そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

この先色々あるだろうけど、選ぶのは一つ ただ知ることさえできない、さあ行こうこのままで 

 このブログを書いているときはやる気がないときだと思ってもらっていい。まとまった作品を書くときがないときに書いているからだ。今回はもっと酷く、やることがないため暇つぶしで書いている。暇つぶしと言えば、「人生は死ぬまでの暇つぶし」というニヒルな言葉があるが、これは対象aを考慮するならば本質を突いている。結局何をしても満たされず、どんな行動にも次の欲望が存在するから最終目的など存在しない。そういう意味ではなにもかもが死までの誤魔化し以上のものではなくなる。充足は永遠にやってこない、欠伸を噛み殺すことに腐心する。暇の対義語は多忙ではなく、死なのだ。死の対義語に生もあるとするならば、生=暇になることになる。ここでいう暇とは、「退屈」のニュアンスを抜いて考えて欲しい。あくまで「することがない状態」としての暇だ。やることがないから暇、ならば、やることがあるとはなんだろう。「やること」? はて。そんなものはあるのかねえ……

 以前、「どうしようもなく好きなもの、理由なく好きなものは逆転的に言えば自由を阻害する」と書いたことがある。なぜか好き、ということは意識的に嫌いになれない、自分の外に追い出せないと言うことであるのだから(恋愛小説とは、このメカニズムが根幹にある)。だが、その代わり「暇」ではなくなる。理由なく好きなものにその身を没すれば全ては解決するからだ。つまりは使命、ミッションがあるからだ。使命の元に、己の行動を決定させる。ある意味では麻薬的な幸福であり、最大限の拘束ともいえる。僕は逆に位置する。少し前の記事、世界と現実の差異、主体と人生における関係性と両者がナラティブを学修することで得られる永続性についてで書いたとおり盲目的になれないのだ。理由もなく好きになれないから、することがなくなる。「暇」なのだ。使命一切存在しない。この前の忘年会で、「私は書くのが好きなんじゃなくて文学の神が私に授けてくれる」と言っていた人がいたが、全く理解できなかった。何かをするときは「授かったり」しない。常に「立ち上がる」必要がある。自主性がなければ何も出来ないのだし、自主的な原理でしか動けない。だから生まれた意味も求めないし、満たされたりはしない。飢えていなければそもそも何かする気になれない。

まあでも、使命がある奴なんて稀だろうし、僕ほど使命がない奴もいないと思う。とはいえ、これは一つのきっかけを与えてくれた。使命を帯びていないものは、何かをするには、「立ち上がる」にはやはり「飢えて」なくてはならないのだろうか。三つ前の記事「若いころは~」では、若き馬鹿騒ぎから安定した家庭生活に入っていく人間のことを主題にしたが、安定することは「満たされる」ということなのだろうか。曖昧な表現になってしまっているが、結局のところ「不足」を感じなければ尖った人間にはなれないだろう、ということだ。不足するから、クリエイトする。足りないから、もがき続ける。じゃあなにが不足しているのか? 恐らくは、「幼児期の全能感」ではないかと僕は予測している。天才とは、病的にアンバランスだ。史上最高の数学者ノイマンの趣味は秘書のスカートめくりだったし、最大の論理言語学ウィトゲンシュタインは西部劇とミステリーがやたら好きだった。アメリカを代表する作家エドガーアランポーは19歳くらいのロリな奥さんの膝元でおままごともようにめそめそ泣いていたらしいし、なぜかどこかしら幼稚なのだ。

 僕はそこにヒントがあると思っている。これはかなり変な意見だが、「非言語的な世界への憧れ」こそが人間を突き動かすのではないかと思う。それは論理言語学や文章創作の領域においてもそうだ。説明できすぎてしまう表現がつまらないのは、非言語的世界に連れて行ってくれないからだ。僕は中二病を賛美しているが、その理由は一番「全能感コンプレックス」だからだ。子供の頃の満たされた時期は終わり、人間存在に悩む。悩みが最もつまらなく、かつ鮮烈な時期。だが大半の人間はその「飢え」にも慣れ、「安定」の世界へと入っていく(安定とは家族を持つこととイコールではない。い。一人挙げるなら、ボブ・ディランがいるだろう)。飢え続けるものだけがただ飢えていく(エヴァ旧劇場版の挿入歌「Komm Susser Tod ~甘き死よ、来たれ~」の『無へと帰ろう』と繰り返す箇所はあまりに悲痛だ)。それを少しでも補うには、言語のない世界にカムバックするしかない。全能感アゲイン、だ。前にも書いたが、どちらがいいというわけではない。自分が少しでも納得できるまでもがくしかない。

