そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

気まぐれの果て、僕が立っている(リアルに感じるときはいつも、僕は他人に唾することができる) 

 うーん、最近よくわからん。なんかもやもやした感じがするのだ。怠け気味だが何もしていないほどではなく、かといっていつもよりは冴えていない、微妙な感じだ。たんに疲れているのもあるだろうが。なんとなく今の底流にあるのは、「途方もなさ」な気がする。途方もなくなったのは社会人になったからだ。

 学生の頃は常にポイントがあった。一年になり、二年になり、最終学年になり、卒業していく。入学した瞬間に、数年で出て行くことが約束されるのだ。学生ではなくなると、そういった段階はなくなる。果てもないその後だ。「俺はこのまま仕事を続けて年取って死んでいくのか」的な、脱サラしそうな人の発想とは違う(実際にこんな人いるのだろうか?)。純粋に区切りがないことに圧倒されているのだ。こんなこと言うと目が血走っている奴からキャリアプランとかライフプランを作ることを提案されそうだが、そんな問題ではないのだ。40まで〇〇をする、みたいなのはポイントとは言わない。区切るとなりうるのは、目標ではありえない。常に一つの「終わり」でなければありえない。ひた走る小学校の終わり。自問する中学校の終わり、うつむき歩く高校の終わり、一夜のお祭りのような、大学の終わり。この際の目標と終わりの違いは、始点と終点を自分で決めているか否かだ。目標は、自分で設定して自分で閾値を決定する以上任意に「終わらせる」こともできてしまう。区切りとは、自分で終わらせられないから区切り足りえるのだ。卒業は決まっている。留年はあるが、留年の基準は自分のものではない上、自主的に留年するのはそもそも区切りを大事にしない人の発想だから除外される。ていうか留年するな。ずるいぞ。

 この、二十中盤の僕は、どこに次のポイントがあるだろう。曲がり角は目視できているのだろうか? 高校の場合は、一年経ったら三分の一だ。今僕が一年経ったら、分子と分母はいくらだろう? 次の「終わり」はいつくるのだろうか? 僕が今問題にしているのはもちろん自分の将来についてではない。この先がどうなるかわからないから不安なのではない。この先を「区切れない」から途方にくれているのだ。別にこの先どうなたっていい。嫌なのは、先が「どれくらい」なのか計れないからやりようがないのだ。今をひたすら楽しめばいいと、ポジティブな人は言うだろう。しかし、僕はいつだって現在志向だ。だからなのだ。僕は現在を楽しみたいから、続けすぎたくない。余分な荷物を持ちたくない。時が経ったら、色んなものを捨てていきたいのだ。年を取るのは怖いが、それは必然だ。ほんとに嫌なのは、持ちすぎてしまうことだ。そして一番恐れているのが、もう捨てられなくなってしまうことだ。「友達だから」という言葉はなんて空虚だろう。「友達」とは、自分にとっての他者の「所属」に過ぎない。友達だから大事にするんじゃないだろう。そいつが魅力的だから、他にはない煌きを有しているから、一緒に遊びたいと思えるのだろう。僕が嫌うのは、「関係のための関係」なのだ。人間はそのような傾向にある。最初魅力的に見えて、今魅力を失っても「友達だから」で済ませるときがある。代替不能な魅力を、一般名詞的な所属へと貶める。コミュニティの罪悪とはそこにある。所属しているから、などと思わせてしまう。人間はもっと突き詰めていいのではないか。ずるずるとつまらない付き合いをするよりも、自分の楽しさを考えていく必要があるのでは? 僕は、だから捨てられるときには捨てられるようになりたいのだ。それが、自分を大事にするとということの本義なのだから。

 もやもやは晴れない。でも、書いたら少しは分かった気がする。なにかに所属するとは、歴史化していくということだ。コミュニティの歴史と自分の歴史が連動していくということ。それは、自分と時間が同期していくということだ。しかし、所属していかないと歴史はなくなる。ただ捨てていき、先にはなにもない。どこにもいないから、時間と切り離されていく。「あの頃」を共有することがなくなる。だったら僕は、まだ捨てられるようだ。前の記事で僕は自分を「賎民」と称したが、僕は本質的に貧しいのだ。時間の中で生きることも、所属の中で生きることも嫌う。現在への過集中は、なにもかもを失うのだ。そこにあるのは感覚だけだ。知覚していることと、それに動かされる自分の情緒、ただそれのみ。過去の厚みも、未来の豊かさもない。だがそこには「閃き」がある。一瞬間の中で、全てを忘れるのだ。だとしても現実には時間がある。一瞬間にあとには、「途方もないほどの途方もなさ」が待ち構えている。極貧もいいところである。しかし美しいものは常に瞬間に宿る。例え永遠があるとするなら、それは正に、鮮烈なほんの一時にしかない。