そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

表現の良さ、かっこよさ

昔からそうなのだが、僕はかっこよさやダサさが今一わかっていない節がある。音楽や本の感想を言い合っているときでも、かっこいいと言われてもいまいちピンと来ない。ダサい、かっこいいと思われているものはたしかにそう思うのだが、「普通そう思うだろうなあ」くらいで、自分自身が感じているわけではない。表現における味わいや雰囲気はどう作用しているのかは興味深い問題だ。そもそも、かっこよさなどの雰囲気のようなものと本質的な表現性を分離することは可能なのかが分からない。かっこよければいい作品なのか? 逆に、面白くてもダサければ駄作なのか? 例えばエドガー・アラン・ポーは構成や設定は驚異的に上手く、それらを組み合わせ迫力のある展開を見せてくれるが、文章がダサすぎる。ただの中二病だし、幼稚で大振りだ。文章のダサさは許容されて当然なのか、そうではないのか。
僕の友達にはかっこよさを重視する奴がいる。感性的に全く理解できすることができない。では逆に僕はなにを基準に置いてるのか? 多分、ある種の極端さ、狂ったものを求めている。こちらを鷲掴みするような異様さ、唾すら飲めないほどの緊張感を。いい表現はどこか徹底するものだ。あらゆる要素を取り合わせ、一つの強烈な情動を描出すること。時間と空間の流れに緩急をつけ、言語化することは到底叶わない「狂いよう」を見せつけること。僕はそれに期待している。それができれば、特にかっこよさは要らないのだ。かといって、情動や狂気もどのような価値を持つのだろう。表現は鑑賞者抜きには成り立たない。それぞれの認識する価値が違うのはたしかだとしても、表現は「こうあればいいもの」といいうる尺度を示せる言葉はあるのか。多様なジャンルがあり、多様な個々の価値判断によって変動する感動の質の共通点。分析の集約点を見いだせる日が来るよう、みんなで話し合おう。

終わりー。やっぱり狂ってて単純なのが一番だね!