そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

僕は正しいことをしているんです!

 良いものとはなんだろう。誰にとって良いものだろう。なぜ良いものなのだろう。なんで良いものなんだろう。それは客観的に良いのか、主観的なのか。

 今回考えることである。一体、良いこととは、良いものとはなんなのか。幸福な状態にさせてくれるものなのだろうか。今回のきっかけは、友達とマックに行ったとき(行き過ぎな気がするがまあいい)である。友達はこう言っている。「美味しいものを食べるのは幸福である」と。僕はそうでもないと言うと、これは真理なのだといった。あまりにしょうもない導入であるが、ここから始めてみよう。美味しいものは幸福をもたらすか。もちろん、真理なのだから誰にでも。いやそんなはずはないだろう。実際僕の兄は食べ物はコスパと栄養価でしか考えていないと断言している。と結論づけるのは可能だが、そもそも彼は何を持って真理と言っているのだろうか。その後彼の言動をみる限り、みんなそうだから真理なのではないのだ。彼にとってはみんなが「そうあるべき」だから真理なのだ。そんな真理はあるのであろうか。たしかに、正しさとは、良いとは何か分からない。正しさのために人には変わる必要性はあるのか、それとも今正しいと思うことが正しいのだからそのままでいいのか。人はそこで延々と迷うはめになる。自分をどのように変えるのか。どういうときに変えるのか。

 僕が興味深いのは、真理なんて言葉を使って主張する意味だ。なぜ、真理だと思い、真理だと確信したのか。僕だったら使わないだろう。なぜなら、自分が正しいとは思えないし、それ以上にそこまで人に対して「そうあるべき」と思えない。ていうかなぜ思うんだろうか。「そうあるべき」と思うのが傲慢だからではない(個人的には傲慢は限定付きで肯定される)。僕からしたら、そんなにしてまで人を変えたいと思えないからだ。僕はその辺が変わっていて、自分以外のことしか考えないがその考えを洗練させていくだけで他者には向かない。だから、逆なのかもしれない。自分のことを考えるが故に、他者に向かって行くのが、人間というものなのだろう。精神の構造よりも、自分の物の見え方の方に注意がいくから、疑いがない。これは悪い意味で言っているのではない。主観的な知覚や感覚もまた、非常に重要である。ただ、人と人の関わりの中ではデメリットになりうる。自分と他人の感じ方は違うからだ。

 僕の大学の先生が「今書いてる批評で言いたいことは『小説にもいろいろある』ってことだね」と言っていたが、本質的である。一面的な評価で表現は語れない。そしてこれは人間にも当てはまる。本来人の関わりの中でしっておくべきことはたった一つだ。「人にもいろいろいる」ということだけなのだ。人間の持つ究極の相対性はそこからなる。好きな音楽も、食べ物への態度も、食器の趣味も、全部違う。同じと思うことがあったとしても、全くの同一ではない。結局、「そうあるべきこと」とは、「自分には世界がこう見える」ということに過ぎない。僕にとって食べ物は幸せも大きな感動ももたらさない。そういう見え方なのだ。そして、それが変わったりしないだろうし、困ってもいない。

 正しさは本来存在しない。ただ自分の感覚の中ではそう思わざるをえない。「そうあるべき」ことも、存在はしない。ただ他人を変えたいとき、関わりたいときに創出される。そのように思えるのは少しうらやましい。なぜなら、自分と同じように他人も感じているだろうと思えているのだから。自分とと他の人は違うことをわかってるし、「実感」してるから(中二病かよ)、どうしても正しさを標榜して生きられない。いわば賤民なのだ。友人は「美味しいものを食べることは幸福だ」と言っていた。正しさとは、あるべきこととは須く幸福のためにある。正しいことこそ、自分の中の幸福要件なのだから。そう考えると、腑に落ちるものがある。正しさを「そうあるべき」と考えるのは、自分の幸福要件を他者と共有し分かち合いたいのだ。傲慢だが他己的だ。でも前提である正しさ自体が幻なのだ。だから苦しむ。ときには怒り、嘆き、自他を線引きする境界線を眺めながら今日も明日も生きていく。