そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

自分は表現である。

表現を作ることで自分が救われる人がいる。僕もそうだ。でも、なんでそうなのかはいまいち判然としない。ちょっと考えてみよう。smashing pumpkinsの「today」は出だしが「今日は最高の日、明日のことなんて信じられない」である。意を汲むと「明日に意味を見出だせないから死にたい」になる。実際作詞のビリー・コーガンは鬱々としていたらしい。だが、世間は今を肯定する曲だと捕らえた。僕もそう思ったろう。異様なパワーと美しさを持っているからだ。面白いのは、結果的にコーガンはこの曲を作ったらなぜか救われたことだ。

 もうひとつ見てみよう。懐疑主義者だ。懐疑主義とは、なんでも疑うスタンスである。究極的には、「今見ている現実は嘘かもしれない」まで行き着く。非常に絶望的な考えとも言えるが、懐疑主義者の中にははこのように「懐疑」していくことで救われるものもいるのだ。

救われるときは、一般的にはネガティブな表現の方が多い気もする。ハッピーなものでは却って効果がないようだ。この辺りは、悲しいときに明るい音楽を聴くより暗い音楽を聴く方が悲しみが薄れることと関係あるのかもしれない。いずれにせよ、自らの悲観を描くこと、もしくは誰かの悲観を体験することは対象化されるから悲しみから救われるのだろうか。なにか違う気もする。表現とは、操作である。伝えることのできない自分の気持ちを、表現のシステム(音色、色彩、構図、文体といった表現各々の持つ特性、性質)を通すと、なぜか鑑賞者は言葉によって気持ちを説明よりも遥かに気持ちが「分かる」。ただ、分かるのは勘違いではある。表現によって作者の考えが鑑賞者にダイレクトに伝わるはずがない。表現のシステムは複雑過ぎるし、理論化が進んだとはいえ解明できているとは全く言えない。伝わるはずはないのだ。だが感じるのだ。そこに理屈はない。そして、自分にとって素晴らしい表現は神の啓示と等しい力を持つ。表現から作者の考えは読み取れないのに。それはなぜ? 恐らくは、違う形で作者が「露出」しているのではないだろうか。表現を通して作者の考えはねじ曲がる。同時に、作者にも創作とは制御不能だ。そこから「なにか」を作者自身も読み取る。創作行為とは、自分の「なにか」と向き合いながらひたすら自己とやりとりしてくのだ。そのときの作業は言語を(文章創作であっても)超えている。意識的な思考の範疇を超え、表現のヴェール越しにいる自分を見続けるのだ。

 しかし、「today」の美しさはほんとに信じがたい。コーガンはなぜ救われたのか。それは、表現と自分がどこかで近しいのだと思う。コーガンの場合音楽に、つまりはメロディやリズムなどの音楽的要素を考えることが、自分を考えることにつながっている。この場合の自分を考えるとは、先ほど言ったように非言語的な思考だ。だから傑作とは無意味で、非言語的な体験をさせてくれる。表現の快楽とは言葉のない世界につれていってくれる「最高の旅」に他ならない。ほんの一時、言語という当たり前過ぎて感じることすらない、つまらない現実認識を取っ払った「ときめき」に出会える体験装置。言語や社会の決めごとから放たれた、無垢な草原のような領域。そこでしか出会えない自分がいるのであり、他人もいたりして、少しずつ自分の「どうしようもなさ」を解消していく。

よく分からない自ら。人によって様々な言い方があるだろう。不幸、不満足、拘束、なにかが足りない、悲しみ、漠然とした不安、下らない世の中、最高の人生……打ち消す方法も様々だろう。救い、依存、嫉妬、創作、破壊行為、自傷、自己拘束、神経症による疾病利得、泣くこと、すがること、死に絶えること……

表現は、僕たちの無意識を代弁する。衝動を言い表す。なぜそうなのだろう。それは、「美しい」からなのだ。あの激しさ、優しさ、愛しさが美しい。克明に引かれた線と色が、言葉からこぼれ落ちる言葉の思いが、常世から遠く離れた打鍵からなる響きが、美しくてたまらない。そこに思いはない。だが、あの美しさに「宿っていないはずがない」。だから、傑作とは生の力なのだ。ジャン・コクトーは「傑作とは、死に打ち克つことである」と言った。正しい。どれほど暗澹とした作品だろうと、傑作は僕たちを生きさせる。あの「美しさ」を前にして、死のうと思う訳がないから。素晴らしい表現は、いつでも味方であり続けるのだから。

 

終わり。そろそろ長い文章かかないとなー。