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そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

過ぎたもの、刹那にあるもの、いずれ来るもの、一番大事なのは?

 「オタサーの姫~」シリーズのレビューをしたら作者にとりあげられていて、まあ嬉しい。僕も偉くなったもんである。三巻のレビューもしてやろうか(上から)。

 

 卒業製作が終わらない。製作に集中すべくブログを放置していたらこの様だ。今第三稿を出した余暇を使って書いている。それにしても、文章を書くのはなぜこんなにもめんどくさいのだろう。何を書くのか考えるのも、どのように書くかも、実際にどんな言い回しを選択するか、全部めんどくさい。創作行為自体が人間には手の負えないあまりに難解で複雑な処理を要求しているのは間違いないと思う。いくら理論を積み上げても、創作とは魚釣りのようなものだ。間違いなく面白くなる手順はない(しかし、ハリウッドやディズニーの製作理論やスタッフ編成を見てみるとたしかにある程度面白くなるように出来ていると思う。これは驚異的であり、人類の叡智と言っても決して過言ではない。「あの」表現をある程度解明したのだから)。そんなのに対してやる気が出たりする訳ないのだ。表現を鑑賞するのも、あんな意味不明なものは感じたくない。僕から言わせれば、東野圭吾の小説すら本来的には分析不能だと思う。そもそも分析という行為自体が表現の本質を壊しているのだから。

 でも、最終的にはまた執筆するハメになり、分かるはずもないテクストと向き合ってしまうのだ。現に今ブログを書いているのもそうだし。なぜそうしてしまうのだろう。少なくとも、僕の場合は逆に分からないからやっているのだ。ゼミの教授曰く、人は知っていることの方が知らないことよりやりたがるものらしいが、僕はむしろ知らないことにしか興味がない。知ってることは所詮反復運動でしかないとすら感じてしまう(ミニマルミュージックは大歓迎なのだが)。表現はその点いい。毎回違うものと出会えるのだし、書くときも新しい境地で望むことができる。その分クソ大変ではあるが、まあ楽しい。これは僕が極端に現在志向の人間であることも関係するだろう。今がどこまでも新鮮でありたい。その欲求だけで僕は生き続けている。面白そうなことが十生分くらいはありそうなのは幸いである。ただ、過去が好きな人は自分の過去を本当に活き活きとした語り口で話す。僕は記憶力はいいが、出来事をひたすら覚えているだけでどんな感じだったかはほぼ抜け落ちている。過去志向の人間は、過去の自分の情動を覚えているから、思い出を大事にしているのだろう。そういう見方で行くなら、僕にとって過去は残骸のようなものになる。こわっ。さすがこんなんじゃないぞ。面白いのだと、来世を信じている未来志向の奴もいた。未来の予測不可能性をポジティブに捕らえて楽観的に生きるスタイルが先鋭化したのだろうか。

 最後に、この三つの志向をいい悪いでまとめるとこうなる気がする。

いい過去志向 現在から過去を汲み取り、過去から現在までの軌跡を追うことが出来るため、時間的に豊かで幅が広い。

悪い過去志向 相対的なものの見方しか出来ず、過去の体験より劣るとそれだけで価値が無くなる。ひきこもり的。

 

いい現在志向 今の判断と行動が全てなため活動力が高い。人生のライブ感が高い。

悪い現在志向 あらゆるものを切り捨てがちで貧相になる。即物的で短絡的。

 

いい未来志向 未来に対する意味のない不安を取り除ける。現在への不満を軽減できる。

悪い未来志向 未来の予測不可能性に頼って現在と過去から逃げ続ける。逃亡的。

 

一種の性格におけるアーキタイプっぽくなったが、あてはまるものはあるかな?