そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

君の名は対象a

去年の五、六月にとある女性に告白したことがあった(しかも彼氏が既にいた)。なんか、恐ろしく今までらしくない出だしになってしまったが、今回は恋愛のはなしのためこう書いてみた(恥ずかしからずに書く少女漫画はつまらないという至言もあるしね)。
恋愛についてラカンは「女は対象aである」と述べている。ラカンは嫌いだが、この意見は正しい。理由が極めて主観的で、他から見たらその女を好きな理由が意味わからないという意味では、まさしくそうだ。しかし、それ以上に女が(男が)対象aである理由は「本当は代替が効く」からじゃないか。結局、好きな奴というのは「代替不能に見える」のであって本当に代わりがないわけじゃない。住んでる場所が違ったら違う人が気になったりするだろうし、むしろもっといい人がいる可能性も多分にある(世界は広いのだから)。ただ、これは論理でしかない。人生の只中ではやはり代りがいない。「こいつよりもいい奴がいそう」と思って流浪の旅に出る奴は見たことがない。人生は常にそうだ。代替が出来ないもの、補填が効かないものは一切ない。愛情か友情か実益かに関わらず、「こいつがいなければ絶対に無理」は結局そいつがいる世界に生きてるからで、元々「ない」世界だとしたら問題がない。
君の名は。」の面白さはここにあるのかもしれない。「ないことになった」世界で、二人が再び出会う。互いに記憶を失ったのだから、もう瀧にとっても三葉にとっても相手はなんの興味のないカスに成り下がる。だが、それでもなぜか彼らは「こいつがいなければ絶対に無理」だと確信して、名前(という本来的には無意味な記号)を尋ねる。東浩紀はこの作品を「相手をかけがえのないものだと思い込む過程」だと評したが、それはある意味では正しい。だが、やはりそれは論理だ。実際に彼らが会った日々はなくなったが、「君の名は。」は映画なのだ。視聴者は、瀧と三葉のストーリーを「目撃」している。だから我々自体が瀧と三葉の記憶媒体なのだ。そうでなくては、ラストの台詞が説得力を持たない。瀧と三葉は、時間と空間を越えて出会う。そして時間と空間の差を埋めるには、互いを忘れることが代償となる。対象aではなくなるのだ。だが、ラストで初対面のはずの彼らは相手が対象aだとしか思えなくなっている。それは運命といえるものだ。その運命は前の世界での彼らの想いが作り上げたものだが、この運命は所詮次の世界で消える。だが、それを我々は「目撃」し、「受託」している。そして、ラストシーンで「目撃した運命」を二人に「返却」するのだ。だからあの作品には奇妙な共感性がある。瀧と三葉は運命性だけで名前を聞く。そのとき、運命の女神は我々なのだ。

以上。「君の名は。」のレビューをするとは全く思わなかった。恋愛感情と対象aについて語ったらこうなってしまった。