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そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

まだ生きてるってことは救われてるってことだよ

「救い」はよく小説などでテーマにされるが、つまるところ救いとはなんだろう? よくわからないからどこか神秘的な響きを帯びるのだと思うが、今回は救いの内実について考えるときだ。
友達に救われたいと願ってるやつは何人かいる。(前回の記事と合わせるとヤバイ友達しかいないみたいだな。外れてもないけど)救われたいと願っているから、彼らは「救われていない」ことになる。なぜ「救われていない」のか?なにをもってそう言うのか? それは本人も明瞭には分からないのだろう。
僕が思うに、人は既に救われている。仏陀みたいな言い分だが。そもそも、人はどれほど絶望的でも「救われうる」のだ。なぜなら、未来のことは分からないのだから。どれほど堕落しても、救われる可能性は存続する。なにをもって救いとするかは未だよくわからないが、常に「救われうる」こと以上に具体的な「救い」があるだろうか? 生は常に不確定だ。だから生きることと救われることは等しい。人生の中を生き続けるとき、あなたは救われ続けている。どこまで転落しても上昇する可能性が原理的に残り続ける。人生はなにが起こるか分からないから不安にもなるし、それが楽しみでもある。だがそれ以上に、分からないから僕たちは救われている。そう、駄目でも「まだ生きられる」のだ。
しかし、僕が本当に言いたいのは救われているから楽なわけではないことだ。「まだ生きられる」ということはどれほど堕落していても「生かされる」ということだ。「人生なにが起きるかわからないんだから生きてみたら」的な説教は正しいが(その代わり果てしなくうざい)、この論理は生きること自体が強制させられる。救われているから、生きねばならない。人間は終わることが許されない存在なのだ。それは、どこまで追い詰められても獣は戦うことを諦めないかのような、悲壮な姿だ。
「救い」とは、瞬間的な多幸感ではなありえない。膨大な幸せを手にしたところで、そのあとも人生は続くのだからすぐに消えてしまう。われわれは出来事を重ね続ける。どんなショッキングな出来事のあとも、違う出来事がすぐ到来する。だから、哲学者は考える。論理によって恒久的な幸福を掴もうとする。それは自らの状況や環境が全てである現実の前ではあまりに無意味で、儚い。論理がいかに厳密で感動的でも、朝の満員電車が快適になったりはしない。僕も生きることについて考えるが、なぜ考えるのか。恐らくいや間違いなく、生きているだけで救われているような、嫌気のさす現実の中にある「美しさ」に気づきたいからなのだ。

終了。最近変に感動的だ。けものフレンズの影響だろうか。