そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

徳川家康の作ったオムライスはどんな味?

 ネタがない。ネタがないのだ。

 これは一大事だ。ネタがなくては文章が書けない。頑張ろうといった手前、文章を書く機会を増やそうと思ったわけなのだが、ネタがなくては書くことも出来ない。小説も、批評も、途中で止まっていて暗中模索だ。そのため、ブログを書こうと思ったのだがネタがないのだ。これは一大事だ。書こうと思ったのに書けないとは悲劇ではないか。頑張ろうと思っていても頑張れないとは、あんまりではないか。神は惰眠を貪っているのか。それとも僕の無意識が怠けているのか。その両方か。

 ともかく、これは表現における悩みの一つであろう。アイデアがなければ、そもそも努力を行うことすら覚束ない。いや、写本とかあるのかもしれないがあんなこと僕はしたくない。ところで、ここまで読んでこのブログ第一回の記事を思い出した人がいたら鋭いと思うと同時に、こんなブログを熱心に読んで欲しくない気持ちが僕の中に同時に生まれる。第一回は「出だしを書けないこと」がネタだった。出だしを書けないことを出だしにしていたのだ。今回はネタがないのをネタにしようとしているが、「出だし書けない出だしネタ」はそもそも「出だし」という特定の状況に起因しているから、メタの要素が生まれる。それに比べ「ネタがないネタ」は単にネタがないという一般的事実と凡庸な状況にしか頼れないから、対して面白くない。ハムスターが風車を走り続けているイメージだ。空回り! つまりは文脈の問題だ。永遠のテーマである。内容と文脈、どっちが大事か。コーヒーを注ぐ。それが朝何気なく一人で注ぐのと、恋人がゆっくりしたいあなたのために注ぐのでは、完成したコーヒーが同一でも大きく意味は違う(違わないのに!)。僕の考えでは、日常会話では内容は文脈に劣る。内実よりも装飾の方が重要なのだ。きれいに着飾るほうが内面を磨くより人を惹きつけるように、確実な内容より大きく見栄を切った派手な弁論の方が魅力的に写るように、嫌いな人が作ったオムライスと、好きな人が作ったオムライスでは、見た目も味も浮かぶ気持ちも「なにもかも」違うように。装飾は重要だ。変に内容ばかり求める人を良く見るが、そういう人は頭が良くても頭でっかちすぎる印象がある。そもそも、内容=真実ではないのだし。だから、あなたはなにを言っても「あなた」の文脈から逃れられない。全部「あなた」が言うのだ。どんな発言も捻じ曲がる。真逆の解釈すら平気で起こる。僕は自他共に認める適当人間なのだが、僕が「俺は適当」というのとまじめな人が言うのでは当然感じられる意味は異なる。当たり前の事実だが、文脈が読めない自閉症スペクトラムの人はゆえに苦しむ。それは言い換えれば、少なくとも実際的なコミュニケーションの世界では「何も分からない」のと全く変わらない。日常的な会話はほぼ全てが文脈的なのだから。状況に依存した、ある種素朴な言葉だ。逆に言えば定型発達は文脈に依存しすぎともいえる。数学者にアスペルガー症候群が多いのはよく指摘されるが、それは文脈に依存しない分論理的、僕の言語感覚では「ゲーム的」なのだ。定型発達は文脈に依存する分論理的ではなくなるのだ。

 そう考えると少し面白い。よく言われるが、自閉症スペクトラムが変人扱いされる理由は「少数派だから」に過ぎない。むしろ、生き方が破綻してるのは定型発達だともいえる。信条もルールも持たず、支離滅裂。言ってることは人によって全く違う。場になじんでいるようで、なにも理解できていない。とも言えてしまうのだ。とはいえ、定型発達者の方がこの世に多い理由も分かる。非定型発達者は、自分と同じ非定型発達でも意見が違うと蛇蝎の如く嫌う。定型発達は同じ定型発達なら嫌いでも必要最低限は付き合う。それはそれで辛いのだが。共同体を作る際はやはり定型発達の方が向くのは確かだろう。「空気を読んで」調和できるのだから。ルールか雰囲気か。内容か文脈か。ここにおいては定型発達も柔軟性がない。彼らは内容が分からないのだ。文脈にしか目が行かない。たまに法律を頑なに守るクソマジメなやつがいるが、定型発達者はその傾向が薄い。友人間で「そういう雰囲気」なら破る。狭いコミュニティが優先されるのだ。一方、非定型発達者は「ルールはルール」である。友人にそそのかされても法律を破ったりしない人が多いだろう。まあ法律がその人にとって「ルールなのか」にもよるが、もっと大きいものを志向する。こうなると、規模の大小もあるよう気がしてくる。非定型発達は「世界法則」を求めるのに対し、定型発達は「仲間内のノリ」を求める。どっちが正しいということはないが、上手く融和できる方法もなかなかない。基本的には、ひたすら寛容になるしかない気もする。ノリが分からなくても許してやれ。ルールを守らなくても許してやれ。そう考えると、非定型発達者は辛い。ノリが分からないのは重罪であっても本人が意識しているものでないが、ルールは本人にとって絶対的だから間違いに気づけないケースもある。たまーにいるだろう。友達がいなくて、こじれた本とか読んで周りを見下しているけど大して面白くないしそんな頭良くない奴。

 いづれにせよ、ネタがないがなんとか乗り切ったのは確かだ。よし! この調子でいこう(いいのか?)。最後に、今回の「文脈と内容と発達障害」について考えてほしいのは、どこかで不調和は生まれるということだ。実際はこんな単純な対立軸ではないものの、人と人の差異はやはり絶望的にでかい。かといって、許してあげようよ! で終わることも許されないだろう。僕が今まで接してきたあらゆる人間に対してむかつく点(あらゆる、だ)は、なんだかんだ自分と他人は似てると思い込んでることだ。自分が考えていることは他者も考えていると思っていたり、自分も出来ることは他者も出来ると。それなりに客観的な人でも、中々ここだけは抜け出せない。多分それは、他人を客観的に見れないこともあるだろうが、それよりも自分を絶対視できないことの方が大きい気がする。人と人は違うが、それ以上に考えるべきは自分は思ったよりユニークな存在であることだ。自分を相対化してしまうのは分かるが、もっと自分を絶対的存在と見ていいんじゃないか。「自分こそが!」と叫んでいいんじゃないか、自分はこれだけ個性的なのだから、他者とは違うに違いない。逆になんのとりえもないと思ってる奴程自分勝手なのだ。好き勝手に他者を同一化するか、理想化してしまうから。だから、もっと唯我独尊で構わない。「人間存在の始まり」は、思ったより単純な地点から始まる。

 

おわり! ノリか論理、両方大事にしてそもそものそもそもは運営していきます。