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そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

「君の名は。」感想

 昨日「君の名は。」の話をしていた。

 友人は東浩紀を引用してきた。どうも彼曰く、「ラストの二人が出会うのシーンは運命の人と結ばれることを描出しているのではなくなぜ運命の人に出会ったと思いこむのかの理由を描出している」らしい。確かに、ラストシーンは彼の言うとおりキャラクターの描写にも妙な現実感があるようにとれる。ただこの批評はいまいち意味の分からない点も多いような気がする。確かに二人は互いを知らないから、出会いはただのインスピレーションのレベルでしかない。つまり片方しか思ってなければストーカーである(恋愛というのは全く同じ行為でも双方向か片方向かで意味合いが真逆になることでえお示唆している)。つまりラストシーンまでのことはなんも彼らの記憶にないわけで、二人にとっては運命的に感じられることの原因を知っているのは視聴者のみである。だからこそ二人が意を決して「君の名は。」って言うシーンで「よく言った!」みたいな決断に対するカタルシスがあるわけであり、そこから二人の始まりが、彼ら二人にとっては正に今から積み上げられる関係の始まりとして表現される。

 まあ、徹底的に俯瞰して考えられているといえる。相手がどう思っているか分からないという恋愛の確証性のなさとそれでいて我々はその縁をしっているもどかしさ、何も知らない相手でも思い切って喋る決断の素晴らしさを描く上でこの批評はそれなりの説得力を持つと思う。ただ、僕は異論を言いたい。

 僕にとってこの作品の面白さは単純に「死んだ人間を現代に引き上げて出会うことのダイナミズム」じゃないかと思う。三葉は実質的には蘇生といってもいいわけだが、彼らは実際にあったわけでもなく、死それ自体は三年前の出来事である。だから、(比喩に頼ってしまうが)天の川をはさんでいるような断絶された環境にある。それでも「昔に死んだ会ったことすらない田舎に住んでる彼女」に対し主人公の「今を生きてる彼女に会いたい」という今⇔昔 田舎⇔都会 会ったことがない⇔会いたいという風に全部を乗り越えていくこと自体の面白さじゃないかと思う。だから、片割れ時に二人が会うとき二人は声を頼りに違う時空を同じような身振りで「手探りに」求め合う。忙しないカメラワークの中で。違う時空でも、会ったことがなくても、組紐の「結び」と劇中にあったように「私の中に君がいて、俺の中にお前がいた」というある意味では最も強烈なつながりを頼りに二人は出会おうとする。そういう意味では、僕の中でラストシーンは妥当なのだ。秒速5センチメートルと違って「過去の君を現代の東京に」引き上げることが出来たんだから。だったら「君の名は。」って呼びたくなるじゃん! 多分それは記憶がなくても決断することなのではなく、巧みな作劇がもたらす必然性なのだ。そう、やっぱりハッピーエンドだ!

 

おしまい。僕自身この文章書くまでは「言の葉の庭」が一番好きだったけど、案外「君の名。」もよく見えてくるな。ちなみに一番すきなのはテッシーだよ。