そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

こんな人間じゃなかったら、どんな人間になればいいんだ

昔から僕の友達は変な奴が多い。最近わかったことは、やたら幸せについて考えている奴もまた多いことだ。別にその二点を結びつけようという気はない。思うのは、幸せを求める理由だ。
当然ながら、幸せというのはあまりに漠然とした状態であり、具体性が見られない。だから、彼ら幸せを求める人は自らのうちに不足を感じている。なんというか、ここが面白い。友人を見るとそれなりに問題設定はできている。今自分を苦しめる壁はなにか理解している。だが苦しみをなくしても自分が幸せになるとは思っていないのだ。あまりに不確かな空漠。不満をかたずけるだけでは決して収まらない空虚。それは僕には理解しがたい。僕が考えるのはより良く生きるための姿勢だ。より良いとは簡単だ。「さらに良い感覚」がもたらされることに他ならない。喜びや楽しさに満ちることだ。だが、「幸せになる」とはそれでは満ち足りないのだろう。ただ理解できない僕にはなんなのか判断しかねる。ある種の強烈な依存や信仰による「救い」なのか、内省を繰り返した先の「気づき」か、最も純粋な「死」か。このどれでもないのかもしれない。ただわかるのは、苦しみを取り除いた先に幸せがないのは確かだろう。彼らの話を聞いていると、もっと存在の根本に根差した「心性」が藪の中で獲物を探す獣のように、幸せには息づいている。ある人は家族の問題と人間の矛盾を語り、異性との平和な家庭を求めた。ある人は依存と孤独に耽溺し、執拗に嫉妬されることを求めた。ある人は打算で生きてしまう自分に虚しさを感じていたが、女がそれを救い幸せになった。ある人は、偉大なものの振る舞いについて語ると同時に素朴な恋愛の素晴らしさを説いた。ある人は自分にルールを課し続け、自分自身に丁寧に鎖を巻き、「救われたい」と願った。ある人は己の不運を呪い、来世を待ち焦がれた。ある人は家族にがんじがらめにされ、ひとりで生きるのも許されず、達観とも諦観ともつかぬことになった。ある人は…… またある人は…… ある人は……
もしかしたら、幸せになりたい人を一括りに出来ないのかもしれない。仮になにか共通することを抜き出すならやはり「他者」だ。自分以外を求め、求められ、拒絶し、拒絶され、後にはなにも残らない。他者との干渉によって害されるが、それでも他者を切り捨てられない。他者が喜びをもたらしても、結局はあまりに違いすぎる「他人」である。なんでこうも上手くいかないのかと思いながら、被害と加害の区別もつかずに延々と閉口する。悪いことをするつもりがなくても悪いことに「なり」、最善を尽くしても「不快」と捕られる。しかし、それでもやはり、一人は寂しい。それだけは消すことが出来ない。切羽詰まると誰でもいいから誰かを探す。
僕たちは、悩む。よりよくなるために悩む。だが悩みは皆違い、自分の悩みは違うように解釈される。でも悩まなければならないし、疑わなければならない。寂しさの中で、ずっと悩まなければならない。今悩み続けることで、そのときだけ僕たちは救われているのだから。

終わり。すげえ詩的だ。たまにはありかなあ。「ある人は」のところは友達のことです。協力感謝。