そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

おすすめ記事で出てた話題を考える。パート2

 パート2! いい響きだよね。アニメとかドラマの二話ってすごい好きなんだよ。繋ぎにするか急展開を望むか、はたまたもっとスリリングななにかか…… 一話はインパクト勝負なのに対し二話はいろいろ出来るからね。多分、アニメで一番選択肢の多い回になりやすいから二話は面白いんじゃないかな?(おすすめはカブトボーグの二話かな。なんでああなるんだ)

 今回は「聲の形は感動ポルノか?」について。

 といったものの未読である。なのでこの話題が持つ一般的な問題点について考えようと思う。ちなみにこのシリーズにおいて読んだ記事のリンクは貼りません。別におすすめ記事からトピックを抜き出すだけで、その記事に対する批評じゃないからね。読まなくても分かるないようにはします。

 そもそも感動ポルノっていう言葉がおかしい。感動ポルノって三次元が対象でしょ。二次元の作品を対象にポルノ呼ばわりは児童ポルノ的な発想になってしまうからねえ。あくまで「差別的な作品」という言い方にすべきだ。しかもバズワードだからって使ってる感がむかつく。

 いじめを題材にするとこういう論議はよく起きると思うんだけど、これはいじめによるトラウマの普遍性を表していると思う。例えば家庭問題を取り扱っても論議は起こるにせよ、いじめほど主観的な意見が出ないように見える。家庭問題は具体的に自分の問題とリンクしないといけない(父と息子間の関係を書いた作品を女が見ても個人的な感慨はあまりないだろう)のに対し、いじめは「いじめられた」っていう一般的な言葉でくくれてしまうのが問題になる。あんまりいじめの内容って差異はないしね。だからいじめを取り扱うとトラウマを直接的に抉ってしまいやすい。

 表現の批評においては個人的な感情を抜かないといけない。前に書いたけど、批評とは客観性に憧れるものだし、そうでないと表現の普遍的な価値も担保されない。 

vitaldog.hatenablog.com

 

  いじめの問題ではどうしても主観的な問題が入る。だからって「この作品の感想には個人の体験が反映される」ってのは実感としては理解できるけどいったところで何も始まらない。聲の形ではいじめの加害者が喜ぶための感動ポルノ、という意見があったわけだけど、今回の問題にはいじめられるヒロインが聴覚障害者っていうところが変に問題を複雑にしている。この場合聴覚障害者だから悪質という論理が入ってくることになるんだけど、おかしい話である。いじめられる原因が障がい者だから、だろうとくさいから、だろうと性格が悪いからだろうと差がないのだ。そこで「障がい者」だからと言ってしまうとそれこそ差別に値してしてしまう。表現性の点でいえば、ヒロインが障がい者というのは作劇上のテクニックにしか関与しない。障がい者であることで描出できる内容のレンジが変わるだけだ。しかし、障がいという題材を扱うことの影響力は依然ある(それは、いまだに差別がはびこっていることの証左でもあるわけだけど)。だから二次元のものでありながら「感動ポルノ」なんて単語が使われる運びになった。そういう意味で、この単語を使った奴は悪質である。感動ポルノとは頑張っている障がい者に感動することを指す。しかし、聲の形ではいじめっ子賛美だから感動ポルノ、という論理にすりかわっている。完全に障がい者というファクターをダシにしていて、俗悪なことこの上ない。今後も「感動ポルノ」という単語に気を払わねばなるまい。言葉の汎用性が高いし、文字面の破壊力も高いから安易に使われて安易に影響力を提供しそうな匂いがする。

 今の時代はフラットな見地が求められる。しかし、人は主観的な体験でしかものを語れない以上、フラットなど矛盾に満ちた言葉だ。今の時代文章は読まれなくなっているが、価値があるとすればそこにある。映像や歌と違って文章表現には個人の知覚が入りにくい。ロックの歌詞に感動するのは、アーティストの声やメロディがもろに関与しているのは間違いない。それに対し、言語は言語という社会的な媒体を通す以上客観性がある。客観性を限界まで身につけ、世の中の矛盾を一つ一つめくりとっていく必要がある。だから、本を読もう!(あんま読まない人)

 

ここまで! ちなみに僕はいじめたこともいじめられたこともないです。友達からも「人間関係に興味なさそう」と思われていたことが最近発覚した。いや、人並みに友達いたよ? ただ毎回馬鹿な話か最近読んだジャンプとかそういう話しかしなかったから、誰々をどう思うかとか言ったことがなくて嫌いとか好きとかの蚊帳の外にいた。実際そういうのどうでもいいしね。次の記事ではいじめについて書こうかな、でもこのやり方楽だから、もっかいするかも。