そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

なぞなぞです。声と表情と視線、これらに共通するものはなーんだ!

この二日間やたらアクセスが伸びている。なにがあったんだ?

 

昨日から電話対応している。正直に言うが、一回で聞き取れたときが一回もない。毎回「すいません、もう一度担当部署とお名前をおねがいしてよろしいでしょうか?(接待ボイス)」とリクエストしている。だってわかんねえよ! ほんっとに電話越しの声は聞き取りにくい。ていうか着信が鳴ったら文字が出るポケベル方式で不便ないだろ。

 歌でも、やたら歌詞が聞き取りにくい奴がいる。ミスチルの櫻井が代表格だ。youthful daysのサビの出だし「胸の鐘の音を」を聞き取れた奴はいるのか? 歌詞が聞こえることはどれほど意味があるだろう。われわれがロシア語を聞いても意味のない音塊でしかないが、ロシア人には「言葉」として聞こえる。意味が分かるかで、言葉の響きも変わってくるはずだ。ネットでオーディオオタが「どんなオーディオシステムよりも英語を覚えることには及ばない」といっていたが、果たしてそうか? 意味のない音塊は、その分純粋な「響き」として聴こえるのではないか? だがこの問題は検証不能だ。聴こえる世界は聴こえない世界が分からず、逆もそうだから。練習して聴こえるようになったとしても、聴こえる世界にいる時点でもう聴こえない世界は思考不可能なのだ(できない世界は、できるようになった時点でもう思考できない。野矢茂樹の「論理空間」に対する反証である。)

それにしても、声は恐ろしい。声、表情、視線は肉体的な要素(個々の声質、顔立ち、目の形の差異)がはっきり出るから、自分でコントロールできない。だから、精神的なものを感じ取ってしまう(中でも特に志向性が強い視線に着目したラカンは本物のヘンタイだと思うぞ)。

もちろん、そこに何もあるはずがない。われわれは無理に意味を読み取る。ためしに、30秒ほど壁の「細部」を見てほしい。こつは、「壁」を見るのではなく「細部」だけ見るのだ。それも細部だけが見えるほど近づくのではなく、少し離れた上で全体ではなく微妙な凹凸といったディティールを感じるのだ。そうすると、壁が病的なものに見えるだろう。われわれは無意味を嫌う。ゆえに無意味を「不気味」と解釈し、意味化する(無意味も意味じゃん、といえそうだが違う。これは「実感」の問題だ。恐らく、僕らは無意味を概念として知っていても実感したことは「一度も」ない。この問題は現実界と繋がっている……はずである)。声、表情、視線は無意味だ。話す際に声は出てしまうし、感情によって表情をつくってしまい、誰かに目を向けたら視線は出来上がる。作為的であるときもあるが、日常的な動作に付随するものに過ぎない、逆に、だからこそより恐怖が増す。意図的に発せられた声、表情、視線。恐ろしく不自然なものだ。しかも、徹底的に無意味である。でも、だからこそ惹きつけられる。無意味な「なにがしか」に触れたくなるときがある。ちょっと話をそらすが、闘牛には牛とマタドールのほかにピカドールという役割がある。これは槍でそのままでは強すぎる牛を弱らせる役だ。マタドールのような危険はないが、下手すると死ぬ。ピカソは画家になれなければ、ピカドールになりたかったという。岡村多佳夫「ピカソの絵画」では、牛とピカドールの関係が、絵筆とキャンバスの関係と似ていないだろうかと提唱する。これは素晴らしい卓見だと断ずる。表現とは何をしても死なない。だが、下手すると取り込まれてしまう。この微妙な関係を抉り出している。僕が思うに表現で声や視線、表情が出ると面白いのは、いくら危険でも表現であるから実害はなく、しかし本当に「危ない」気がするからではないだろうか。ロックのボーカルのやりすぎで危うげな感じ。ヒッチコックの映画における暗喩的だと「思わせる」視線。優れたアクターの持つ作品のテーマを一瞬で表すような面妖な面付き。なんて魅力的なんだろうか。そこに意味なんてありはしない。そしてそれに対して文章はあまりに拙く、「寡黙」だ。でも、書かずにはいられない。あの現実から隔絶したかのような「味わい」に追いつけなくとも、考えずにはいられない。そして僕たちが現実から離れる唯一の方法があの「味わい」に身を任せ、これこそが真実だと「思い込まされる」、あのひとときなのだ。

 

END.今回も前半は仕事サボって書いてたが、いい感じな気がする!