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そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

「やる気がある・ない」ってそれ自体はやったかどうかと関係ないでしょ

 なんとなく他の人のブログを読んでいたのだが、アラサーで6500枚のアルバムを聴いていた人がいて絶句した。だって400枚/15年で6000だよ? 僕には到底出来る努力量ではない。他のブログで読んだ話だが、ずばぬけた発想、もしくはとんでもないテクニックを持った人をわれわれは天才と思いがちだが、努力を努力と思わずありえない量努力をして、天才的なスキルを手にするタイプがいるらしい。僕が読んだ人は天才かは知らないが、これだけ出来ること自体が僕には及びもつかないことである。僕の母親も35年毎日日記をつけているが、これも一生出来そうに無い。

 継続的な努力が大きな力になるのは分かっている。だが現状は努力しない自分である。だが僕は「しない」のだ。今までの僕だったら「やればいい」と書いてお終いにしていたが、最近それで決めつけるのも思考停止な気もする。いや、もちろん「やれない」などと言うつもりはない。しかし、だからといって「やってない」のも事実であり、「ただやる」だけで現状を打破するワンワードにもならないというのも事実であろう。つまり、「努力していないのはやらないから」という循環論法から抜け出すために、多少は言い訳チックな自己分析を試みるわけである。

 友達が面白いことを言っていた。「個人を救うにはアドラーの考えが一番いいと思う。でも、実際に悩んで自己嫌悪している人に「ただ考えずに行動しろ」って言っても現実的には出来ないわけじゃん」たしかに、そうなのだろう。「ただ行動すること」という論理は究極的には正しいが、難しいに決まっている。この論理のめんどくささは、どんな反論も「やってないからじゃん」ということで無力化出来てしまうことがある。そして、トピックが抽象的であるほど、この論理は強固になる。例を挙げよう。僕とライトノベル作家が創作の面談をしたときである。

僕「すいません、中々書き出せなくて困ってるんです……」

作家「書けばいいじゃん!(やたらテンション高くてウザい)」

僕「いや、どの程度プロットを書いてから書いていいかわかんなくて……」

作家「じゃあプロットを書かないで書けばいいんだよ!」

この場合「創作について」というある程度方向性のあるトピックであるため(ウザいという欠点はあるものの)ラノベ作家は具体的なアドバイスを言っている。僕もこう言われて結構救われた面はある(てか昔は弱気だったなあ)。だが、もっと抽象的な場合、例えばある種の自己啓発においては、こうは行かなくなる。漠然としたポジティブなメッセージを送信し続けても、反論できなくなる。自己啓発のしょうもなさは論理性の無さである。自己承認や行動主義はいかに正しくても「ただそれだけ」である。なんの下支えのない、当たり前のこと。逆にわざわざ自分から言いすぎる事でもない。努力できません! って言われたら「じゃあしろよ」で済むが、自分から人間は「ただやる」といってもなんの意味のあるものではない。論理の一環としてだったらまだしも、それを話の中核に据える価値が無い。だって誰だって知ってるから。

しかし、努力しないこの現状をどうしよう? 僕は最近は「頑張らない」ことにしている。てか、がんばろうと思うことで何か変わったりするのか疑問である。第一、努力家とは大抵努力を努力という認識なしでやっているだろうし、そもそも、認識がどの程度のレベルで行動に及ぼすかは疑問である。実際、やる気を出そうと思っていた時期と自然体の今で、別に僕の本を読む時間や執筆量は変わっていない。はっきり言うと「頑張ろう」と思う気持ち自体が一つの言い訳になってしまうように僕には感じられる。「頑張ろうと思った」のだから、「頑張る気が無い奴」よりマシになるのだ。そう思ってる人はいないだろうが、しかし原理的に言い訳になってしまうのであり、頑張ることに振り回されすぎることにもなる。

 本来、意識改革など何の意味も持たない。僕は自然でいいと思う。向上心は「心」でしかない。行動しろっていう言葉自体がある意味では行動ではない。ただ自然に振舞い、駄目だったらしょうがない。成功したなら万々歳。そうすることで全ての結果は自分の責任になる。そうすることが、僕の思う「自分の人生を生きる」ことだ。

 

以上。この論を実践すると、かえって頑張ろうと思っていたとき以上に怠惰が怖くなる。だってやらないことが自分の「素」になるから。