あなたは「飢え」たいだろううか?「満ち」たいだろうか? もちろんこれは飢え=不幸であったりはしないし、その逆でもない。ただ、二つは中々相容れない。僕は安定的な生き方の人とは仲良くなれない時が多い。話が退屈に思えるときが多いからだ。だが、それこそ安定の秘訣でもあるのだし、否定は出来ない。デンジャラスな会話をしていたら安定など無理だろうから。どんな生き方をすれば正解なのかは分からない。だから違う人生を羨む。他山の石だ。自分とは、自分の人生とは、あれほど選択肢があったのに結果的には一本しかない。生きて、生きて、つまづいて…… 僕はこの人生を選んだ。あなたはその人生を選んだ。なにがあっただろうか? なにもなかっただろうか? まだ人生は続く。なんで続くんだと思うときもあれば、無限に続けと思うときもある。風が吹き、雨は止む。だから、だから生きている。死ぬまで生き続ける。永遠にも思える有限の時間の中で思うのは、死が色濃く匂い立つ生の中で思うのは、そう思えることが自分にとって悪くないということだけだ。

 

おわり。

 

徳川家康の作ったオムライスはどんな味?

 ネタがない。ネタがないのだ。

 これは一大事だ。ネタがなくては文章が書けない。頑張ろうといった手前、文章を書く機会を増やそうと思ったわけなのだが、ネタがなくては書くことも出来ない。小説も、批評も、途中で止まっていて暗中模索だ。そのため、ブログを書こうと思ったのだがネタがないのだ。これは一大事だ。書こうと思ったのに書けないとは悲劇ではないか。頑張ろうと思っていても頑張れないとは、あんまりではないか。神は惰眠を貪っているのか。それとも僕の無意識が怠けているのか。その両方か。

 ともかく、これは表現における悩みの一つであろう。アイデアがなければ、そもそも努力を行うことすら覚束ない。いや、写本とかあるのかもしれないがあんなこと僕はしたくない。ところで、ここまで読んでこのブログ第一回の記事を思い出した人がいたら鋭いと思うと同時に、こんなブログを熱心に読んで欲しくない気持ちが僕の中に同時に生まれる。第一回は「出だしを書けないこと」がネタだった。出だしを書けないことを出だしにしていたのだ。今回はネタがないのをネタにしようとしているが、「出だし書けない出だしネタ」はそもそも「出だし」という特定の状況に起因しているから、メタの要素が生まれる。それに比べ「ネタがないネタ」は単にネタがないという一般的事実と凡庸な状況にしか頼れないから、対して面白くない。ハムスターが風車を走り続けているイメージだ。空回り! つまりは文脈の問題だ。永遠のテーマである。内容と文脈、どっちが大事か。コーヒーを注ぐ。それが朝何気なく一人で注ぐのと、恋人がゆっくりしたいあなたのために注ぐのでは、完成したコーヒーが同一でも大きく意味は違う(違わないのに!)。僕の考えでは、日常会話では内容は文脈に劣る。内実よりも装飾の方が重要なのだ。きれいに着飾るほうが内面を磨くより人を惹きつけるように、確実な内容より大きく見栄を切った派手な弁論の方が魅力的に写るように、嫌いな人が作ったオムライスと、好きな人が作ったオムライスでは、見た目も味も浮かぶ気持ちも「なにもかも」違うように。装飾は重要だ。変に内容ばかり求める人を良く見るが、そういう人は頭が良くても頭でっかちすぎる印象がある。そもそも、内容=真実ではないのだし。だから、あなたはなにを言っても「あなた」の文脈から逃れられない。全部「あなた」が言うのだ。どんな発言も捻じ曲がる。真逆の解釈すら平気で起こる。僕は自他共に認める適当人間なのだが、僕が「俺は適当」というのとまじめな人が言うのでは当然感じられる意味は異なる。当たり前の事実だが、文脈が読めない自閉症スペクトラムの人はゆえに苦しむ。それは言い換えれば、少なくとも実際的なコミュニケーションの世界では「何も分からない」のと全く変わらない。日常的な会話はほぼ全てが文脈的なのだから。状況に依存した、ある種素朴な言葉だ。逆に言えば定型発達は文脈に依存しすぎともいえる。数学者にアスペルガー症候群が多いのはよく指摘されるが、それは文脈に依存しない分論理的、僕の言語感覚では「ゲーム的」なのだ。定型発達は文脈に依存する分論理的ではなくなるのだ。

