そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

暇をつぶすっていうけど、「なにかをする」こととどう違うのか?

今東京にいて、24時発の夜行バスを待っているわけだが、暇すぎる。ため、ブログを書く。こいつはたしかに暇つぶしにいい。文章作品を書くときより気を抜いていいし、なんでも書いていい。それに一応文章を書いているから下らないことするよりは頭使えてるのもメリットだ。
以上の通りこの文章自体が暇つぶしなのだが、そもそも暇つぶしと「なにかをする」とはどう違うのだろう? 暇つぶしに「音楽を聴くorゲームをするor漫画を読む」とあてはめても違和感はないが、ただ単に音楽を聴くのと何が違うのだろう。もちろん、目的が明確になっていることは認められるが自主的に音楽を聴くときだって「暇を見つけて」いる。空いた時間を見つけてその行為をするという点では変わりがない。
だけど、暇つぶしのときはどこか退屈だったりする。いつもは気の済むまでゲームしてても暇なときはすぐ飽きる。これにはしょうがなくやっているから、というのが妥当に見える。しかし、それよりも「暇という意識があるから」ということの方が遥かに大きい気もする。暇という意識自体がなんか現実そのものをつまらなくしているのだ。しょうがないと思うのは二次的なもので、概念「暇」はそれに先行している。なぜなら、本来暇とは「個人的な作業をするチャンス」と読み替えることができ、そのような発想のもとでは暇は存在しなくなるから。暇が存在しないと、その時点で行為もしょうがなくではなくなるから。だから暇な時間がない奴とは相当に意識が高い奴だと思っていい。ちなみに、そういうタイプは人間的に面白い印象がある。
暇かどうかは個人的な価値観による。僕はよく暇になってるけど、小学生のときから「いかに暇をつぶすか」についてずっと考えている。だって授業も全校朝会も唾棄すべきものとしか思わないもん。考えた結果暇をつぶす方法を考えることは暇つぶしにつながることがわかった。暇のつぶしかたは面白かったらなんでもいいからかなり面白かったりする。そうなると暇つぶしは自主的な作業に移行していくことになる。もうお分かりだろうが、この時点でこのブログ自体も自主的な作業へとランクアップできるのである。