そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

チクタク、チクタク……って擬音考えた人はセンスあるよね

時間だ。

さて僕は、名詞をただ言い切ったのか、もう切り上げ時という意味で言ったのか、どっちだろう。「ただの時間だ」とか「もう時間だ」とでも言えば用意に判別が付くが、これだけの情報では分からない。さてはなにおき、時間だ。最近、時間の経過がひどく痛ましく感じることがある。それは時間の経過に伴って自分が老化していくとか、色んなものが褪せていくとか、そんな意味じゃあない。もっと純粋に、時間の経過を思うとひどく悲痛になる。今日は22だが、「23日、26日、27、28、三月!」と心の中で口走ったら泣きそうになった。これにはそのとき情緒不安定気味だったのも大いにあろうが、誤摩化しのきかない感情であり、一つのメカニズムでないかとも思える。ふと、首を上げて虚空を見つめる。それは大変空しい瞬間だが、原因の一つに「時間が経過している」ということが関連しているのではなかろうか。「虚空」といったのは訳があり、この場合は首を上げて天井や空を見ているのではないからだ。それらよりもっと手前か、遥か奥か、もしくはどこにも焦点を当てないで呆然と「見る」。あまりに象徴的なワンカットだが、これと類する行為は行ったことがないひとも少ないだろう(だからこそ、「象徴」になりうるのだし)。どこでもないところを、呆然と見る。それは「呆然と見ている時間」であり、呆然としているから空間には意識が向いていない。ただ、それでも時間は経過しているから時間の存在だけが浮き彫りになる。もちろん時間と空間だけで全てを済ますつもりはないが、呆然とすることは、空間を消し時間を跋扈させる手続きなのかもしれない。ここで重要なのは、空間と違い時間は操作できないことだ。空間は好きにコーディネートできるが、時間はどこまでも一定だ(体感的なところでは変えようもあるが)。だから、時は「残酷」だったり「儚い」ものだったりする。ここでも本質を突くのはシェイクスピアだ。彼は二人の女の仲の良さをこう表現する。「内緒ごとはすべてあまさず打ち明けあい、姉妹の約束までむすび、なん時間もいっしょにすごしながら、それでもまだ足りず、別れを惜しんで、時の速さをぼやいたこと」仲の良さを「どれほどいてもまだ足りない」と言いながら、一緒の時間があまりに楽しいので一定のはずの時が「速くなる」。遊んでいたらもうこんな時間だ、などと表現するときはあるが、ここまでレトリカルに、かつシンプルに本質に迫るシェイクスピアはやはり化けもんだ。シェイクスピアからの引用はどこか物悲しさがあるが、時間と感傷性は密接な関係がある。なぜなら、感傷とは振り返るものだから。過去と比した現在の無力を。失い、今は傷となったそれを見つめること。もちろん、アメリカ文学ひいてはフォークナー「八月の光」のように空間の移動が感傷性を誘発するものもある。だとしても時間の要素は抜けない。結局は過去いた地点からの連続性から成立するのだから。

 僕は感傷性が好きだ。なんでかと言われると難しいが、今考えると僕は時間が好きだからという可能性がある。非常に時間的な音楽が映像よりずっと好みだし、描写的な小説より文脈的な小説が好きだ。オーケストラよりもピアノソロ。グルーヴの黒人音楽よりかはメロディアスなロック。という訳である。メロディは時間の連続性から成り立つから、感傷性とマッチする。ペイヴメントの「アンド•キャロット•ロープ」のアウトロは、メロディのみならず今までの展開に支えられているからあそこまで突き刺さる。

 時間だ。時間は今も経っているのだ。のんびりとはしていられない。かといって何をすればいいだろう? それも時間が教えてくれるだろう。時間を支払い、時間を嘆き、時間だけが過ぎ、時間と共に死ぬ。だから生は儚い。そして、ゆえに価値がある。時間も死も存在しなかったら、生は無限に引き延ばされていく。人間は不滅だと僕は信じているが、死は存在する。そうであるから、不滅であることにも意味がある。本当に、物理的な死がなかったら不滅もただの単語になる。我々は「消え行く者」であるから、思考を余儀なくされる。後回しに出来ることは何一つない、せかせかした生活になる。時間が過ぎ行くのを虚しく見つめる一観測者になってしまうときもある。時間は消え、肉体も消え無時間へと移行するときがいつか来る。だからせめて、時間の中で自由に歩き、限られた時間の中で懸命にやりくりし、時間と共に笑いたいのだ。

 

終わり。新境地……な気もするがそうでもないんだろうか。ご意見待ってます。