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そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

文章をネットに「放流」するのはなんで?

昨日友達から「この調子で毎日更新しよう」とのラインが来た。そもそも毎日更新をチェックしないで欲しいよ。怖いよ。……が、そのせいで今日も脅迫観念に駆られて仙台から山形行きのバスでブログをポチポチ書いている。作戦負けだ。
このブログは文章を習慣的に書くためにやっているだけで、別に考察を書く場ではないのだが、自然とそんな風になってしまった。今の時代はLINEやTwitterFacebookなどはみんななんとなくやっているが、ブログはある程度意識的にやるもののように思われる。ブログはテキストサイトなども含まれるため歴史の長いWebメディアだが、LINEやTwitter、古くはモバゲーやmixiのように、やってない若者はそれだけで「輪から外れてる感」のあるレベルまで流行ったことは僕の体感的にはない(ちなみに僕はmixiは遂ぞやらずに20代中盤になってしまった。もしかしてはぶられてる?)。まあ、ある意味当然だろう。ブログは使いようにもよるが、今あげた4つと比べると圧倒的に手軽さはない。モバゲーやmixiやLINEにも日記機能はあるが、これらはあくまで生活を書くためのものであり、「誰か」に発信していることは明白である。ブログはその点違う。別に日々を書かずに論考を書いてもいいし、SNS程友達がいることを前提として始めたりしないから誰に発信しているかがよく分からない。だから、ある程度能動的でないとブログはやらないものではある(文章を書くことが習慣づいている人はまた別かもしれない)。なにを書くかが特定されないため、それなりに目的意識も要求される。
そう考えると結構不思議な媒体である。創作は一人で行い、出来るまで人に見られることはない。日記に至ってはノートを埋め尽くしても人に見せるわけではない。ブログは人に公開している。それはなぜ? もちろん内容によって理由も異なるだろうが、なぜ見せる必要はあるのだろう。別に日記のように自分で書いて完結しては駄目なのだろうか。僕の場合は人に見られていると緊張感が上がるから見せている。だからブログは助かる。貧しい想像力を働かせるなら、人気ブロガーになって一攫千金したい人はいそうだ(アフィリエイトのまとめブログとかね)。これは分かりやすい動機だ。では、ただの日記をブログで書くのはどうか? これはSNSで代替可能だ(だが、そもそもSNSはほとんどの機能は交換可能なものではある)。ブログの方がSNSより自由にレイアウトをいじれるため、自分の個性を見せたいのか。
ちょっとよく分からなくなってきたから閑話休題。しかし、こうもSNSが発展した現代では内面とはどこにあるのだろう。色々な事情をネットに暴露し、放流する。心は公開されてしまう。内面とインターネットは溶け合い、個人の領域は失われていくような感覚が僕にはある。実際、悩みを全て表明してしまったら、その時点で内面はインターネットに放流され、一人の悩みでないから内省自体が不可能になるはずだ。それが怖いと思うのは僕が古い人間なのもあるだろう。10代からすれば自分を世界に発信することは当然であるから、怖いもなにもない。自殺サイトが自殺防止に役立つように、悪いことばかりでもない。考えるべきは、世界と自分の距離が縮まったことで「できること」だ。出来なくなったことを考えすぎても愚痴にしかならないし、それは以前の価値観での思考である。なにができるのか、そしてできることにまつわる問題領域はなにか。まず、新しいものの価値を考えなければ、古い価値観に引きずられて終わってしまう。アップデートによる「広がり」を考えることで初めて、それによって薄まった箇所への言及はまともに行うことが出来る。