そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

この先色々あるだろうけど、選ぶのは一つ ただ知ることさえできない、さあ行こうこのままで 

 このブログを書いているときはやる気がないときだと思ってもらっていい。まとまった作品を書くときがないときに書いているからだ。今回はもっと酷く、やることがないため暇つぶしで書いている。暇つぶしと言えば、「人生は死ぬまでの暇つぶし」というニヒルな言葉があるが、これは対象aを考慮するならば本質を突いている。結局何をしても満たされず、どんな行動にも次の欲望が存在するから最終目的など存在しない。そういう意味ではなにもかもが死までの誤魔化し以上のものではなくなる。充足は永遠にやってこない、欠伸を噛み殺すことに腐心する。暇の対義語は多忙ではなく、死なのだ。死の対義語に生もあるとするならば、生=暇になることになる。ここでいう暇とは、「退屈」のニュアンスを抜いて考えて欲しい。あくまで「することがない状態」としての暇だ。やることがないから暇、ならば、やることがあるとはなんだろう。「やること」? はて。そんなものはあるのかねえ……

 以前、「どうしようもなく好きなもの、理由なく好きなものは逆転的に言えば自由を阻害する」と書いたことがある。なぜか好き、ということは意識的に嫌いになれない、自分の外に追い出せないと言うことであるのだから(恋愛小説とは、このメカニズムが根幹にある)。だが、その代わり「暇」ではなくなる。理由なく好きなものにその身を没すれば全ては解決するからだ。つまりは使命、ミッションがあるからだ。使命の元に、己の行動を決定させる。ある意味では麻薬的な幸福であり、最大限の拘束ともいえる。僕は逆に位置する。少し前の記事、世界と現実の差異、主体と人生における関係性と両者がナラティブを学修することで得られる永続性についてで書いたとおり盲目的になれないのだ。理由もなく好きになれないから、することがなくなる。「暇」なのだ。使命一切存在しない。この前の忘年会で、「私は書くのが好きなんじゃなくて文学の神が私に授けてくれる」と言っていた人がいたが、全く理解できなかった。何かをするときは「授かったり」しない。常に「立ち上がる」必要がある。自主性がなければ何も出来ないのだし、自主的な原理でしか動けない。だから生まれた意味も求めないし、満たされたりはしない。飢えていなければそもそも何かする気になれない。

まあでも、使命がある奴なんて稀だろうし、僕ほど使命がない奴もいないと思う。とはいえ、これは一つのきっかけを与えてくれた。使命を帯びていないものは、何かをするには、「立ち上がる」にはやはり「飢えて」なくてはならないのだろうか。三つ前の記事「若いころは~」では、若き馬鹿騒ぎから安定した家庭生活に入っていく人間のことを主題にしたが、安定することは「満たされる」ということなのだろうか。曖昧な表現になってしまっているが、結局のところ「不足」を感じなければ尖った人間にはなれないだろう、ということだ。不足するから、クリエイトする。足りないから、もがき続ける。じゃあなにが不足しているのか? 恐らくは、「幼児期の全能感」ではないかと僕は予測している。天才とは、病的にアンバランスだ。史上最高の数学者ノイマンの趣味は秘書のスカートめくりだったし、最大の論理言語学ウィトゲンシュタインは西部劇とミステリーがやたら好きだった。アメリカを代表する作家エドガーアランポーは19歳くらいのロリな奥さんの膝元でおままごともようにめそめそ泣いていたらしいし、なぜかどこかしら幼稚なのだ。

 僕はそこにヒントがあると思っている。これはかなり変な意見だが、「非言語的な世界への憧れ」こそが人間を突き動かすのではないかと思う。それは論理言語学や文章創作の領域においてもそうだ。説明できすぎてしまう表現がつまらないのは、非言語的世界に連れて行ってくれないからだ。僕は中二病を賛美しているが、その理由は一番「全能感コンプレックス」だからだ。子供の頃の満たされた時期は終わり、人間存在に悩む。悩みが最もつまらなく、かつ鮮烈な時期。だが大半の人間はその「飢え」にも慣れ、「安定」の世界へと入っていく(安定とは家族を持つこととイコールではない。い。一人挙げるなら、ボブ・ディランがいるだろう)。飢え続けるものだけがただ飢えていく(エヴァ旧劇場版の挿入歌「Komm Susser Tod ~甘き死よ、来たれ~」の『無へと帰ろう』と繰り返す箇所はあまりに悲痛だ)。それを少しでも補うには、言語のない世界にカムバックするしかない。全能感アゲイン、だ。前にも書いたが、どちらがいいというわけではない。自分が少しでも納得できるまでもがくしかない。

あなたは「飢え」たいだろううか?「満ち」たいだろうか? もちろんこれは飢え=不幸であったりはしないし、その逆でもない。ただ、二つは中々相容れない。僕は安定的な生き方の人とは仲良くなれない時が多い。話が退屈に思えるときが多いからだ。だが、それこそ安定の秘訣でもあるのだし、否定は出来ない。デンジャラスな会話をしていたら安定など無理だろうから。どんな生き方をすれば正解なのかは分からない。だから違う人生を羨む。他山の石だ。自分とは、自分の人生とは、あれほど選択肢があったのに結果的には一本しかない。生きて、生きて、つまづいて…… 僕はこの人生を選んだ。あなたはその人生を選んだ。なにがあっただろうか? なにもなかっただろうか? まだ人生は続く。なんで続くんだと思うときもあれば、無限に続けと思うときもある。風が吹き、雨は止む。だから、だから生きている。死ぬまで生き続ける。永遠にも思える有限の時間の中で思うのは、死が色濃く匂い立つ生の中で思うのは、そう思えることが自分にとって悪くないということだけだ。

 

おわり。