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そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

今騒ぐんだよ!

 明後日は大学で学祭がある。僕はジャズ研と軽音部のライブを見たら露店には一銭も払わずとっとと帰る予定だ。

 祭りって、なんなんだろうね。ハレの日とケの日を分けるためのうんたら、村人のストレス発散のためのうんたら、っていう御託はいい。僕自身は祭りは嫌いじゃないくらいなのだが、そもそも祭りって何すんだ感はある。雰囲気を楽しむていう名目は分かる。ハレの日なのだから「浮かれていいとき」なのだ。ある種の非日常であり、言ってしまえば超超劣化版ディズニーランドみたいなもんだろう。ただディズニーランドと違ってすることがない。見世物なんて大したものじゃないし、露店のものは高いし。ていうか最終的には適当に焼き鳥とかかき氷食べて談笑に終始するわけだけど、あれがどう楽しいのかいまいち分かってない節が僕にはある。あの感じって小中学生のときは純粋に楽しんでるけど20過ぎると明確にノスタルジアのほうが強くなっていっているんじゃないのか。それでいいのかもしれないけど、そもそも浮かれ騒ぎとは現在のドライブ感にこそあるんじゃないのか。祭りがただの感慨と感傷発生装置になって、来年もまた来ような、では思い出のために生きる化石同然じゃんかと思わざるをえない。

 思い出という概念は僕には理解不可能だ。ただの堆積物じゃないのか? 過去を掘り起こして笑うとき、それは当時の劣化品にしかならない。過去の輝きはたしかに存在する。だがそれを今の視点から見ても光はこちらには完全に届かない。だったら「今」で「過去」より面白いものを作るしかないのだ! 思い出話などしている場合ではない、どう馬鹿なことができるか常に探求せねば、ということである。

 祭りは悪くない。手軽な非日常のチケットを手に入れる手段としては。だけど大抵はかつてを振り返って純粋に楽しんだあの刹那を切り取って、眺め、懐かしい手触りを楽しみ、額縁にしまうことに安住する。でも、祭り自体への感動がなくなっていくのは自分のせいだ。子供が原っぱで遊べて大人が遊べないのは、原っぱには本当は何も無いからではない。もう原っぱの楽しさを見出せなくなった自分の「目」にこそ責任はある。今を楽しめないのは楽しむ気が元々ないのだ。だから子供のようにならなければならない。どうでもいい雑草にまじまじと見たあの頃の探究心を持ち続けなければならない。

 

 というわけでここまで。この前ジャズフェスに行ったとき「ご飯はコンビニで買えばいいじゃん」としか思えなかったのでやっぱ僕は祭り向きじゃないのかもな。

 大学の準教授が「祭りに参加しないとか馬鹿」って言ってたけど、まあ楽しいんだしせっかくだからやればいいじゃんてのは分かる。人生もどうせやるなら楽しんだほうがいい。だから人生はお祭りなのだ。