そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

ジョイ・ディビジョン「クローサー」と「貧しさ」

今回は珍しく個別に作品を取り上げよう。説明不要の名作、ジョイ・ディビジョンの「クローサー」についてだ。

 なんて極限的な世界だ。乾いたビートに、インダストリアルなギター、無表情なベース、あのイアン・カーティス。個々の音の鳴らしを徹底的に追求して、極北に立っている。そして、恐らく「クローサー」はロックの「ロック性」を利用している。ちょっと付き合ってもらいたい。

 表現には時間と空間の要素がある。小説は文章量と時間の厚みが作中の経過時間に関わらず比例するものであり、フォークナーの「八月の光」には空間的な要素も見られる。絵画は平面上の配置の問題があり、それなりのサイズまでなら全部観るのに時間を要しないため空間的だ。交響曲プログレッシブロックのアルバムは物語的であり展開もそれに応じたドラマチックなものとなるため時間的だ。音楽は観賞時間が固定されているためそもそもが時間的なのだが。オーケストラは立体的な音の響きを重視するため空間的になる。コンサートは空間的な要素が根本から強まる。

それに対し、ロックは空間的にも時間的にも弱い。構成がシンプルすぎて時間的な厚みはないし、アンサンブルが素直すぎて立体感もでない(ポストロックを反証にあげるかもしれないが、あれはロックというよりエレクトロと現代音楽とジャズあたりのミックスだろう。)。ロックとは「貧しい」音楽なのだ。大作を作れる理論もなければ、バンドサウンドは空間に立体的な響きをのせられるほど豊潤でもない。

クローサー」の持つ退廃的な感覚には、この「貧しさ」がリンクしている。シンプルな分空しく、響かない分閉塞的に。ロックの持つ行き場のない「貧しさ」の中でとるべき方法は一つ、個性だ。ジョイ・ディビジョンにとっての個性は音の鳴らし、つまりは音色である。「鬱屈とした音作りを、鬱屈とした音作りを、鬱屈とした音作りを」ただそれだけを念頭において「鳴らし」にこだわる。こういったサウンドはロックしかできない。なぜなら他のジャンルは「豊か」だからだ。なにもない中でただ音色だけが妖しく輝くのがロックの世界だ。いや、そこには時間も空間も存在しないから世界にもならない。ただの虚ろ。それこそがロックであり、利用したのがジョイ・ディビジョンという「貧者」なのだ。しかし、イアン・カーティスの圧倒的な「語り」はなんだろう? 訳も分からないまま、情動だけは激しく揺さぶられる。空虚はそこに精神的な要素を感じさせるのだ。情動の原因はイアン・カーティスの精神だと感じさせる。しかし、そこにあるのはただの声であり、空気の振動だ。声の「感じ」、それがロックのすごさであり、「クローサー」の本質である。鬱屈した音作りを各パートがつきつめ、イアンが「なにがしか」を「発する」。なにもありはしないのに。

 

終わり。本当にすごいアルバムだ。音楽の可能性の一端であり、一つの可能性を終わらせた作品でもある。

この作品はイアンの遺作である。みんなも自殺しよう!