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そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

昨日の記事補足

 ラストシーンの必然性だが、実際はそんな意味のあるものでもない。必然=妥当ということであり、最後のシーンってみんなわかっていたことを具現化する、所謂サービスだよね。東浩紀への反駁が含まれていたから言っただけな感はあった。ただ、記憶を失ったのに何で覚えているんだっていうリアリティの問題は残る。もちろんこの作品にそういったリアルを求めることに意味があるのか、という疑念はあっても、記憶が作劇上で恣意的にコントロールされていたように感じられたのは否めない。「君の名は。」における問題点の一つだろう。僕も若干気にかかりはした。というか秒速五センチメートルもそうだけど、作劇っていうものを優先しすぎてリアリティが失われ(同時に作画によって現実感を補填していくのが新海のやり方のような気も)キャラクターが駒になっている感じはある。僕が言の葉の庭が好きなのは、最後雪野先生が今までの態度から反転して醜く泣くからである。この作品においては背伸びをやめることこそが彼女にとっての成長の証であり、弱さを露呈することで自分が前に進んでいくこと、しかし前に進むためには主人公という「靴」がいることを素直にいえたこと、同時に弱さを共有することで主人公の弱さをどこまでも許容するということ、そして何より彼女は晴れであっても構わず泣きはらしたこと、ラストシーンの号泣にストーリーの帰結、象徴的な成長の意味づけ、そしてあれだけ神秘的に、生活感のないキャラとして描いた後になりふり構わず行動すること、つまりそれがキャラクターが躍動することであり、新海の映像表現もあいまって感動的に写る。この瞬間我々はこの物語が彼女のために用意されたのだと分かるのだ。

 

こんくらいか。補足を書こうとしたら言の葉の庭の批評になったが、まあ良い。