 そう考えると少し面白い。よく言われるが、自閉症スペクトラムが変人扱いされる理由は「少数派だから」に過ぎない。むしろ、生き方が破綻してるのは定型発達だともいえる。信条もルールも持たず、支離滅裂。言ってることは人によって全く違う。場になじんでいるようで、なにも理解できていない。とも言えてしまうのだ。とはいえ、定型発達者の方がこの世に多い理由も分かる。非定型発達者は、自分と同じ非定型発達でも意見が違うと蛇蝎の如く嫌う。定型発達は同じ定型発達なら嫌いでも必要最低限は付き合う。それはそれで辛いのだが。共同体を作る際はやはり定型発達の方が向くのは確かだろう。「空気を読んで」調和できるのだから。ルールか雰囲気か。内容か文脈か。ここにおいては定型発達も柔軟性がない。彼らは内容が分からないのだ。文脈にしか目が行かない。たまに法律を頑なに守るクソマジメなやつがいるが、定型発達者はその傾向が薄い。友人間で「そういう雰囲気」なら破る。狭いコミュニティが優先されるのだ。一方、非定型発達者は「ルールはルール」である。友人にそそのかされても法律を破ったりしない人が多いだろう。まあ法律がその人にとって「ルールなのか」にもよるが、もっと大きいものを志向する。こうなると、規模の大小もあるよう気がしてくる。非定型発達は「世界法則」を求めるのに対し、定型発達は「仲間内のノリ」を求める。どっちが正しいということはないが、上手く融和できる方法もなかなかない。基本的には、ひたすら寛容になるしかない気もする。ノリが分からなくても許してやれ。ルールを守らなくても許してやれ。そう考えると、非定型発達者は辛い。ノリが分からないのは重罪であっても本人が意識しているものでないが、ルールは本人にとって絶対的だから間違いに気づけないケースもある。たまーにいるだろう。友達がいなくて、こじれた本とか読んで周りを見下しているけど大して面白くないしそんな頭良くない奴。

 いづれにせよ、ネタがないがなんとか乗り切ったのは確かだ。よし! この調子でいこう(いいのか?)。最後に、今回の「文脈と内容と発達障害」について考えてほしいのは、どこかで不調和は生まれるということだ。実際はこんな単純な対立軸ではないものの、人と人の差異はやはり絶望的にでかい。かといって、許してあげようよ! で終わることも許されないだろう。僕が今まで接してきたあらゆる人間に対してむかつく点(あらゆる、だ)は、なんだかんだ自分と他人は似てると思い込んでることだ。自分が考えていることは他者も考えていると思っていたり、自分も出来ることは他者も出来ると。それなりに客観的な人でも、中々ここだけは抜け出せない。多分それは、他人を客観的に見れないこともあるだろうが、それよりも自分を絶対視できないことの方が大きい気がする。人と人は違うが、それ以上に考えるべきは自分は思ったよりユニークな存在であることだ。自分を相対化してしまうのは分かるが、もっと自分を絶対的存在と見ていいんじゃないか。「自分こそが!」と叫んでいいんじゃないか、自分はこれだけ個性的なのだから、他者とは違うに違いない。逆になんのとりえもないと思ってる奴程自分勝手なのだ。好き勝手に他者を同一化するか、理想化してしまうから。だから、もっと唯我独尊で構わない。「人間存在の始まり」は、思ったより単純な地点から始まる。

 

おわり! ノリか論理、両方大事にしてそもそものそもそもは運営していきます。

第二章は迷走していましたね

 このブログでは日頃思っていることを綴っている。最近は頑張ることの否定が主なテーマだった。たしかに、頑張ることにはなんの意味もない。でも最近、頑張ってみようかとも思った。一昨日の記事を書いたときそれをふと思ったのと、友人の言葉がきっかけだった。「お前は一回心理カウンセラーの勉強をしてみるといいかもしれない。そうすれば自分と否応なしに対峙するから、少しは空虚さがなくなって意味が分かるかも」みたいなことを言われた。確かに面白い案だ。そのときは曖昧な返事を返したが、今ならはっきり答えられる。俺からしたら自分を見るのはしょうもないことにしか思えない。そんなことになんの面白さも感じられないし、そもそも意味がわかって欲しくもない。何一つくだらない。だから、僕は出来る限りやってみようと思う。今回気付けたのはそれだ。友人のアドバイスのおかげで、ようやく自分を捨てられたのだ。空虚は確かにある。だが全てに意味がなくなったりはしない。表現を作るとき、鑑賞するときに非言語的な、ある種の宗教的な酩酊感を感じる瞬間に取りつかれているのは否定しようがないから。僕はオタクなのだ。特定の対象にしか興味を抱けないし、そこに有無を言わず引き寄せられる。それは意味を持たなくとも、好きでなくとも、良いことでなくとも関係ない。もっと「暴力的」だ。ただ僕は感覚を言語化する癖があるからそうなるだけだ。つまり、全てが空虚とは完全な客観であるように見えて、そのことを証明すること自体が完全な主観なのだ。そこに気づけていなかった。だからこそ安心して僕は自分を捨てられる。なぜなら外部に考えることが、理論を編み出すことこそが僕にとっての「主観性の表現」であるから。客観性を重視することが、同時に主体の個性を表現する。虚空が広がっていても、それは「心を動かす、非言語で作られた美しい虚空」であるのだ。あまりに盲点だ。全てはやはり空虚だ。ただ、僕にとって空虚は美しかったのだ。

