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そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

空気が読めると逆らうことができなくなるからさあ大変

ここ数年で自閉症スペクトラムについての議論は盛り上がりを見せている。僕も多動症だからなんか抱えてそうだが、特に問題ないためどうでもいい(自分に興味ないし)。最近調べてて面白いのは定型発達者(アスペとかadhdじゃない、社会的に「普通」の人)も問題があるということだ。定型発達者は非定型と比べて空気が読めるし、人の表情を読みることもできる。しかし、その分空気に逆らうことを苦手とする。定型発達者は順応「しすぎる」のだ。クラスの流行りにあわせて自分をセットアップすることを義務づけられている。流行に興味がない人からすればなぜ無理に合わせているか分からないのかも知れないが、それこそが定型発達者の「病性」なのだ。脅迫的な順応性。はみ出しものはミーハーを馬鹿にするが、それは却って自分の幼稚さを露呈する結果を招いているだけなのだ。はみ出しものは周りに合わせないのではなく、出来ないだけだ。「凡俗」な流れに乗る者は仮面の被り方を「知っている」から「やってしまう」。
「本当の自分」を探すのは馬鹿らしいと前の記事で僕は言ったが、案外そうでもないのかもしれない。仮面をつけられる以上どうしてもつけてしまうため、外面と内面が乖離し始める。自分が正しく「定型」であるような錯覚に陥ることになる。
昔は、定型であることになんの疑いも抱くことはなかった。なぜなら、抱けるだけの情報を持つことができなかったから。神や王に従うことを疑いうるような情報が与えられる機会がそもそもなかったから。しかし、今は妙な形で個性というものを請求される。絶対的価値によらない「個的な価値」を持つ必要が出てくる。そのとき、空気や流行に逆らうことができない「生まれ」を持っているのは悲惨である。adhdの性質の一つに衝動性があるが、彼らの従属もある意味では「衝動的」なのだ。
みな違った意味で衝動性に突き動かされている。二つのタイプを分けるのは、多数派か少数派かでしかない。だから、僕たちは自らの思うように「あれ」ない。違った形の自己であり続ける自己。しかしそれでも自己である事実が変わらない。そのため、人は自分を許さなければいけない。どんなに自分が望んだ形にならなくとも責めても意味がない。常に人は「意思」よりも「性」で生きるものだから。納得のいかない、こんなに使えない自分自身にできることは、寄り添うことだけだ。

オワリ。こうして読むと女より男の方がアスペルガーが多い理由がわかるな。その分女の方がなっちゃうと大変なんだろうけど。