そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

第二章は迷走していましたね

 このブログでは日頃思っていることを綴っている。最近は頑張ることの否定が主なテーマだった。たしかに、頑張ることにはなんの意味もない。でも最近、頑張ってみようかとも思った。一昨日の記事を書いたときそれをふと思ったのと、友人の言葉がきっかけだった。「お前は一回心理カウンセラーの勉強をしてみるといいかもしれない。そうすれば自分と否応なしに対峙するから、少しは空虚さがなくなって意味が分かるかも」みたいなことを言われた。確かに面白い案だ。そのときは曖昧な返事を返したが、今ならはっきり答えられる。俺からしたら自分を見るのはしょうもないことにしか思えない。そんなことになんの面白さも感じられないし、そもそも意味がわかって欲しくもない。何一つくだらない。だから、僕は出来る限りやってみようと思う。今回気付けたのはそれだ。友人のアドバイスのおかげで、ようやく自分を捨てられたのだ。空虚は確かにある。だが全てに意味がなくなったりはしない。表現を作るとき、鑑賞するときに非言語的な、ある種の宗教的な酩酊感を感じる瞬間に取りつかれているのは否定しようがないから。僕はオタクなのだ。特定の対象にしか興味を抱けないし、そこに有無を言わず引き寄せられる。それは意味を持たなくとも、好きでなくとも、良いことでなくとも関係ない。もっと「暴力的」だ。ただ僕は感覚を言語化する癖があるからそうなるだけだ。つまり、全てが空虚とは完全な客観であるように見えて、そのことを証明すること自体が完全な主観なのだ。そこに気づけていなかった。だからこそ安心して僕は自分を捨てられる。なぜなら外部に考えることが、理論を編み出すことこそが僕にとっての「主観性の表現」であるから。客観性を重視することが、同時に主体の個性を表現する。虚空が広がっていても、それは「心を動かす、非言語で作られた美しい虚空」であるのだ。あまりに盲点だ。全てはやはり空虚だ。ただ、僕にとって空虚は美しかったのだ。

 そして、つくづく自分らしいと思う。友人の言葉に従うのではなく、反抗することで気づけたからだ。昔から反抗的な人間だった。ほめられても何も感じないが、貶されたときは無性にやる気が出る。誹謗されたわけではないが、僕からしたら自分を見つめるなんて否定されているのと同じだ。この場を借りて彼に感謝しておきたい、結局空虚の空虚さを考えることは自己への言及であり、たいした意味を持つわけではなかった。ただ、空虚が美しいことに気づけば良かっただけだ。そこに対して大きなヒントになった。僕はもう少しやってみようと思う。頑張ることに意味はない。価値もない。いいことなのかも分からない。ただ、僕は思考がスパークした果てにある「美しい風景」を見たいだけだ。美しさを感じることは言語的体験ではない。だから、そこには意味も価値も疑義を差し挟む余地がない。ただ美しいものが、言語的なフォルムを持たずに僕に本質をもたらす。非常に宗教的な言い回しになっているが、つまるところ人間の原動力とはそういうところに見出されるのではないだろうか。人間は理屈で動けない。意識は常にセーブをかけるから。最後にあるのは非言語と無意識だ。原始的な衝動性こそが人を動かす。だがそこに至るのに必要なのは批評性なのだ。分析的な態度が無意識と出会うとき、美しい響きが生まれる。言葉を失うためには言葉を得る必要がある。非言語的体験の素晴らしさは、言語があることで生まれる。忘れてはならないことだ。

 ここらで二章は幕を閉じる。迷走している章だったが、無意義ではない(ロック批評家の中山康樹だったら、「ジョージ・ハリスンインド音楽時代」と評するだろうか)。三章は……未定だ! 特になにをやるべくでもない。まあ、いずれ発想は出るだろう。ゆっくりしていよう。僕は行為しかできない。閃きは、僕の領分ではない。そういうときは、表現がいつか僕に教えてくれるのだろう。何の意味も有さない表現だけが。

 

二章終了。お疲れ様!