 そして、つくづく自分らしいと思う。友人の言葉に従うのではなく、反抗することで気づけたからだ。昔から反抗的な人間だった。ほめられても何も感じないが、貶されたときは無性にやる気が出る。誹謗されたわけではないが、僕からしたら自分を見つめるなんて否定されているのと同じだ。この場を借りて彼に感謝しておきたい、結局空虚の空虚さを考えることは自己への言及であり、たいした意味を持つわけではなかった。ただ、空虚が美しいことに気づけば良かっただけだ。そこに対して大きなヒントになった。僕はもう少しやってみようと思う。頑張ることに意味はない。価値もない。いいことなのかも分からない。ただ、僕は思考がスパークした果てにある「美しい風景」を見たいだけだ。美しさを感じることは言語的体験ではない。だから、そこには意味も価値も疑義を差し挟む余地がない。ただ美しいものが、言語的なフォルムを持たずに僕に本質をもたらす。非常に宗教的な言い回しになっているが、つまるところ人間の原動力とはそういうところに見出されるのではないだろうか。人間は理屈で動けない。意識は常にセーブをかけるから。最後にあるのは非言語と無意識だ。原始的な衝動性こそが人を動かす。だがそこに至るのに必要なのは批評性なのだ。分析的な態度が無意識と出会うとき、美しい響きが生まれる。言葉を失うためには言葉を得る必要がある。非言語的体験の素晴らしさは、言語があることで生まれる。忘れてはならないことだ。

 ここらで二章は幕を閉じる。迷走している章だったが、無意義ではない(ロック批評家の中山康樹だったら、「ジョージ・ハリスンインド音楽時代」と評するだろうか)。三章は……未定だ! 特になにをやるべくでもない。まあ、いずれ発想は出るだろう。ゆっくりしていよう。僕は行為しかできない。閃きは、僕の領分ではない。そういうときは、表現がいつか僕に教えてくれるのだろう。何の意味も有さない表現だけが。

 

二章終了。お疲れ様!

若いころは馬鹿してたんなら、今も馬鹿しろよ!

 帰省してきた。今回はなぜか夏休みのときと比べてひどく懐かしく感じた。単純に時間が空いていたのもあるが、冬なのもあったように思う(東京から山形に着いた瞬間雪が積もっていたのは分かっていても心を動かされた)。それもあってか、山形で印象に残っていた場所を撮影してtwitterにアップしたりしていた。それで、友人ともそれなりに会ってきた。会うたびに全員少しずつ変わっていて、中学の友達になると「結婚したい?」的な話も出てきて、さあ人生も一旦落ち着き時だ! 感はある(僕は別に変わっていないのだけれども) そうだ、僕は今25歳だ。確かにそろそろプランを練ってもいいのかもしれない。これまで生きてきて、プランを練ることなんてなかった。刹那的で、瞬間の切れ目の中にいて、余裕がなかった。今となっては「処世」を少しは知っている。そして、刹那に生きるのも大抵の人には限度があるのだろう。よほど捨て身でない限りは地に足をつけたいのだ。落下地点を探さねば。

 帰省して会った友達からは、「いっそ仕事を頑張って小説を捨てようと思う」と言われた。僕は否定する気は全くない。物書きは、物書きである以前に人間だ。人間に執筆の義務はないのだから。この友人含め、みんな生きていた。今回の帰省では、それぞれの生き方がとても目に付いた。それぞれがそれぞれの生き方を選択している。家族も含め、適当な奴もいれば信念に基づくものもいたし、飄々としている者もいれば悩み続けている奴もいた。僕は彼らの人生に上下をつける気はない(面白さに上下はあるけどね)。ただ、その中でも「将来への担保」の程度はそれなりにある。仕事をしているか、安定して付き合い続けている異性がいるか、精神や肉体に問題を抱えてはいないか。これは良し悪しではない。それでも、安定しているやつの方が不安度は少ないし、あまり病んでることもなかった。そう考えていてふと思ったのだが、若さってのは所詮「落ち着き」への準備段階に過ぎないのではなかろうか。反抗的な思春期を経ることで社会性を獲得するように、刹那的な若さに身を埋没することが将来的な安定への気づきになる、ということだ。流石に統計的なデータは取っていないが、昔から暗くて50過ぎても独身と言う男と、遊び人だがふらふらしていたら50過ぎていた、では前者の方が多いんじゃね? ってことだ。

