そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

首を後ろに向けたとしても

 いい感傷性とはなんだろう。何回も何回も書いて考えたが、やっぱり最初の「幼稚なナルシシズム」が一番正確な気がする。こう書くと物凄い悪口に聞こえるが、僕からすれば最大限の賛美なのである。ナルシシズムとは、極限まで自意識過剰になることだ。自意識に向けすぎて、最終的に訳分からなくなっているところに感傷性の素晴らしさはある。例えば声。自分の声は客観的に認知できない、全く主観的なものだ。そのため、意識的に歌うとかえってつまらない。その際に、ナルシスティックに歌うこと、つまりはどこまでも自分の声に「酔いしれる」ことが(実際は知覚できてすらいないのに!)最も感動的な「歌唱法」足りえる。ビリーコーガンの声を聴いたことがあるだろうか? あんなに「あまあまでクサい」歌い方は無二だ。だがボーカルスタイルを突き詰めるメソッドとして、あれほど有効なものはない。それに、感傷性とはすべからく「あまあま」なのだ(最高級の誉め言葉)。僕がレディオヘッドの後期がそこまで好きになれないのは、段々演奏とトムヨークの声がちゃんとしてくるからだ。ザ・ベンズの、「お前ら自分が何してるのかわかってんのか」と言いたくなる程の自己陶酔が、この上ない美しさへと昇華するあの様が僕は気に入っているのだ。

文学及び(ストーリーのある表現全般)でも、感傷性は良いものだ。自己陶酔、自己性愛は、自己嫌悪の裏返しである。感傷とは、どこか過去を振り返るっている感覚がある。今起きている事柄ではなく、終わったものに対する郷愁に似た感情。セリーヌ「夜の果てへの旅」において、あのラストの途方もないエモーションに、どう説明をつければいいだろう。主人公フェルディナンの、ナルシスティックに過去に憧れつつ、とぼとぼ歩く様。ここには自分への嫌悪感と陶酔が一体となり、過去を見つめる無力な一個人の存在が鮮烈に描かれる。嫌悪と陶酔、どうしようもない現在と、どうすることもできない過去。文学の本質である両義性と矛盾を描出するのが感傷性なのだ。

 だから、悪い感傷性とは意識的であることに他ならない。ナルシシズムに「幼稚な」と付けたのは、自己に向かう自分とはいつだって幼稚だからだ。そりゃそうだろう。自分のことなんてくどくど考えてもなにも解決しないから無駄だ。中学生かよ。しかし表現において「くどくど考える可哀想なあたし」は、とても魅力的に映る。ただ、その条件は「感傷性の本性たる幼稚さが顔を出すまで徹底的に酔いしれる」必要がある。サブカル系の「ちょっと人と変わった僕の日常」みたいな作品がしょうもないのは、感傷的なのがうざいからではなく、その逆だ。「お高く止まっている」からである。本当の感傷はもっともっと安っぽくて甘ったるくてナルシーだ(ほめてるよ!)。だから、「恥ずかしいことを恥ずかしいと思うことが一番恥ずかしい」というのが僕の持論だ。ロックを見てみろ。なんてダサくてあまあまでこっぱずかしくてキメキメなんだ! しかしそうであるからこと、表現の本質をつく。ロックスターは「僕そのもの」と思わせるだけの魔力を持つ。そして、僕も恥を忍んで「恥ずかしく」文章を書く。キメキメのフレーズを入れていく。その恥ずかしい言葉遣いを使うことこそが表現として良いものになると信じ、誰かの胸を打つのだと確信しているのだ。

 

終わり、なんか第一部と全く変わらない気がするぞ。