そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

人の好きな作品にけちをつけたいタイプ?

 作品批判に否定的な物言いをする人はよくいる。以前誰かが「個人的に面白い映画を友達と観て感想を聞いたら全否定されてその作品を素直に楽しめなくなった」とツイートしたらそこから議論が始まったこともあった。

 僕は批判なんて好きにやるべきだとと断じている。そもそも表現の自由とは自由に批判していいことも含むのであり、封殺することは弾圧的な態度と等しい。そして批判してきたら「んなわけねーだろバカかお前は」と返すこともまた許されている。最低だと言った奴に最低だと言うのも、もちろん自由だ(そして最低のイタチゴッコがスタート!)。 

 ただ、好きなものに水を差されたくないから批判すんなってのはまあ分かる。実際言い返すのはエネルギーが要るし、そんな筋の通った反論したいほどムキになる気もないのだろう。表現の自由がある一方で、表現に対するスタンスの自由もまたある。ぶっちゃけそこを理解せずに文句垂れてる奴は空気が読めてないとも言える。めんどくさい奴だ。でも、僕はやっぱり議論したい。言語的、感覚的、文脈的齟齬によって永遠に終わらない作品議論。これだけ科学が進んでも、表現の解明は一向に進まない。そこにはクオリアの問題もある。クオリアは他人に伝えられないからだ(余談だが、ラマチャンドランはクオリアを人に伝えられないのはクオリアを言語化できないからだと言っている。面白い意見だ)。その中でなんとか自分と他者と感覚と言語観を摺りあわせて「それらしいたしかな」魅力を獲得できるのか。出来るかは僕には分からない。だが、それを知るためにとりあえずやってみたい。表現による感動の根源、驚嘆の原因、歓喜の理由を。それはやはり一人では出来ない。一つの視点、一つの見方ではどうあっても表現の魅力の「たしかさ」をモノに出来ない。そのために僕は批判して、批判されたい。そして言い返し、言い返されたい。だから自由は常に争いを呼ぶ。好きに言って、暴言を吐かれ、やり返す。まあ、それでいいんじゃないかと思う。変に押し黙るよりはずっと建設的なんじゃないかな。空気を読んで語ろう!

 

終わり。議論を喚起するための文章についてまた議論が起こる、メタ的な状態になったら議論喚起の文章は最大の目的を達成したといえるよね。もっと飛ばし記事気味に書いた方がいいのか?「批判する奴はクズ」みたいなタイトルにしたほうが食いつきはいいよね。どうでもいいからやんないけど。