 以前邦楽のインディーシーンについて書いた本を立ち読みしたが、「アイドルやロックは常に若さを前面に押し出すことが共通している」とあった。でも、みんな大人になるのだ。バンドマンの女は、公務員と結婚するのだ。プロアマ問わず一部の人間だけが、いくつになっても若さを追い求める(しかし求めても大半は「過去の若さのパロディ」になるのは何たる皮肉か)。いつまでも若くいたい人なんてそうはいない。その場限りのアクションも、乱痴気騒ぎも、将来の安心へ吸い込まれていく…… そんな構図だ。「昔は馬鹿なことやってたよ」って言う人は、昔が煌いてるのと同時に、反省の材料なのだ。そして、昔の馬鹿を何年経っても忘年会で話したりする。ある種の安定的な話題として。非常に否定的なニュアンスに聴こえるが、繰り返すけど僕は否定する気はない。今回の記事で狙いとしてあるのは、若さへの疑義だ。なんつーか、若さって様々な言い方はされども良いこととして捕らえる人が多いし、若いときの無茶を自慢する人が多いけど、それって安定への準備段階に過ぎないでしょ? ってことを言いたいのだ。僕が破壊したいのは、過去の馬鹿騒ぎを宝物にする態度だ。お前が若かったその瞬間は、今の安定を得るための行動に過ぎない。もちろん昔楽しんでいた瞬間は素晴らしいが、振返って思えば安定するための助走行為、姿勢制御に過ぎなかったな。そのことは年取って勢いを失ってもスタイルを変えないロッカーにも言えるし、もう訳が分からなくなってしまったのにだらだら続けるシリーズものにも言えるのかも知れない。

 だから、僕は感傷的な気分になる。感傷にしては珍しく、自分自身ではなく他者を見て、僕はエモーションを得ている。学年が下の友達もいないから、みんなもう学生ではなくなった。仕事をやめて鬱々としていたり、自己に悩んだり、結婚したかったり、絶望したり、まだまだ創作を続けていたり、嫌気がさしていたり、仕事に四苦八苦したり、生きていたり! そろそろ落ち着き時だ。「若さ」の幕は降り、引き続き「家庭」が始まる。僕がやたら変わらないと言われているのは、多分悩んでいないからだろう。安定していようがいていまいが、みんな悩んでいる。僕はそれに比べてあまりに無邪気だ。だからこそみんなを見て感傷的になる。今後のおよそ六十年ほどに、人生の途方もなさに対して、計画を立てるのか欝になるのかはともかく悩んでいる。将来がどうでもいいとは全く思わない。「若さの時代」が良かったとも思わない。ここまで来ると理屈でもないのだが、僕はみんなにもっと「我を忘れて欲しい」と思っているのかもしれない。若さ故のエゴでもなく、自分の人生計画をただ眺めているのでもなく、他者について考えるということ。「ダンス」を踊るということ。もう一つは、単純に忘我するまで楽しんで欲しいということ。ああ、やっと結論が分かった。それなのだ。自分は差し置いて、もっと他者を見て欲しい。恥も外聞も問わず好きなことをして欲しい。生きている「この現実」を、たまには忘れて欲しい。そのことが、なんでそれが必要なのか、大事なことであるのか僕の言語感覚で言うなら、自分と他者への「慈しみ」がそこにあるからだ。

 

おーわり。いつもより前向きじゃない? うつ病でいるのも飽きた品。

世界と現実の差異、主体と人生における関係性と両者がナラティブを学修することで得られる永続性について

タイトルはかっこいいことをいいたいだけです、それではどうぞ。

 

どうにも、俺は盲目的になれない質のようだ。
 そう思うのは特別なきっかけがあるわけじゃないが(思考や行動に動機を求めるのは『不純』だ。現実は道徳の作文でも就活の『大学生活で学んだこと』でもない)、とにかくそう思ったわけで、そうなると考え続けずにはいられない。盲目的になれない理由ははっきりしている。俺は「絶対的な価値」を信じられないのだ。これまで書いてきたように価値なんてそれぞれが勝手に決めているもの、というのが大前提にあるため良いと思うものも「これは俺が良いと思っているだけ」という感触がつきまとう。比喩的に(もしくは本質的に)言うならば「神」を信じられないのだ。神=個々人における絶対的価値、と置き換えたときに信ずるものがないということだ。敢えて言うなら感覚が俺の中では「神」の座に最も近いが、それも結局は「感覚こそ各々が神を信奉するに至る論拠であり、であるからこそ絶対的でもある」というロジックに過ぎない。絶対性とは、もっと無根拠でなければいけない。「なぜこの神を信じているか」にいちいち理由を求めてはいけない。
 それが、どうしても嫌なのだ。なぜ何も考えずなにかを求め続けられないのだろう。いや、求めるのは出来る。ただそれは衝動性がもたらすもので、対象に対して愛着があるというわけではない。理由もなく好きといいたいのだ。訳もなく見蕩れてみたい。意味もなく後ろを振り向いてみたい。信じられないほど信じてみたい…… 僕は内実が信じられない。普遍的な真理は、構造にはあるかもしれないが思想には存在し得ないと考えるから。「その事象はどのように現実としてあるのか」は語れるが、「その事象はどんな現実であるか」は語れない。なぜなら現実は描写できないから。ゆえに内実は見えない。そうだ、だから最後には空っぽになるのだ。世界と僕の両方が。空っぽだ…… 

