そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

やり方さえ分かれば後は簡単さ!(嘘つけ)

堀江貴文が最近人気っぽい。本も売れてるようだし、セミナーも開いているようだ。僕は嫌いなのだが、本を読むのもめんどくさいのでAmazonのレビューを見ていたら面白いのを見つけた。

 

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1つの仕事に囚われず興味のままにあらゆるジャンルの仕事をかけ持つホリエモンらしい本です。彼はライブドア時代からポータルサイトのみならず中古車販売や証券会社まで進出していました。まさに多動力という言葉がピッタリ。

ひとつの肩書きだけではその他大勢の一人にしかなれないが、複数の異なるキャリアが掛け算となり、オンリーワンの人材になれる。まさにその通り。これからの時代、行動力と勇気が大切です。

そんなバリバリの行動力を持つホリエモンは素晴らしい一方、ホリエモンの弱点もよく分かりました。

失敗を恐れずとにかく行動に移したり、人に嫌われる事を恐れず何でも本音で発言するホリエモンは、人が受け取る印象への想像力がまったく欠如しています。

新幹線の中で「堀江さんの本を読んで感動しました」と声をかけられて「だから何?」と返してしまうホリエモンらしいエピソードがありますが、たとえそれは本音だとしても、そのような人が考えたサービスは果たして魅力的に映るでしょうか?彼は恐らく小さな事だと考えていますが、堀江ブランドは明らかに失墜します。

この本でホリエモンが引き合いに出しているスティーブ・ジョブズやゾゾタウンの前澤社長のプロダクトやサービスは人々を魅了してワクワクさせます。ビジネスモデルとして秀逸なのはもちろん、人を惹きつけるアート的な感性があるからだと思います。アップルもゾゾも、その製品やサービスはもちろん、企業そのものがアートです。

特にジョブスはその言葉一つ一つがまるで作品のように語り継がれています。一つ一つが聞き手が抱く印象を良く考えて発せられた言葉なのです。

家や別荘、車のような資産を持つ事を思考停止だと切り捨て、無駄な時間を極限まで切り詰めるホリエモンは合理的です。

ところが音楽や芸術などアートというものは、基本的には無駄で非合理なものであることは忘れてはいけないでしょう。アートは無駄だが、無駄であるが故に美しい。

前澤社長が世界的な現代アートのコレクターで、ジョブスは京都の庭園に熱心に足を運んでいたのは有名な話だと思います。

モノを持たずこだわりを持たないホリエモンは、こうした無駄や余白を楽しめるアートの部分が無いのだと思いました。

ホリエモンは既存のビジネスの無駄を排除し、焼き直して正しい方向に導く能力は高いのですが、消費者を魅了して共感させるような彼自身の代表作と言えるサービスやプロダクトが作れていないことが、ホリエモンが未だに批判される理由だと思います。

ダイレクトに言えば、単純に格好良くない。粋では無い。格好良く無いものは、やはり人に受け入れられない。ホリエモンが新しいサービスを始めるとしても、あまりワクワクしません。ホリエモンがプロデュースしたteriyakiや755もイマイチ不発の様ですが、なんとなくダサい、子供っぽい、イメージがついてしまっているのでは無いでしょうか。

 

 

「備蓄こめたろう」という人のレビューだ。すごい冷静だ。たしかに、堀江貴文が作るサービスはすごく面白くない。スタイリッシュさもなければ独創性もない。ただ、無駄を排除する能力はやはり特筆すべきものがあると思う。だからこそ彼のメソッドは鮮やかに浮かび上がる。

ただ、ジョブズがアートを愛していたのは分かるが、かといって「アートを愛していたからああなった」とは言い切れない。ぎゃくに、堀江貴文がアートを愛していればもっといいサービスを作れたか、と問われればそれもやはり分からない。人間は、結果に対する原因を簡単には算出できないのだ。では、実業家に限らず、「偉大なワーク」を成し遂げるにはどんなメソッドが正解となるのか。個人による、で封殺しても良い。だが、現実の問題として講演会や「成功者になる方法」的なワークショップはいくらでもある訳で、そう言ったフィールドで堀江貴文が成功おさめているのだし、それはそれでカリスマ性があって凄いなと思う(別方向で偉大でもある)。僕は「偉大なワーク」を収めたことはない。しょぼい成果物ばかりだ。そんな奴がメソッドを語ることに意味はないかもしれないが、まあ考えてみよう。

