そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

怒りの広島第一章(続かない)

※注意! いつもより文章が乱れています!

考えないで書いたせいです!

 

俺は怒っている。様々な要因が考えられようが、自分に才能のないことにまず怒っている。今日クラブMCをしている友人のプレイを観に行ったが、渋谷のかなりでかい箱のメインフロアで堂々とプレイしていた。彼のMC歴など一年半かそこらなものだが、なんつー才能かと思った。それだけでなく、最近友人と話していると俺が3年以上考えて辿り着いた理論をパッと出していたりした。一体なんなんだこの才気は。2年くらいで作家になった奴もいるし、昨日唐突に名曲を送ってきた奴もいるし、なぜこうも逸材がいるのだ。いやしかし原因は分かっている。要は俺の努力が足りなかったというだけであろう。もっと頑張っていれば、もう少し追い縋ることも出来たのは否定しようがない。とはいえそこまで頑張ってどうするんだ。なんか起きるのか。ハッピーエンドが確約されるとでも言うのか。なぜああも皆頑張れるんだ。分からん。(「この世界の片隅に」の浦野すずの名台詞「わからん、わからん、さっぱりわからん! 帰る! 広島に帰る!」が思い起こされる。最近の俺の心情をこの上なく言い表していると思うのだが、広島は関係ない)いや、ニヒルになりたい訳じゃないし、出来ないことの言い訳をしたい訳じゃない。先程の引用を踏まえて言うなら「広島に帰っていいのかすらわからない」のだ。ていうかなにすればいいんだ。本読めばいいのか。文章を書けばいいのか。踊ればいいのか。今までの俺の論に従うなら「やりたいことをする」に尽きるが、やりたいことってなんだ(こんな感じのことを言うと自分が凡人になれたようで気持ちがいいが、それについて変に考察をするから凡人の地位は崩れさる。「こんな人間じゃなかったら、どんな人間になればいいんだ」というニルヴァーナの名曲「オール・アポロジーズ」の一節が浮かぶが)。そうだよ! これを読んでる人がいたらなにをしてるか教えて欲しい。動機も附記して! でも動機なんて考えてるから駄目なんだろう。結果=原因が対象aであるのだから。行動と理由は常に循環論法的なのだ。なにしたらいいか分からないから、いっそ行くとこまで行ってしまいたい気もする。自活出来ないほど狂気に身を振るか、死ぬほど努力するか、とてつもなく普通になるか! このいづれかになれれば文句はない。そうだ、僕の不満はここにある。行けるとこまで行っちゃえばいいのに、行けないのだ(それが人生の本質であるのは言うまでもない。だがここまで中途半端なこともそうないだろう。シェイクスピアジュリアス・シーザーの壮烈な台詞「人生は下手な役者だ。所在なさげに舞台と袖を行ったり来たり」は何て正しいんだ!)いや行ったら行ったで苦労もするんだろう。というかこの中途半端な感覚は自分でなくても感じているのだろう。(結局そうやって人の心理は普遍化され、一般化される。一体構造となんなのだろう。心はどこまで行っても個別ではないのか?ならなぜうつ病神経症のように、名によってカテゴライズされていくのか? 共通項がないものも、相違点がないものもない。同じように見えるのも、違うように見えるのも所詮は操作による錯覚だ。僕とマリリン・モンローは人間という点では同じ存在といえよう。だから同じだと言うこともできてしまう。そんな馬鹿な、と思うかもしれないがレトリックとはそういうものなのであり、小説のメカニズムもここに依拠しているのだろう。ピカソ箴言「表現は真実を暴きたてる嘘」は、本質そのものだ)、ただ程度の問題はあるのだと思う。だから僕が言いたいのはパラメータ「存在の不確かさ」が極めて高い数値を叩き出しているのではなかろうか、ということだ(「彼は○○な人である」なんてありえない。あてはまるのが「優しい人」だとしても、属性「優しさ」がなんなのか説明して見せて欲しい。「優しい人」間に共通項なんてないのだ。ただ諸条件によってパラメータ「優しさ」が上昇して評価者の価値観によって「優しい人(っぽい人)になるだけだ」)。ただ、だから優しくしてくれって訳ではない。最終的には、僕は怒っているのだ。結局最初に行き着いてしまった! 言いたいことというのは常に通り過ぎるものでしかありえないということなのか。まあいい、とにかくむしゃくしゃするということだ(そうなると、僕の主張したいことは最初の一行で全て完結してしまう。だが、小説とは常にそういうものじゃなかろうか。あらすじも、テーマも本当は一行ですませられる。いや、そうじゃないだろう。その一行で済むわけがないだろう。もっと言葉にできぬ思いがあり、試したい文学的手法があるだのだから。ゆえに無限に遠回りする。ひたすらに迂遠な手法。だがそこには言語化不可能な情緒が、声にならぬ声が宿る。そしてそこから解釈が生まれる。名作とは、言語を操作することで言語化不可能な感情を読者に供与し、底抜けに多様な解釈と永続的な喜びをもたらす。それは間違いなく、文章にしか出来ない仕事だ)そう、むしゃくしゃする。そしてなにも片付かない、文章なんて役に立たない。だから、広島に帰ろう!

 

終わり、こんなんだから駄目なんだよ! なんでこうなったんだ!