 

僕が何もかも意味がないと思うのはそこにあるのかもしれない。「理由なき好き」とは究極的に主観的だが、だからこそ主体の中で極限的に価値を持つ。いわばそれこそが、自分自身の「エリア」であるから。空っぽとは「エリア」が、幻想であったとしても内実が、中身がないということだ。そして同時に一貫性を失う。世界に対する位置づけを失い、意味のあるなしでの判断が封じられる。理由付けしか出来ない者は、世界「を」相対化できても世界「に対して」相対化できない。主体が世界に対して一貫性を持つときは、常に自分の中の意味による比較なのだから(物語もそうだ。そしてそれ以外に物語の意味はありえない)。ただ、僕はそれが嫌いになれない。「理由なき好き」とは主体にとっては最大の愛着だが、同時に最大の呪縛だ。「好きになれずにはいられないし、嫌いにもなれないの」だから。何もないとは、何をしてもいいということでもある。脅迫も恫喝も存在しない世界なのだ。その代わりなにをしても無意味だ。一昨日、友達が「俺は意味のないことをしたい」と言っていた。そのとき例示したのは、終電を逃してしまい、深夜に17キロ歩いた後背中から朝日が上がった瞬間についてだった。確かに素晴らしい。だがそれをしたい時点で意味があるのだ。少なくとも有意義だ。

 じゃあ僕はしたいことがないのかというと、流石にそれはない。このブログを一年以上続けたのだし、そこは「したかった」のだろう。ここで僕は自分に問うことになる。他人にはその意味が分からない、「エリア」のなかの問い。僕は、表現が好きなのだろうか。一般的に見たら好きなんだろう。音楽と文章に関しては、明らかに鑑賞しているほうではある(一日平均30分も読まない奴が、本当に? と思う方は「一般人」の世界を知らない人です)。だが、ここでは一般論は意味がない。僕の話だ! さてどうだろう。好きか、と言われると答えに詰まる。昔なら断言していただろう。今はなんだろう。他にやることがないだけ、だから? そうともいえる。逆にみんなはなにをしているんだろう。暇つぶし? なにを以って暇と呼ぶかによるが、退屈しのぎになるのは確か。救われるから? 表現は、結局僕を救っているんだろうか。僕は表現に救われているんだろうか。数々の作品が僕の心を動かしてきた。ドフトエフスキー、エヴァンゲリオン、R.E.M、ペイヴメントカフカ機動戦士ガンダム、今ならシェイクスピアモデストマウス。こいつらは僕を救ったか? こいつらなしでも僕は人生を運営できるんじゃないか? 本当にお前らは価値があるのか? 今書きながらレディオヘッドのハイ・アンド・ドライをレコードで聴いているが、救ってくれたのかは分からない。だが、やはり素晴らしい。ここまで僕を痺れさせるものはそうない。だが痺れさせることの意味は? 痺れるっていいことなの? 無限の問いに答えてくれる者はいない。問いが、どこまでも空虚にしていく。価値を藻屑へ変える。だが、それは言語にするからだ、「痺れる」とかいう言葉を使うから悪い。感覚はそんなこと言ってないし、言わない。「今感じているこれ」はいいものだ。言語を封じ込めるのは、いつだって非言語ということだ。そうだ、表現は救いも痺れさせたりもしない。ただ「感じさせる」のだ。それにとやかく言う必要もないし、そもそも言葉でないから口出しは出来ない。だがそうであっても「理由なき好き」とはまた違うものだ。世界に対する相対化の機能も、意味と無意味の線引きもしてくれない。ただただ、情動的な情報。究極の幸福であり、地獄の空虚。僕はそこに価値付けられない。ある意味では絶対性の極地であるが、ただのゼロでもある。