 前提だが、メソッドに決まりきった法則などもちろんない。唯一あるとするなら「努力している」くらいだろう。さすがに全く努力していないことはないから。じゃあ、何が共通項足りうるのか? 結局は「メソッドを独自に作る」ことでしかないだろう。メソッドををクリエイトできないものが、クリエイティブな結果を残せることはない。自前の理論を持たないものに、良き実践はありえない。そういうことなのだと思う。問題は、天才にもメソッドを言語化できるものと出来ないものがいることだ。出来るものは衆目を集めるカリスマ足り得るし、出来ないと不可思議な天才となる。もしくは堀江貴文のようにメソッドだけが洗練化されるケースもある(これはこれで間違っていない。正しいメソッドは作るしかないのだし、そもそも天才はメソッドも天才とは限らないのだから)。カリスマとは詐欺師的だ。「鮮やかさ」で人の目をくらます。つまるところ、演説とは意味内容の質ではなく「演技力」こそが重要なのだから。これは文章でもある。全く違う事物を鮮やかに接続されると、妙に魔術的に移る。ジジェクとか東浩紀とかがそうだ。冷静になれば二人とも「雑だが先見性は高い」って感じだと思うが、妄信的信者が多数いるのは流石だ。

 メソッドを学びたがる気持ちも分かる。天才の方法をまねれば、間違いはないと思うのかもしれない。だが、それこそが成功から遠ざかることでもあるし、なにより、自分の人生を他者に「委譲」してしまうことになる。もう少し自分のエモーションを信じていいんじゃないか。もちろん、そう言う僕も盲信しているものは一杯ある。アーティストとしての生き方はピカソが本物の理想だと思うし、信仰している。でも、生き方やメソッドを最後に決定するのはこれぞというエモーションだろう。自分が感じたままに生きるとは、シンプルで最も正しい。堀江貴文は無駄を切り捨て続けた。一方ジョブズは、一見すると無駄で非合理なアートを愛し「偉大なワーク」を収めた。だからといって「無駄なことをすると成功する」という帰結は起きない。ここから導きだされるのは、「無駄なことをしても偉大なワークは成しうる」ことである。だから、偉業とは思ったより楽観的なものなのかもしれない。無駄があってもいいのだ。現代言語学創始者ソシュールだって、完全に意味のわからないアナグラムの研究に二年かけた。努力が必要なのは確かだが、努力だけしていないと天才にはなりえないほど、人生は厳しくない。「偉大なワーク」は、案外と優しい。人生の持つ楽観性の本質はそこにある。無意義であるか有意義であるかはその場では決定しない。「過ぎ去ったとき初めて」、僕たちは行為の有効性を知る。その考えで行くなら結局は死ぬまで分からないのだ。小学生のとき鉛筆を拾ってあげたことが、病床で死を待つだけの自分を救うかもしれない。今何をすべきかなんて、そう簡単には分からない。どうすれば成功できるかも、つまるところ分からない。行動し続けることが絶対であるかも保証できない。そうなると、人生は悲観的な顔を見せる。何をしても、いい結果にならないかもしれないとも言えてしまうからだ。だが、それも無意味だ。結局のところは私たちに分かることは何もないのだから。だからこそ、僕はエモーションに正解を見いだす。感じたいことを、感じられそうなことをするしかないのだ。「涼宮ハルヒの憂鬱」のOP『冒険でしょでしょ』にある一節「感じるまま感じたことだけをするよ」は、頭を抱える程正しい。とまあ、「偉大なワーク」に結びつくかはともかく、感じたまま感じたことだけをするのが人によっては意外と「最上のメソッド」足りうるのかもしれない。

 

エンド!次回に続く!