そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

考えるほど暇ならモンストでもしよう!

ああでも、それでも、だけれども、でもでも、しかしても! という訳だ。調子はどうだろうか。僕はやたら眠い。仕事から帰ってきて三時間くらい寝て、日が変わるくらいにまた寝る。これではなんもやりようがない。ひどい一日の循環だ。こういう人がいるから糖質を抜けばやる気があがる! 的なキャッチコピーが流行るんだろう。実際は食生活だけで全て変わるわけないのであるが。変わりたい、変われる、変われた。変わる、とは何だろう。変わっても、自分は自分でいられるだろうか。自己の存続とはなにを意味するのか。俺の友達は、「人は変われない」と言っていた。あくまで自分に対する解釈を変えているだけで、自分自身が変容することはあり得ない、と。確かにそう思う。変わったという人は、大体短所を長所に裏返しているだけなのだろう。衝動性が高い人は、なにか他の作業で発散することで偉大な業績を残せる可能性がある。社会的に役に立たない人は、社会に対して疑義をかけることができる。水タイプは草タイプにやられっぱなしだが、だったら炎タイプにぶつければ良い(れいとうビームをサブウェポンで持っている場合はその限りではないが)。結局、何も変わらない。自分という存在は、中学生くらいまでで完璧に成形されてしまうのだろう。そこからは、解釈で裏返していくしかない。
 10代半ばを超えたら人は変わらない。だが、人は解釈を変えることが本質的な変容であるともいえるだろう。世界は変わらなくとも、見え方が変わったらそれは違う世界だ。度々口にしている、論理と実感の問題だ。人は変われないが、解釈を変えれば「変わった」ように「実感することが」できるのだ。現実は糞ゲーか? と問われれば、「人による」としかいえないだろう。だからこそ、見える景色によって現実も自己も如何様に変容「したように見える」のだし、結局変わっていないとしても現に生きている僕にとっては問題ない。なぜなら、「世界のありよう」が問題なのでなく、「世界の見え方」が自分にとっては全てなのだから。それは虚しく、無力でもある。だからどうしようもない現実に打ちのめされることもある。ただ怨嗟の声を上げるしかない状況もある。逆にいえば、そのどうしようもなさを「とんち」で打ち破ることが出来るのも人間の凄さなのだ。箱庭の価値は、あなたが決めるのだから。
 しかしだからといって全てを内的問題に収束させるのもどうなの? とは思う。真逆のことを言っているようだが、世界があり、それを見るあなたがいて、世界の価値を決めるにせよ、世界の善し悪しが見え方だけで決まる訳ではない。俺の描いた絵の方がピカソより好き! と言ってくれる人は世界中探せば恐らくいるだろう。しかし、ピカソの方が好きな人の方が圧倒的に多いのも事実なのだ。もちろん、好きな人の多い少ないだけで表現の客観的価値を決める気はないが(商業的すぎるよね)、価値を決定するのは自己と事物の両面なのだ。ゆえに、自罰的になりすぎるのも良くないと思う。現代は自分なりの自己実現が重視されるため、自己が満ち足りないと「僕のせい」と陥りやすい。自己啓発だって常に自己の向上だ。でも「世界が悪い」と言う権利だってある。「今不幸なのはあなたがそう感じているからだ」というのは事実だし、不幸な現実を打開するには行動していく必要があるが、自分の価値観だけで全てを決定させるのは盲目的すぎる。現実に対して自分の見方だけを変え続けて改善していくのは妥協とも言える。どうしようもない事実が立ち塞がるとき、いいようのない無力感に押し潰されるとき、呪詛を上げて何が悪いのか。そこで責任を自己に押し付けるのは、正に現実逃避だ。世界の理不尽を知ることで、己の無力を噛みしめることで、見えてくる「世界」もある。独りであることの小ささを知るからこそ、世界の一部であることに気づけるのではないか。自己責任で生き、主体の価値観と世界の価値観を等しくすると、自己と世界が同一化し、限りなく自己領域は拡大する。それを否定する気はないが、僕はちっぽけであることを認識して、世界との繋がりを見出だしたいのだ。僕は自分の人生を生きているが、同時に他者の人生の中にもいて、社会運営に参画し、自然のサイクルの内側にもいることを自覚したい。