ここまで書いて思うのは、僕が思うことは、表現は僕を救ってくれなくとも、僕に世界を見せてくれるのは表現だけだということだ。脳科学者ラマチャンドランは、表現とは現実をディフォルメすることで現実よりも現実らしくすることだと言った。僕は論理レベルではなく、実感としてよく分かる。現実は何一つ取り留めを持たない。無秩序だ。だが、表現には理論があり、要素を操作していく物なのでまとまりを持つ。そのスコープを通したとき世界を、人生を理解できるのだ。そのことにどんな価値があるか分からない。別に理解する必要性はないとも言える。でも確かに、僕がよく分からなくなったときに、理解が何もできないときは、表現が教えてくれた。感覚を通じて感じるままにいることと。そしてそのとき見たものは、描かれていた景色は、言語を失したなにかこそ、僕の心を読んだかのような「答え」だったのだ。

 

 

 

終わり。人生なんてくそくらえだ!(なぞの怒り

怒りの広島第二章(広島への風評被害が深刻)

やはり、俺は怒っている。

鬱憤なのだ。憤懣は尽きねども、発散する場がない(そういいつつ文章を書いている。なら文章に怒りをぶつけているわけになるから、言語化した瞬間に矛盾化するのだ)。この前は分からないだったが、今は「くだらない」だ。俺の本質は、やはり「くだらなさ」にあると自分で思う。ポテチとジュースの新商品を買い求める、幼稚なくだらなさ。全てくだらないと吐き捨てる反抗的態度。事物は全て下らないと断ずるニヒリズム。くだらなさに美しさを見いだそうとする批評的な姿勢。そうだ、「くだらなさ」こそ俺を通底するものであり、同時に俺自身と響き合うものなのだ。だから言いたいのだ。くだらないと。なにもかも、森羅万象ありとあらゆる全ての事柄、物質に「くだらない」と言い捨ててしまいたい。「より良い人生を生きる」だとか、「強い人間になる」だとか、そういう模範的な態度はくだばってしまっていい。どこまで努力しようと、人生などくだらないし、人間などくだらないし、お前自身もしょうもないのだ。その癖に必死に頑張る意味なんてどこにあるんだ。虚無を打ち消すためのごまかしのような行為をいつまで続けるつもりなのか。スタバでマックブックを使うと虚無が消えるなら、今すぐやろう。

 努力なんてなんでするんだ。頑張っている奴が偉いなんて論理は誰が作ったんだ。死ね。全てがくだらないことには美点がある。頑張らなくていいことだ。何一つそこではくだらない。全ての評価がくだらないになる。通知表に書いてある国語も数学も社会も「評価:くだらない」がつく世界で本来はあるべきだ。俺はそうであるべきだと思うのだ。なぜ努力を義務化する。いや、義務的に努力しているわけではなくても、そもそも「自分をよりよくしたい」なんて発想がなんで出てくる。自分をよりよくすることが自分をよりよくするのか。違うだろう。どこまで言ってもやはりくだらないのだ。そこには「多少はマシ」みたいな修辞は存在しない。どこまで言っても「くだらない」という形容詞一つで完結する世界がこの世だ。君がいる現実だ。何度でも言うが、「人生は下手な役者」だ。へたくそなのだ。それなのに人は理想像をたてる。「幸せになりたい」なんてのもどうでもいい。そんなものに束縛されているようではまやかしの中でイエスを崇めるのと変わらない。なぜなにかを求めるのかということだ。今よりましななにかいいやり方があったりしない。(オーガユーアスホール「もしあったなら」はそう思わせる力のある名曲だ)言いたいことはそれだ。もっとくだらなさに気づけ! 「何をしても何も起きない」のだ! 感覚の中では確かに違う。自分の中ではそう思えないものだ。だったら理想像など立てるな。好き勝手に生きてみせろ。人間は色々なものを背負い込むが、結局は何も「持てない」のだから。いつだって荷物はないのだし、錯覚を解くだけで十分だ。生きるくだらなさとは、あまりに貧相だが同時に軽快だ。だからおれはなにもしたくないし、同時に常に怒っている。くだらないのに、それっぽい内実を持とうとすることに。充実とは虚飾だ。豊かとは肉襦袢なのだ。人生など遺骸に過ぎない。この文章も推敲したりしない。別にいい作品を書こうなどと思ってもいない、思ったことをなんの思慮も介入させずに書くだけだ。それでいい。

 

 

 

終わり。終わりだ!これを書いている間「アビーロード」のB面を聴いていたことを付記しておこう。

怒りの広島第一章(続かない)

※注意! いつもより文章が乱れています!

考えないで書いたせいです!

