そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

クズな人はいるが、自分自身はクズになることができない

 「僕はクズだ」と自称している友達がいる。それに対してなんとも思っていなかったが、ちょっと疑問になってきた。

 「〇〇は□□だ」という物言いは基本的に同語反復だ。isがイコール関係なのは中学生で学んだろう。「りんごは赤い」といってもりんごは元々赤いわけで、そこに新しい意味合いが含まれていない。では、「俺はクズ」は同語反復だろうか? 違う。自己は、そもそももっと複雑だ。主体とは常に対象化できない。自らの混沌は解き明かせない。「あいつはクズだ」は成り立つ。自分ではないからだ。なぜか? 自分ではないものの感覚や情動、衝動や思考は分からないからだ。他者はどう思っているか、なにを感じているかは分からない以上、言葉や身振り手振りから解釈するしかない。つまり、社会のルールに準じた「分析」が可能なのだ。「分析」には必ず自己流の「見解」が入る。だから、他者は相手を移す鏡足りえるのだ。他方、自分は自分で「あるから」感覚や情動を感じることが出来る。(他者の情動は分析できるが感じることは出来ないのに対し、自己は情動そのものに「直面」できるがカオティックすぎて分析できない)僕たちは、こちらを釘付けにする美しい表現を「豊か」と称したりする。だが、そもそも表現に感動することが出来るわれわれの感覚こそが最も「豊か」なのではないだろうか? 優れた表現はこちらに強い情動を与えるが、揺さぶ「られる」こと自体が、揺さぶって「くる」表現と比べて劣ると断言できようか? 衝動的な表現や情念に満ちた表現は僕たちに狂おしいほどのえもしれぬ感覚をもたらす。しかし僕たちは生きてきて何度、自分の訳の分からなさに絶望してきただろう? 理由も分からぬまま変てこなことをする自身にあきれただろう? それと比べれば、表現の持つ衝動性も情念も大したものではない。僕らはいつだって「自分」が一番「自分自身」に驚き、呆れてきた。人間にとって、自分こそが人生史上最高の「名作」なのだ。当然だ。インクや空気の振動が生み出す擬似的な心のあり様ではなく、生の感覚「そのもの」に触れているのだから。

 だから君はクズじゃないよ…… と言う気ではない。「名作」とはあくまで比喩であり、われわれはその「名作性」ゆえに苦しんだりもする(狂気は素晴らしく魅力的だが、本人からすれば苦しみでしかない)。しかし、それだけ意味不明な自己を「クズ」で片付けられるわけがない。それは自分の持つ混沌を打ち捨て、対象化することで極限まで矮小化、卑小化することになる。「僕は〇〇なんだ」と考えた瞬間、あなたにとってあなた自身は「他人」でしかない。そういった自覚を持って生きてしまうと、感覚や情動によって顕在化する現在の「きらめき」は失われる。何かを感じるには、解釈など不必要だ。

 クズと称するのは楽だ。そう称すればクズであることに悩んでいるように見えるが、実際は違う。かといって、クズを自覚することで免罪符にしてるとか、自覚してる分マシだと思ってるとか、そんなどうでもいいことを言いたいのではない。クズを自覚することで、あなたはクズに「なれる」のだ。恥ずべき行いを、「クズだから」と解釈することに甘んじてしまう。今まで述べたとおり、解釈は他者にしかできない。だから、自分のしたことを「俺はクズだから」と解釈することで、「クズな行い」は「クズな俺」がやったことであり、自分自身ではなくなる。自己否定とはそのような論理で成り立つ。否定すれば、自分のやることは自分でなくなる。「駄目な自分(というある意味での他人)」がやったこととなってしまうから。そうではないだろう。人間はなにをしても「他ならぬ自分が自分を総動員させて取り掛かった」に決まっている。そして行ったこともまた「人生」の一部になっていく。だからこそ、僕たちは自分がなんであるか分からない、恐ろしい存在であることを「自覚」しなければならない。

 

終わった! なぜか楽しく書けた。