そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

自意識から宇宙へ抜け出よう!

今月は調子がいいからさらに書いてくよ!

 

意識と脳について、めざましい進歩があるようだ。それに対して「希望も喜びも脳のニューロンの活動で生じるものに過ぎないのか」と悲しむものもいる。神経科学者ラマチャンドランはこれを否定する。引用してみよう。

 

しかしそれは、誇りを傷つけるどころか、人間を高めるものだと私は思う。科学は私たちに、人類は宇宙で特権的な地位など占めていない、「世界を見つめる」非物質的な魂をもっているという観念は幻想にすぎないと告げている。(中略)自分は観察者などではなく、実は永遠に盛衰を繰り返す宇宙の事象の一部であるといったん悟れば、大きく解放される。また謙虚さも養われる。ーーこれは真の宗教的体験の本質である。

                       ラマチャンドラン「脳の中の幽霊」

 

なんと感動的な文章か。そうなのだ。私たちは世界に俯瞰的な印象がある。意識があり、それが観察を行い、内的世界で処理を続ける。だが現在の脳科学はそれを否定する。統一的な意識は存在しない。さらには、肉体と精神の分離もはねのける。精神が、意識が特権的な地位を占めるのは終いだ。あるのは、宇宙の営みの一部であるという事実のみだ。だからこそ、私たちは自由になれる。自意識に引きこもることも、それがゆえに孤独を感じる必要もない。宇宙の一部なのだから。これは宗教的な体験に属するだろうが、宗教的な思想ではない。自意識の中で一人で寂しそうにする「もう一人の私(ホムンクルス)」を神経科学が救ってくれたのだ。僕らは完全な自由意志で動いていない。それどころか、殆どは無意識の動きだという。驚くことに、人が行動する少し前には脳に特定の反応が出ることが分かった。つまり、「パンが欲しいと思った『瞬間に』私は手を伸ばしてパンをとった」のは嘘だ。思う前に脳が「動け」と命令して、指令を受理した手が取るのである。自分がパンが欲しいと思うのは、意識の中で矛盾が生じないための後付けだ。これも悲しいことではない。僕はこのことを聞いて心底ほっとした。だって、全て意識が行動を決定するなんて堅苦しいから。無意識がそれだけやってくれるなら、人生は思ったよりも適当なのだ。もちろん、無意識の責任を僕は引き受けなくてはならないが。

 自意識は特権を生む。なぜなら世界と切り離された存在となるから。孤島に一人住む王だ。これは精神的な話ではない。科学の進歩によってとうとう僕たちは「特権的で孤独な観察者」ではなくなったのだ。自意識は歪みやすい。世界と自意識の間には、社会がある。社会は特権者たる自意識を抑圧する。特権を剥ぎ取り、プライベートを失わせる(ハンナ•アーレントが「人間の条件」で語った「近代社会による私的領域の消失」とは、ここに依拠している可能性がある)。そして形式的なやりとりに身を没させる。自意識が特に強いものは不満を抱く。自分を社会に対して妥協させるのが不快なのは、自意識の特権性を損なうからだ。ハンナ•アーレントが言うように、確かに社会は消費的だ。人的資源として招集され、抑圧され、消費物だけを生み出して命尽きる。彼女は古代ローマに理想を求めた。ラマチャンドランはもっと飛躍して、宇宙の一部であることに解放を見いだした。どちらも現実的ではない。ラマチャンドランの方が正しいとは思うが、実用的でないことに変わりはない。でも、少なくとも自意識からは抜け出さないといけない。内的世界に留まり続けていると、単に悶々とするだけだ。僕は人間は永遠だと思う。だって宇宙の一部なのだから。死んでも、宇宙の運営には参加し続ける。なぜなら宇宙の一部としてこの地、地球に身を宿し生きていたのだから。保坂和志は「骨になってもわしはわしや」と言われ感動していた。そう、骨になっても、灰になっても自分は自分だ。宇宙は死んだ生物を排除する程器量が小さくない。僕たちは永続する。だから、「この世界の片隅に」というタイトルは大変本質的であり、美しい。僕らはこの世界に、宇宙に居続ける。どれだけ悩んでも、迷っても世界の片隅には必ず居場所がある。世界の運営に参加したのだから、死んでも僕らは片隅に居続ける。「この世界の片隅に」は、常に人には居場所があることを描いた。それこそが「永続的な希望」であり、本質的な解放なのだ。死と存在の消失は意味が異なる。だからこそ、「生きているのにいなくなる」ことも起きてしまう。本来誰でも備わっている生の、その実感が限りなく薄くなる。悲劇であるのは、引き起こすのは常に自意識であることだ。

 「自分が永遠であること」なんて、実感できないだろう。正直言うと僕もそうだ。でも、自己の特権性だけは剥ぎ取る必要がある。社会からではなく、自分の手で思いきり。そのために内的世界から出る必要がある。自己と、他者と、世界を並立させること。三項の内でヒエラルキーを発生させないこと。最近大事だと思うのはそこだ。自意識にばかり目を向けると、他者と世界が「他人事」になる。俯瞰して見つめることしか出来なくなる。違うのだ。自意識は二重の悪しき特性を持つ。俯瞰的であるが故に他者と世界から切り離される「悪しき客観性」と、それでいて、自己にのめり込むが故に無限循環的な内省に陥る「悪しき主観性」と。だから、自意識を消さなくては行けない。世界の中で生きていることを認識する客観性、は難しすぎる(無理だろ!)ので、世界と他者をもっと平等に観れる冷静さと、自己を抜いた上で自分の欲望と向き合って楽しみ続ける無邪気さとを。大事なのは感覚だ。どこまでも主観的な概念だが、感覚は「良き主観性」となりうる。自分の喜びをひたすら獲得する原動力となるから。それには、自意識は邪魔だ。感覚は自意識の安っぽい主観性とは全く異なる。良き感覚を得るために必要なのは「忘我」だ。外部にひたすらのめりこむこと。自分を限界まで排除して、外部と触れ合うこと。なんでもいい。表現でも会話でも仕事でもハンググライダーでも恋愛でも。自意識の内省とは、はっきり言って「つまらない」のだ。面白いものとは、常に外部にある。自意識は、最終的には自分すら客観化する。自己の中に意識が「あるという錯覚」を抱かせ、宇宙の一部である自己から内的世界へと移行する。だが、エモーショナルはいつだって肉体と連動している。自分の生物的な認知特性やそのときの気分に左右される。であるから、「面白い内省」などありえない。自己内省にエモーションが宿ることは一度もない。

 自意識が消えたら、自分はどうなるのか。簡単だ。宇宙の一部となって、自己が特権的なものから絶対的なものとなる。感覚は、いつだって絶対的だ。なぜなら共有も伝達も不可能だから。他者と世界は相対的だが、自分は絶対的なのだ。だからといって特権は付与されない。なぜなら、絶対性を保証する感覚がエモーションを得るには外部である他者と世界からなのであるから。絶対的であるがために、外部には却って謙虚に、慈しみが生まれる。僕たちは永続するが、感覚は生きてる限りだ。宇宙と比べれば、僕らの命はあまりに短い。なのだからこそ、もっと面白いことをしていこう。

 

終わり。大学の教授が卒業生へのコメントで「勉強は一生続くよ。死んだ後もね。」と言っていて、引用しようと思ったが冷静になるとイミフ過ぎてやめた。