 

俺は怒っている。様々な要因が考えられようが、自分に才能のないことにまず怒っている。今日クラブMCをしている友人のプレイを観に行ったが、渋谷のかなりでかい箱のメインフロアで堂々とプレイしていた。彼のMC歴など一年半かそこらなものだが、なんつー才能かと思った。それだけでなく、最近友人と話していると俺が3年以上考えて辿り着いた理論をパッと出していたりした。一体なんなんだこの才気は。2年くらいで作家になった奴もいるし、昨日唐突に名曲を送ってきた奴もいるし、なぜこうも逸材がいるのだ。いやしかし原因は分かっている。要は俺の努力が足りなかったというだけであろう。もっと頑張っていれば、もう少し追い縋ることも出来たのは否定しようがない。とはいえそこまで頑張ってどうするんだ。なんか起きるのか。ハッピーエンドが確約されるとでも言うのか。なぜああも皆頑張れるんだ。分からん。(「この世界の片隅に」の浦野すずの名台詞「わからん、わからん、さっぱりわからん! 帰る! 広島に帰る!」が思い起こされる。最近の俺の心情をこの上なく言い表していると思うのだが、広島は関係ない)いや、ニヒルになりたい訳じゃないし、出来ないことの言い訳をしたい訳じゃない。先程の引用を踏まえて言うなら「広島に帰っていいのかすらわからない」のだ。ていうかなにすればいいんだ。本読めばいいのか。文章を書けばいいのか。踊ればいいのか。今までの俺の論に従うなら「やりたいことをする」に尽きるが、やりたいことってなんだ(こんな感じのことを言うと自分が凡人になれたようで気持ちがいいが、それについて変に考察をするから凡人の地位は崩れさる。「こんな人間じゃなかったら、どんな人間になればいいんだ」というニルヴァーナの名曲「オール・アポロジーズ」の一節が浮かぶが)。そうだよ! これを読んでる人がいたらなにをしてるか教えて欲しい。動機も附記して! でも動機なんて考えてるから駄目なんだろう。結果=原因が対象aであるのだから。行動と理由は常に循環論法的なのだ。なにしたらいいか分からないから、いっそ行くとこまで行ってしまいたい気もする。自活出来ないほど狂気に身を振るか、死ぬほど努力するか、とてつもなく普通になるか! このいづれかになれれば文句はない。そうだ、僕の不満はここにある。行けるとこまで行っちゃえばいいのに、行けないのだ(それが人生の本質であるのは言うまでもない。だがここまで中途半端なこともそうないだろう。シェイクスピアジュリアス・シーザーの壮烈な台詞「人生は下手な役者だ。所在なさげに舞台と袖を行ったり来たり」は何て正しいんだ!)いや行ったら行ったで苦労もするんだろう。というかこの中途半端な感覚は自分でなくても感じているのだろう。(結局そうやって人の心理は普遍化され、一般化される。一体構造となんなのだろう。心はどこまで行っても個別ではないのか?ならなぜうつ病神経症のように、名によってカテゴライズされていくのか? 共通項がないものも、相違点がないものもない。同じように見えるのも、違うように見えるのも所詮は操作による錯覚だ。僕とマリリン・モンローは人間という点では同じ存在といえよう。だから同じだと言うこともできてしまう。そんな馬鹿な、と思うかもしれないがレトリックとはそういうものなのであり、小説のメカニズムもここに依拠しているのだろう。ピカソ箴言「表現は真実を暴きたてる嘘」は、本質そのものだ)、ただ程度の問題はあるのだと思う。だから僕が言いたいのはパラメータ「存在の不確かさ」が極めて高い数値を叩き出しているのではなかろうか、ということだ(「彼は○○な人である」なんてありえない。あてはまるのが「優しい人」だとしても、属性「優しさ」がなんなのか説明して見せて欲しい。「優しい人」間に共通項なんてないのだ。ただ諸条件によってパラメータ「優しさ」が上昇して評価者の価値観によって「優しい人(っぽい人)になるだけだ」)。ただ、だから優しくしてくれって訳ではない。最終的には、僕は怒っているのだ。結局最初に行き着いてしまった! 言いたいことというのは常に通り過ぎるものでしかありえないということなのか。まあいい、とにかくむしゃくしゃするということだ(そうなると、僕の主張したいことは最初の一行で全て完結してしまう。だが、小説とは常にそういうものじゃなかろうか。あらすじも、テーマも本当は一行ですませられる。いや、そうじゃないだろう。その一行で済むわけがないだろう。もっと言葉にできぬ思いがあり、試したい文学的手法があるだのだから。ゆえに無限に遠回りする。ひたすらに迂遠な手法。だがそこには言語化不可能な情緒が、声にならぬ声が宿る。そしてそこから解釈が生まれる。名作とは、言語を操作することで言語化不可能な感情を読者に供与し、底抜けに多様な解釈と永続的な喜びをもたらす。それは間違いなく、文章にしか出来ない仕事だ)そう、むしゃくしゃする。そしてなにも片付かない、文章なんて役に立たない。だから、広島に帰ろう!

 

終わり、こんなんだから駄目なんだよ! なんでこうなったんだ!