そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

雨についての雑感。

 雨。色々不便はあるだろう。しみじみすることもあるだろう。単なる水滴が降ってくる事実一つで!

 

 雨は好きだろうか? 僕は散歩しにくいのが不便、ぐらいだが個人的に大きい事実がひとつある。僕の母親は雨で濡れるということを病的に嫌うのだ。ただ濡れて帰って来ただけですっげえヒステリックに怒られるはめになる。そのせいか、僕自身は雨に濡れることは大して嫌ではないのだが、濡れるたびに母親の存在がフラッシュバックする体質になってしまった。同じ環境にいた兄も同様で、二人でネタにしている。

「雨の中、傘をささずに踊る人間がいてもいい。それが自由というものだ。」こんな名言がある。この格言に従うならば「雨の日は傘を差して濡れるのを防ぐ」ことが社会通念であり、皆その規律を守っていることになる。しかし、なぜ濡れるのはそんなに嫌なのだろう。その後単に乾かせば何の問題もない。濡れることとはなんなんだろう(ちなみに僕が真っ先に想像したのは「濡れるとエロい」だったが、なんか嫌なんで除外)。 濡れたくない。濡れることは構わない。むしろ濡れたい。濡れることを嫌がる人と嫌がらない人の違いはなんだろうか? 傘をささずに踊るとなぜ自由なのか? わからん。

 

ふとこの童謡を思い出した。

あめあめ ふれふれ かあさんが
じゃのめで おむかい うれしいな
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

かけましょ かばんを かあさんの
あとから ゆこゆこ かねがなる
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

あらあら あのこは ずぶぬれだ
やなぎの ねかたで ないている
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

かあさん ぼくのを かしましょか
きみきみ このかさ さしたまえ
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

ぼくなら いいんだ かあさんの
おおきな じゃのめに はいってく
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

 

見ての通り、「ぼく」は常に傘の範囲内にいる。そのため、ピッチピッチ チャップチャップ ランランランの箇所は常に安全な場所で雨を楽しんでいるだけで、自由を謳歌しているとはとてもいえない。三番では濡れてないている女の子が出てくる。濡れるということはそれほど精神的ダメージの大きい状態なのだ。「ぼく」は女の子に傘を貸し、母さんの蛇の目に入る。このあたりは精神分析の見地から見ると「ぼく」は子宮からの脱却が出来ていないことになる(大嘘)。

 面白いのは、女の子はたかが濡れただけで泣いたのだ。これは実感としては理解できる。突然大雨が降れば慌てて日陰を探すし、びしょ濡れはショックだ。濡れることってなんであんなにショックなのか。それは僕にはいまだわからない。ただ思うのは、雨に日に傘を差さないのは自由ではない。それを実行している人は、傘をさすこと、傘をさす人への反発心であることがほとんどだろう。本当に「濡れても一切問題ないから」という理由だけで傘をささない人っているのだろうか? 

ちなみに僕は雨の日のときは傘をさす。やっぱ濡れんのいやでしょー。