そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

責任の持てる人になれ、って言い方が既に無責任なんだよ!

 このブログにしては珍しくゴシップから始めよう。

 清水富美加幸福の科学にそそのかされて芸能界を引退した。残っていた仕事も全て投げ打って引退したため、芸能界はてんやわんやだ。そんな中、こんな記事を見た。news.livedoor.com/article/detail/12681886/

問題としてあるのは、責任というものは本人にとってどの程度の意味合いを持つのかということだ。組織や共同体においてはある程度の責任が付随する。仕事をやめるときは退職届が必要だし、そしたら自分のデスクを片付ける。離婚には離婚届が必要で、持ち物は家から出さねばならない。でも逆に言ってしまえば「別にその共同体を抜けるんだから最後はどんだけ無礼になってもいい」とも言い換えられる。だって責任は何かを遂行するときはともかくとして、脱退するときは最早責任を守るメリットが見受けられないから。清水富美加も違約金は払っている以上、法的にはきちんとした手続きをとっているわけで、残りの仕事を破棄した対価は払っている(払った額が仕事の生み出す富に見合うかはともかく)。そういう意味ではなんら間違えてはいないのだ。

 生きるのが上手い奴は、責任に上手く自分の欲望を乗せる。責任のある仕事に自分自身の「楽しみ」を見出せる奴は強い。生き方が強靭である。本来欲求と責任は相反する。だって人間は本質的にうろちょろしてるからね。江戸時代とか明らかに今よりもっと適当だし。かといって今の時代では誰しも「なにかしら」が「課せられる」。押し付けられたそれとどう向き合うか。無視は出来ない。近代社会で完全に規範から離れるのは無理だ。タイプ分けするなら、

1洗脳的に楽しみまくる、社会の生み出した怪物的な歯車タイプ

2しぶしぶやって、愚痴を吐きながら生きる怠惰な犠牲者タイプ

3絶対嫌だから、とにかく逃げ続ける独我的アウトロータイプ

こんな感じか。僕は2と3の中間にいるが、1の気持ちはマジで分からん。別に社会というものを根本から軽蔑はしていないが、ネジがどっかで外れたのか、あるいはこれこれ社会の作り出す理想的な人間像なのだろうか。多分、一番いいどれにも当てはまらない人だと思われる。定型的な人間は、不定形な欲望に対応しきれない。だから、どうしても何かしらのジレンマに合う。テンプレートはコミュニティ、社会適応能力を供給するが、欲望を制限するのは前に書いたとおりだ。まあ、上手く摺りあわせて生きていきましょう。そうするには、自分で事物の「価値」をきめていくしかないんじゃないかなあ……(自信なさげな結び)

 

これで終わりじゃ。僕は責任が死ぬほど嫌いです。だってめんどくさいじゃん。