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そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

うちのブログは笑顔の入れ物なんです!

 このブログは読者を意識せず好き勝手書いてるが、最近、ブログに書く行為自体が「手紙」のようなものである気がしてならない。誰に送っているのかというと、たぶん「僕の周りの人」だ。と言ったものの、周りで読んでいるのは3,4人くらいで、多くは存在すら知らない。それでもよく遊んでいる人や兄などに「送って」いるのは確かなのだ。ただ読んでわかるとおり、全く個人的な内容にしていないし、する気もない。ある程度一般化して、分析している。が、このブログのインスピレーションは自分が小説や評論を書くときと比べると圧倒的に僕が出会った人から刺激と影響を受け、考えたことを書いている。そうした方がネタに困らないのもあるし、そしてそれ以上に彼らとの「目くるめく日々」を保存したいというのがある。それは文章でなくては駄目だ。前に書いたが、僕はなにが起きたかを憶えるのは大得意なのだが、そのときどんな感情だったかは全く憶えていない。だから、根本的に「楽しい」思い出などない。(悪い意味では全くなく)振り返ると常に「灰色の」思い出なのだ。でも、文章に残せば情動が入る。記憶は意識的に過去を探すが、文章だと無意識が入り込む。なぜなら文章には言語化不可能な知覚と感覚のレベルが存在するからね。単なる説明文よりも遥かに「説明的」に思えて「しまう」とき。学問よりも深く人間の本質が見えて「しまう」とき。文学には、少なからずそのような要素が入り込む。表現はそういう意義も備えているのだ。ダニエル・ジョンストンは「音楽や絵は自分の思ったことをそのまま表現できる」と嬉しそうに語っている(同時にダニエルの才気に震えさせられる台詞だ)。そのような力を信じて「文章表現」の一つとしてブログを書く。かといって思い出に浸るためのツールにしたいわけではない。逆だ。

 人間はどんどん駄目になっていく。未知のものが減っていってその分「処世」の仕方を覚えていくから、油断するとあっという間に堕ちる。そのために「めくるめく日々」を記録する。あのときを懐古するのではなく、あのときからどれほど変われたか、そのあと「めくるめく時」がどれほど味わえたか。「めくるめく日々」に身を任せていないか。「処世」し続けて、その場しのぎに陥っていないか。僕はブログを見ると自分が書いたにもかかわらずびっくりする。こんなに楽しげに日々を過ごしていたのかと。僕以外には分からないのかもしれないが、僕には明瞭に見てとれる。昔のばか騒ぎの感覚が、自分の記憶に頼るのとは比較にならないほど感じられて「しまう」。そして、その楽しさに頼ってはいけないのだ。それこそが惰性そのものであり、「処世」に他ならないのだから。

 人生は、ただひたすらに自分の「今」の感覚と向かい合う作業だ。そうであるから、昔に使った手法など使えるわけがない。表現は初見が最も面白いように、常に何かを生み出さなければいけない。それはものすごいちょっとしたことでも構わない。少し違う道を歩く、変な創作料理を作る、目的もなく卓球のラケットを買う、奇天烈な冗談を言う、ありえないほど寝てみる…… 全部馬鹿らしいが、なにか違うこととはそれだけでどこか新鮮だ。だが、人間は「型」にはまるのを好む。そうしていれば「間違える」ことはないから。それは確かだ。そういえば、子供のときはいかに変わったことをしていただろう。何も知らないから、自分でなんとかするしかなかったあのとき。もちろん子供のとき誰しもが幸福であったわけではないが、幸福でなくとも、どこか「新鮮さ」があったのは確かだろう。それはもう手に入らない。だが、それでもやりようはある。自分に対して誠実であるとは、常に面白いことを「見つけてあげる」ことだから。そのためにずっと努力することだから……

 この記事も手紙だ。文面に「お元気ですか?」という意味合いが練りこまれている。僕がブログに生き方ばかり書くのは、なんだかんだいってみんな救われてほしいと願っているのだろう。それは感謝の念などではない。そもそも悪い人生を「歩いていい」奴などいないからだ。全員が良い人生を歩く。そうであることが「良いこと」であるのに疑う余地はない。アニメ映画「この世界の片隅に」で、主人公は死んだ人を思い「うちはこの先ずっと笑顔の入れ物なんです」と気づくシーンがある。僕が手紙を書くのは、それと似ている。今まで出会った数々の入れ物として、これからの楽しさにつなげるための手段として、これからも書き続けるのだろう。

 

終わり。前半は仕事サボってメモ帳に書いてました。あと、今回は個人的な内容だよね。