿話っぽいが、家庭独自の風習とはいくらでもあるし、(僕が知っているケースだと、親にめんつゆを醤油だと教え込まされていた奴がいる。彼にとってめんつゆとはなんだったんだろう)本人にしか分からないこだわりとは、大なり小なり誰でも持っているだろう。だから他者とは常に理不尽であるか、理解できなくて当然なのだから全く理不尽ではない。ただ、われわれの世界には常識と言葉がある。もちろん常識とは何か、そもそも存在するのか、という問いはある。断言しよう。常識はある。しかし、この世を包括するスケールではない。様々なコミュニティで、様々な常識があり、因習があり、ドグマがある。常識を嫌う人は多いが、集団内で常識がないことはありえない。常識を嫌うものたちが集まったら、新しい常識が作られるだけだ(暴走族とかギャルサーとかそうじゃん)。共有されたルールを持ちたくなければ、孤独になるしかない。だから、本来ルールが嫌いな人は一握りしかいない。「自分の思う常識じゃない」だけで、みんな常識やルールが好きなのだ。「理不尽」を踏まえた上で言うなら、「常識が嫌いな人は自分にとって『理不尽』な常識が嫌い」なだけだ。そうであるから理不尽は客観的なようで主観的なのだ。それは「誰からしても意味が分からない」ことなのではなく「自分からしたら意味が分からない」だけなのだから。だが、他者とは本質的に「他者はどの他者からしても意味が分からない」存在なのだ。だってその人の価値観なんて理解できないだろう。僕が毎週朝マックでマフィンを食べている理由を説明してほしい。僕も出来ない。マフィンを食べる理由は誰にも分からないが、「なんとなく常識的に考えてマフィン食べる理由はこうだろう」的な基準はある。いわゆる「普通に(常識的に)考えて」という奴だ。僕はこういう考えを馬鹿にする気も否定する気もない。「あいつらはなにも考えず常識に流されてる」とのたまう奴がいたとして、じゃあそいつは何を考えているのか? 「常識に流されないで自分で考えて生きる」とはなにか? 常識が外れたもの同士が集まったとして、本当に一切の常識がない集団を作り得るのか? 常識の何が悪いのか? なにも考えないことのなにが悪いのか? これらの問いに答えられるのだろうか。結局は主観なのだ。「俺には常識が悪く見える」という「自分ルール」を、さも真理であるかのように語るだけだ。それでも、間主観的な視点から「当たり前』が生まれ、理不尽が生まれる。まとめよう。我々は極限まで主観的で、誰にも理解されない上、誰も理解できない。だから、理不尽で当然であるのだ。だがこの世には「常識」があり、「自分ルール」がある。そこに沿っていれば理不尽じゃないし、沿っていなければ理不尽だという風に決めつけるのが、人間の「理不尽」なところだし、こうやって決めつける僕も「理不尽」だ。

 だから、僕が前に「いろいろな人がいることを自覚する」のが大事だと言ったのだ。「お前は誰も理解できないし、誰からも理解されないから、自分のルールを他人に当てこんでも意味がない。そもそも自分と同じルールを持っている奴が誰もいなくて、色んなルールがあることを知るべき」ということだ。しかし、人は悲しい生き物だ。別にルールが違っていて当然なのに他者にドン引きされ、「ありえない」と言われる。でも、みんなと同じルールを持っていてもつまらないのも確かだ。それは「常識に流される奴は〜」という意味ではない。純粋にただつまらないという、僕のごく個人的な主観だ。僕の母親が「狂ってない奴はつまらないよ」と言っていたのを思い出す(お前が狂ってるよ!)。そう、狂ってる奴は面白い。尖ったルール、歪んだ見え方は、僕の感覚を刺激し、捉えてけして離さない。アルフレッド•ジャリ「超男性」は、意味がわかなすぎて笑えるし、電撃的だ。スティーブ•ライヒの病的な反復と響きは一生聴いていたくなる魔力がある。だから僕は異端者が好きなのだ。色んなルールがある中の、その極北。あれこそが僕にとっては「希望」だ。人間はここまで出来るということを示してくれる。常識やルールを肯定も否定もしない。ただ、端から異形のルールを持ち込み、困惑させ、苦笑させ、虜にさせてくれる。

 

終わり。久々に文章を書いた……。