読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

大人になりたくないのは大人だけです

友達に「俺が仕事したらどんくらい続く?」と聞いたら「3ヶ月いないでやめると思う。1週間以内も十分ありえる」と言っていたが、1週間は乗りきったぞ。少1からの付き合いだから予言に怯えながら働いてたが、なんとかなった。3ヶ月後はどうなるかな!
働き始めて思ったが、たしかに仕事中心で時間が回る。休みは洗濯しなきゃ、明日仕事だから遅くまで飲んじゃいけない、疲れたから今日はすぐ寝よ…… とか。とまあ、今までにない発想で生きている。が、だからといって僕が「仕事人間」になった感もない。本は読むし、CDも聴くからね。大学の准教授が言っていた、「書くならフリーターより社会人の方がいい。スケジュールが勝手に決められるから」は確かに正しいと思う。仕事すると1日の行動が決められるから、そこに本を読む時間とか文章を書く時間を入れ込みやすい。僕が元々本を読む人ではないとはいえ、案外読書量は変わっていない。帰宅して食事して風呂に入って読む時間を厳密に決めるからサボらなくなる。それに、バイトは間違いなく肉体労働だから体力が削られる。僕はオフィスワークだが、肉体的な疲労は確かにあまりない(その代わり精神的にはくるが)。片手間に文章を書くのもそれなりに余裕をもってでる。社会人になることを「くだらない大人になる」とか、「社会の犬になる」とか言うやつは、ただ幼稚なだけだ。別に社会にいたまま子供の心を持つことはできるだろう。それに、僕は牙を抜かれるどころか研ぎつづけている。子供のように生きることと社会性を安直に結びつけて考える奴ほど、「子供のよう」であることがどういうことか分かっていない。むしろ、社会に反発しすぎる態度は「大人」の発想だ。そもそも、子供には大人になることから「逃げよう」などと思っていない。社会から逃げ続けるものはただの「幼稚なじいさん」なのである。子供は、もっと鋭い幼さを持っている。自分の言葉を持ち、世間に服従しない独特な価値観。世界に対する無知が、新たな地平を切り開く。社会反発という手垢にまみれた概念と手法に頼っているようでは、及ぶべくもない。
立ち現れるものに既存のものを当てはめることなく感動すること。我々の持っている既成概念のなんとみすぼらしいことだろう。だから、常に個々のものにはそれぞれ違ったやり方で立ち向かう必要がある。サブカルチャーへの無理解はその典型だ。文学でないものを文学で解釈する意味がどこにある? 愚昧な停滞を露呈するだけだ。子供のように新しいものを新しい感じかたで無邪気に表現すること。それは恐ろしいことだ。大失敗の可能性が常に含まれているのだから。しかし、可能性を提供することこそが世界への「貢献」であり、自分自身が年齢に関わらず可能性を保ち続けられ、永遠に子供でいられる手段に他ならない。

終わったぞ。社内の一室で隔離して作業してるけど、終わったのでのんびりブログを書いてます。まる。