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そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

オタクカルチャーから美少女を抜いて考えたら、なにが残るんでしょうね

「オタク文化はオタクの性的欲望が根付いている」との見解は良く見るし、僕もある程度は同意する。そうでなければあんなに少女をかわいく見せる必要がない。もちろん純文学でも美少女はいるが、ああも徹底的にフェティッシュではない。

だが、他方でこの思想が厄介なミームでもある。このことが前提として立ちふさがりすぎて、それ以外への言及の乏しさが目に付くのだ。オタク文化批評が「オタクの欲望を描くもの」という批評観に囚われすぎている節があるようにも思う。もちろん違うものもあるが、そういう文脈から社会とオタクを接続するしょうもない理論が出来上がってしまうのはなんともやるせない。東浩紀は先進性と鮮やかな論理運びは素晴らしいが、オタク文化を「メタ的」で「欲望に満ちた」、「社会へのカウンター」としての存在として確立させすぎたことの罪は決して軽くない(読み手の問題も多分に含む)。

以上が問題の一つ目。そしてオタクの欲望=オタク文化から解き放ち、表現としての機能、躍動感を語るフィールドが作られ、さあ語ろうというとき、理論としてなにに依拠するかが次の問題だ。今は漫画やアニメなら映画、イラストなら美術、ライトノベルなら物語論が引用されがちだが、当然ながら漫画やアニメは映画ではなく、俗にいう「萌え絵」は絵画ではない。特有な理論があまりにも少ないように思う。伊藤剛テヅカ・イズ・デッド」は名著だが、本人が言うように表現論におけるフィールドを提示することがメインで、漫画そのものへの理論構築ではなかった(フレームの非確定性は興味深いが、理論としては応用が利かない気もする)。また、彼自身但し書きをしていたものの、やはり他表現からの理論の引用が多すぎることは否めない。一体なにが特有なのか。映像として、美術として、文章として、オタク文化にしかないものはなんなのだろう。大塚英志のいうところの「リアリズム」か? だけどリアリズムがまるっと変わったら表現形式もまた変動するはずだ。ある小説とライトノベル物語論的には全くの同一で設定やキャラクターの関係も似通っていたとしよう。そのときライトノベルが「漫画・アニメ的」であることはどう作用する? それは答えることが出来ない(このような問いを立てられる時点で、大塚の仕事が偉大であることを実感する)。

 サブカルチャーとは本当に不思議だ。映画や純文学とはあんなに「違う」のに、どう「違う」のかが想像以上に説明しづらい。特性を並べ立てるだけなら簡単だ。だが、それだけではなにかが足りない気もする。アニメを実写にするとありえないほど滑稽になる。ちょっと前にリメイクしたパトレイバーがそうだったらしいが、それは面白いことだ。それは、アニメにしか出来ない「台詞回し」があることを意味するのだから。あまりに当たり前だが、文学に出来なくてライトノベルに出来る「言い回し」がある。凄いことだ。そこでは新しい「虚構」が立ち現れていることになるのだから。そう考えると、やはりリアリズムが出来たこと自体がオタク文化の革新性なのかもしれない。その上でわれわれが考えるべきことは、リアリズムによってもたらされた未踏の表現領域を、メタレベルではなくあくまで「素材の躍動」(言語の躍動、音の躍動、色彩と線の躍動……)である表現として還元する必要があるのだ。

 

おしまい。やっぱり大塚英志はえらい!