そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

他人&自分「こいつめんどくせえええええ」

 今までの記事で「生きにくさ」はよく取り上げられて来た。

 「生きにくさ」が存在するのは、大抵は他者や社会との関わりの中にある。当然といえば当然だが、社会や他社は切り離したくないし、切り離せない。あれほど自分自身をすり減らす存在であるにもかかわらず。ほんっとうにめんどくさい。こんなにいらないジレンマがあるのか?

 漫画「エルフェンリート」のヒロイン、ルーシーは異種族であるがために排除され、それを恨みつづけるが、本編中で人との関係の中で希望を抱いては違う人の行いに再び絶望するのを繰り返す。しかし、彼女は最終巻でいう。「どんなに嫌われても どんなにいじめられても どんなに虐げられても それでもやっぱり、一人は寂しいんだ」人間の持つどうしようもなさ。どれほど嫌気がさしても他者を求めてしまう矛盾。そういった温かみとも悪しき衝動ともいえぬこの心的欲求の本質を、この台詞はよく捉えている。なぜだろう? 嫌われ、いじめられ、虐げられたら他人などない方が幸せなのは目に見えている。ルーシーは「それでも」という。「一人は寂しいんだ」と言う彼女は主人公を膝に乗せ泣いている。それは間近にいる他者からの慈愛を受け止めた末の喜びのようでもあり、自分のどうしようもなさへの嘆きが含まれているようでもある。

 みんな自分ひとりで生きていく力がないと考えれば、人とのめんどくさいしがらみも、理解できる。だからこそ、「自分」と「他人」は共に「他者とかかわりたい」がために生きていることと同時に「他者に合わせることにうんざりしている」を自覚し、適切なコミュニケーションを取っていく必要がある。本来、大多数の人間に悪意はない。他者との交流の中で悪意を発露したら排除されるのは目に見えているからだ。他者への悪意を感じる瞬間とは、自分が悪意の目で見るからに過ぎない。だから、暢気に人を捕らえて、互いにうんざりしながも、適当に楽しく付き合っていこう。

 

 なんか道徳の話みたいになったけど、終わり。教科書に載らないかな!? 俺が中学のときに読んだら絶対感銘受けると思う。タイムマシンがあれば……!

 僕は人付き合いにこだわらないタイプだから、逆に愚痴聞いてると「なんて真面目なんだ!」と感心する。だって僕は人に関心ないから嫌いになったりしないもん。そんな真摯に向き合って他人にエネルギーを割いてるのを見てるとまるでボランティアだ! って思ってたりする。まあ、真面目だから変にすれ違ったり、偏見を生んだりもするんだけどね。ちなみに僕はジュースかポテチをおごってくれればそれだけで気に入るので単純な奴です。だから誰かおごってくれ。