そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

若いころは馬鹿してたんなら、今も馬鹿しろよ!

 帰省してきた。今回はなぜか夏休みのときと比べてひどく懐かしく感じた。単純に時間が空いていたのもあるが、冬なのもあったように思う(東京から山形に着いた瞬間雪が積もっていたのは分かっていても心を動かされた)。それもあってか、山形で印象に残っていた場所を撮影してtwitterにアップしたりしていた。それで、友人ともそれなりに会ってきた。会うたびに全員少しずつ変わっていて、中学の友達になると「結婚したい?」的な話も出てきて、さあ人生も一旦落ち着き時だ! 感はある(僕は別に変わっていないのだけれども) そうだ、僕は今25歳だ。確かにそろそろプランを練ってもいいのかもしれない。これまで生きてきて、プランを練ることなんてなかった。刹那的で、瞬間の切れ目の中にいて、余裕がなかった。今となっては「処世」を少しは知っている。そして、刹那に生きるのも大抵の人には限度があるのだろう。よほど捨て身でない限りは地に足をつけたいのだ。落下地点を探さねば。

 帰省して会った友達からは、「いっそ仕事を頑張って小説を捨てようと思う」と言われた。僕は否定する気は全くない。物書きは、物書きである以前に人間だ。人間に執筆の義務はないのだから。この友人含め、みんな生きていた。今回の帰省では、それぞれの生き方がとても目に付いた。それぞれがそれぞれの生き方を選択している。家族も含め、適当な奴もいれば信念に基づくものもいたし、飄々としている者もいれば悩み続けている奴もいた。僕は彼らの人生に上下をつける気はない(面白さに上下はあるけどね)。ただ、その中でも「将来への担保」の程度はそれなりにある。仕事をしているか、安定して付き合い続けている異性がいるか、精神や肉体に問題を抱えてはいないか。これは良し悪しではない。それでも、安定しているやつの方が不安度は少ないし、あまり病んでることもなかった。そう考えていてふと思ったのだが、若さってのは所詮「落ち着き」への準備段階に過ぎないのではなかろうか。反抗的な思春期を経ることで社会性を獲得するように、刹那的な若さに身を埋没することが将来的な安定への気づきになる、ということだ。流石に統計的なデータは取っていないが、昔から暗くて50過ぎても独身と言う男と、遊び人だがふらふらしていたら50過ぎていた、では前者の方が多いんじゃね? ってことだ。

 以前邦楽のインディーシーンについて書いた本を立ち読みしたが、「アイドルやロックは常に若さを前面に押し出すことが共通している」とあった。でも、みんな大人になるのだ。バンドマンの女は、公務員と結婚するのだ。プロアマ問わず一部の人間だけが、いくつになっても若さを追い求める(しかし求めても大半は「過去の若さのパロディ」になるのは何たる皮肉か)。いつまでも若くいたい人なんてそうはいない。その場限りのアクションも、乱痴気騒ぎも、将来の安心へ吸い込まれていく…… そんな構図だ。「昔は馬鹿なことやってたよ」って言う人は、昔が煌いてるのと同時に、反省の材料なのだ。そして、昔の馬鹿を何年経っても忘年会で話したりする。ある種の安定的な話題として。非常に否定的なニュアンスに聴こえるが、繰り返すけど僕は否定する気はない。今回の記事で狙いとしてあるのは、若さへの疑義だ。なんつーか、若さって様々な言い方はされども良いこととして捕らえる人が多いし、若いときの無茶を自慢する人が多いけど、それって安定への準備段階に過ぎないでしょ? ってことを言いたいのだ。僕が破壊したいのは、過去の馬鹿騒ぎを宝物にする態度だ。お前が若かったその瞬間は、今の安定を得るための行動に過ぎない。もちろん昔楽しんでいた瞬間は素晴らしいが、振返って思えば安定するための助走行為、姿勢制御に過ぎなかったな。そのことは年取って勢いを失ってもスタイルを変えないロッカーにも言えるし、もう訳が分からなくなってしまったのにだらだら続けるシリーズものにも言えるのかも知れない。

 だから、僕は感傷的な気分になる。感傷にしては珍しく、自分自身ではなく他者を見て、僕はエモーションを得ている。学年が下の友達もいないから、みんなもう学生ではなくなった。仕事をやめて鬱々としていたり、自己に悩んだり、結婚したかったり、絶望したり、まだまだ創作を続けていたり、嫌気がさしていたり、仕事に四苦八苦したり、生きていたり! そろそろ落ち着き時だ。「若さ」の幕は降り、引き続き「家庭」が始まる。僕がやたら変わらないと言われているのは、多分悩んでいないからだろう。安定していようがいていまいが、みんな悩んでいる。僕はそれに比べてあまりに無邪気だ。だからこそみんなを見て感傷的になる。今後のおよそ六十年ほどに、人生の途方もなさに対して、計画を立てるのか欝になるのかはともかく悩んでいる。将来がどうでもいいとは全く思わない。「若さの時代」が良かったとも思わない。ここまで来ると理屈でもないのだが、僕はみんなにもっと「我を忘れて欲しい」と思っているのかもしれない。若さ故のエゴでもなく、自分の人生計画をただ眺めているのでもなく、他者について考えるということ。「ダンス」を踊るということ。もう一つは、単純に忘我するまで楽しんで欲しいということ。ああ、やっと結論が分かった。それなのだ。自分は差し置いて、もっと他者を見て欲しい。恥も外聞も問わず好きなことをして欲しい。生きている「この現実」を、たまには忘れて欲しい。そのことが、なんでそれが必要なのか、大事なことであるのか僕の言語感覚で言うなら、自分と他者への「慈しみ」がそこにあるからだ。

 

おーわり。いつもより前向きじゃない? うつ病でいるのも飽きた品。