そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

怒りの広島第二章(広島への風評被害が深刻)

やはり、俺は怒っている。

鬱憤なのだ。憤懣は尽きねども、発散する場がない(そういいつつ文章を書いている。なら文章に怒りをぶつけているわけになるから、言語化した瞬間に矛盾化するのだ)。この前は分からないだったが、今は「くだらない」だ。俺の本質は、やはり「くだらなさ」にあると自分で思う。ポテチとジュースの新商品を買い求める、幼稚なくだらなさ。全てくだらないと吐き捨てる反抗的態度。事物は全て下らないと断ずるニヒリズム。くだらなさに美しさを見いだそうとする批評的な姿勢。そうだ、「くだらなさ」こそ俺を通底するものであり、同時に俺自身と響き合うものなのだ。だから言いたいのだ。くだらないと。なにもかも、森羅万象ありとあらゆる全ての事柄、物質に「くだらない」と言い捨ててしまいたい。「より良い人生を生きる」だとか、「強い人間になる」だとか、そういう模範的な態度はくだばってしまっていい。どこまで努力しようと、人生などくだらないし、人間などくだらないし、お前自身もしょうもないのだ。その癖に必死に頑張る意味なんてどこにあるんだ。虚無を打ち消すためのごまかしのような行為をいつまで続けるつもりなのか。スタバでマックブックを使うと虚無が消えるなら、今すぐやろう。

 努力なんてなんでするんだ。頑張っている奴が偉いなんて論理は誰が作ったんだ。死ね。全てがくだらないことには美点がある。頑張らなくていいことだ。何一つそこではくだらない。全ての評価がくだらないになる。通知表に書いてある国語も数学も社会も「評価:くだらない」がつく世界で本来はあるべきだ。俺はそうであるべきだと思うのだ。なぜ努力を義務化する。いや、義務的に努力しているわけではなくても、そもそも「自分をよりよくしたい」なんて発想がなんで出てくる。自分をよりよくすることが自分をよりよくするのか。違うだろう。どこまで言ってもやはりくだらないのだ。そこには「多少はマシ」みたいな修辞は存在しない。どこまで言っても「くだらない」という形容詞一つで完結する世界がこの世だ。君がいる現実だ。何度でも言うが、「人生は下手な役者」だ。へたくそなのだ。それなのに人は理想像をたてる。「幸せになりたい」なんてのもどうでもいい。そんなものに束縛されているようではまやかしの中でイエスを崇めるのと変わらない。なぜなにかを求めるのかということだ。今よりましななにかいいやり方があったりしない。(オーガユーアスホール「もしあったなら」はそう思わせる力のある名曲だ)言いたいことはそれだ。もっとくだらなさに気づけ! 「何をしても何も起きない」のだ! 感覚の中では確かに違う。自分の中ではそう思えないものだ。だったら理想像など立てるな。好き勝手に生きてみせろ。人間は色々なものを背負い込むが、結局は何も「持てない」のだから。いつだって荷物はないのだし、錯覚を解くだけで十分だ。生きるくだらなさとは、あまりに貧相だが同時に軽快だ。だからおれはなにもしたくないし、同時に常に怒っている。くだらないのに、それっぽい内実を持とうとすることに。充実とは虚飾だ。豊かとは肉襦袢なのだ。人生など遺骸に過ぎない。この文章も推敲したりしない。別にいい作品を書こうなどと思ってもいない、思ったことをなんの思慮も介入させずに書くだけだ。それでいい。

 

 

 

終わり。終わりだ!これを書いている間「アビーロード」のB面を聴いていたことを付記しておこう。