そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

ぼくの言っていることがわかる?

 大学の講義で、「文学は『ないこと』を表現できるのが強み」だと教授が言っていた。確かにその通りである。二人が戦っていないことを表現するために棒立ちの人間を絵で書いても「ただ突っ立っているだけ」だ。かといって手をつないだ絵を描いても「平和」を象徴するようにしか見えない。多分、これは自然界に否定形は存在しないからだろう。森に橋がなくても川があるわけで、蝋燭の火はついていないのではなく立っているだけだ。

だが言葉は便利だ。「彼らは戦っていない」で簡単に戦いのないことはわかる。さらに言うと、「彼らは戦っていた。拳を繰り出し、顔が腫れ上がり、叫んだ。だが彼らにとってこれは戦いではなかった」なぜなら負ける方が八百長で決まっているから。彼らの種族では拳に癒し効果があって実は治療行為になっているから。これはただの文章だから。

 一つ目は戦いとはどちらが勝つかわからないということが否定され、二つ目は戦いは傷つけ合うものであることが否定され、三つ目ではそもそも現実じゃないからなんも起こってねえじゃん! ということになる。つまり戦いの意味の一部を取り出して(3つ目は例外だが)、否定していく。これは誰でもやることだが素晴らしく高度な技だ。人間はクソだがこの言語による意味の操作だけは全生物に誇っていい。何がすごいって全部反論できることである。別に戦いと勝敗に絶対的な関係はないと言えるし、そもそも殴り合ってることは戦いじゃないの? とも考えられるし、いや、つっても言語がないと戦ってること自体認識できねえじゃん、とも返せる。うん、やっぱ面白い。結局フォーカスの当て方次第で何が戦いなのかは容易にずれるのが言葉だということ。レトリックは人を鮮やかに欺く。だからこそ反論の反論、その反論の反論で「議論」というものが生まれる。(言葉とか論理ががっちり決まってたら、天才が一人いれば十分だろう。)で、それだけ認識が違いながらも普通に会話できるのはマジですごいと思う。共通の認識と、相違する認識が混在していることにこの世の面白さは詰まっている。

 ウィトゲンシュタインはラッセルの誤謬について、日常会話は言葉の選択を間違えない。間違うのは哲学者だ。って言ってるのはかなり納得出来る話で、実際批評家の言ってることはそれっぽいようだけれども言葉の選択を間違えてるだけ(もしくは言葉の意味のフォーカスがずれてる)で、なんの意味のあることを言っていないようにも思う。本はまだいいんだけど、議論だと本当にひどい。最近よく思うけど近代とか社会って言葉は使わないほうがいい。あんな曖昧な言葉をリアルタイムの討論で使っても互いに通じないままで終わるだけなんじゃないだろうか。「お前な馬鹿なだけ」と言われそうだけど、なんか最近のもやもやしているところである。