そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

感動することに感動した

3人で友達の家にいて彼らは互いにしか分からない話をしてるからブログを書こう。

 実家に帰ってきた。3週間ぶりだから久しぶりもくそもない感じたが、新鮮ではある。ちなみに家に帰ってすぐにしたことは自転車に乗ったことだ。東京には自転車がないからどうしても乗りたかった。しかし、あまりに感動的だった。なんであんなに感動したんだろうか。山形の空気か、自転車から伝わる運動の感触なのか、7時前の朝焼けの差し込み方か、そのとき聴いていたbeckの「blue moon」が素晴らしかったからか。どれもしっくり来ない。もしくはその全てか。わかるのは、どこか言語を突破していることか。言葉を越える瞬間は、誰しも感じるときがあるだろう。この瞬間はなんなのだろうか? 情動に言語的原因はなくとも、自分自身では解釈し続ける。「それっぽい」理由を仕立てあげる。意味がある世界しか、人間には生きることはできないから。でも、たまに越えられる。自分が必死に作り上げた「意味で埋め尽くされた世界」を、突き崩される瞬間がある。僕たちは、その瞬間こそを追い求めるのだ。言語によって構築された、記号と解釈の繰り返し世界。そこを突破したいと「願う」のだ。だからこそ、表現を作り、観賞し、恋愛し、視線と言葉を交わし、美しい「光景」をみたがる。なんの意味もないものによって、完璧ゆえに退屈な世界に間隙をいれたい(厨2病か?)のだ。だから、意志をなくしてはいけない。人は動き続けなければ容易に「完璧なまま」でいる。僕は、究極的に「退屈」が嫌いだ。だからなんとかしたい。

「退屈」に耐えられない性質はかなり生きにくい。いい意味で貪欲とも言えるが、他人からの目線にすぎない。「普通」なことが出来なくなるからまともではなくなってしまう。無意味であることの素晴らしさを散々語ってきたが、そうあることよりも「退屈」に耐えられる強さをもちまともに生きることが一番幸せだと僕は思う。皮肉では一切ない。「退屈」が無理なのは人として弱すぎる。人生なんて大半がつまらない。大半が無理なのはあわれなほど脆弱なのだ。大して無感動で、そこそこの家庭をもって暮らして定年まで働く人生はつまらなく見えるが、「強い」生き方でもあるのだ。つまらなくも生き抜くことが可能なのだから。思考停止して生きてる奴は「思考停止しても生きられる奴」と換言することもできる。逆に僕は行動と思考をストップしたら生きられない人間だ。そういう人の生き方は根本的に「その場しのぎ」しかできない。次の手をすぐさま打たなければすぐ「嫌気」がさす。死ぬまで燃え続けなければいけない。

 なんて意味に満ちた世界だろう。息がつまる。「嫌気」のする人間と、「嫌気」のする環境と、「嫌気」のする自分。だからこうやって書いて暴きたてようとする。組み立てられた意味世界を無意識的な情動によって「楽しもう」とする。考えなくても生きられるならそれでいい。無意味なことをし続ける人生など、つまるところ無駄だし。そこになんの意味もないから、価値判断もできない。人生が本人にしか価値がない「娯楽」に成り下がる。しかしそれが一番いい。燃え尽きるときが迫りつつも踊り狂う。なんの意義もない躍動行為。僕だけが美しさを見出だせる。完全に主観的な無意味の美しさを知るのは、音楽を聴いて朝に自転車に乗ることの素晴らしさを感じるのは、意味に溢れたものには理解すらできない。弱いものは強くなれないが、強いものは弱者の儚さを知らない。そして儚いからこそ、無意味に感動するからこそ、僕は命がなによりも尊いことを知っている。

 

しゅーりょー。いつもと文体が違うような。気のせいかね?