 ひとまずは語った。さて、こういった世界の価値を決定する基準の差はどこからくるのだろうか。恐らく、自己の豊かさだ。非常に曖昧なことを言ったが、ざっくり言えば自分への執着心である(いつかこれは詳しく書きたい)。自らに興味を抱けるなら豊かだし、そうでないなら貧しい。執着があると主観が前面に出るゆえ、極端に自罰的か他罰的になる(自己嫌悪者は自罰的、ナルシストは他罰的)。自己嫌悪がナルシシズムの裏返しなのは、結局自己への執着がどっちに振れるかということでしかない。ネットの真上に乗ったテニスボールのようなものだ。一方、執着がない人はこの考えが否定形で表現される。肯定する気はないが自己を否定する意味もまたないと思うか、自分にこだわりがないからそもそも自分でいたくないかどっちかになる。ちなみに僕は前者で母が後者なのだが、母に「今と変わりたい?」と聞いたら「全く違うものになりたい」と言っていた。こええよ。自己に対して消極的な態度しかとらないから、結果的に自己が矮小化して空虚さが増す。その分相対的に物事が見えるため、冷静ではある。「自分にはなにもない」とは思わないが(それはむしろ執着がある人の考えだ)、そもそも自分が「いないように見える」ため、ただただ空洞化が進行する。ゆえに空っぽであり、貧しい。執着心が強い場合はその逆だ。積極的に自己に意識を向けるため、肥大化される。自分は確かに存在しているが、結局自分自身を理解することは敵わないためナイーブで神経質になりやすい。そのためがんじがらめになるが、資源は豊富だ。面白いのは、これも自己と世界の関係性の上での裏返しということだ。だから、自分が世界とどのように繋がっているか気にならない人は、この基準にそもそもあてはまらない。印象派的な輪郭の曖昧さをもって、自己と世界がぼやっと存在するだけだ。逆に言えば、そんなカオスな状態でも耐えられるほど鈍感であり、強い人でもある。考える人は考えない人をバカにするが、それは「そんなどうでもいいことを考えざるを得ないほど弱い」から考えているだけだ。そんなことよりお金を稼いで美味しいご飯を食べよう。僕の生活の理想は「死ぬほどだらだらして、暇になったら適当にスマホいじって眠くなったら寝る」なのだが、こういう人が一番タフだから理想なのだ。
 考える者は常に弱い。だから哲学者は自殺する。でもだからといって考えない訳にもいかない。よくわからないそれを、少しでも見えるようにするためには。自らを縛りつけるものを、愛するようになるためには。僕の友人は言った。「悩みがあることは幸せだ」と。なんと感動的な台詞かと思った。わからないから、苦しいから悩む。幸せを乞い願い、得られない。だがそれだけ渇望できるのは悩むからだ。幸せを考えるから、幸せを感じられるのだ。考えないものに、幸せはやってこない。なぜなら、幸せを知らないから。概念を獲得するのは無駄ではない。論理と実感は違う尺度を持つが、思考しなければたどり着けない実感もある。先鋭化された思考の果ては、いつだって目の覚めるような瞬間なのだ。
まあ、それでも考えた方がいいとは限らない。どのみちそれは、あなたが決めることだろう。僕は魅入られるときもあれば、頭を空っぽにしたいときもある。何を選べばいいかは分からない。何が見えているかも分からない。ただ、分からない世界はひどく瑞々しい。前に空虚が美しいと言ったが、虚ろな空間には先入観がないから既存の概念で染めることがない。概念がなければ分からない実感はあるが、概念を抜かなければ見えない世界もある。ゆえに空虚は瑞々しく、美しい。形容できないから、ただそれを受け取ればいい。となると音楽の美しさは、そこにあるんじゃなかろうか? 美しいメロディは、意味があるように思わせると同時に、意味を越える。言葉の持つ意味がちっぽけに思えるほど、強烈なイメージを抱かせる。そしてその「強烈さ」とは、つまるところ「なにもない」ことじゃなかろうか。既存の概念を粉々に打ち砕いたとき、意味は失われ、空っぽなものが立ち上がる。僕らは感動を言葉にするしようもない動物だが、それでも「本当は言葉にしたらすべてが失われる」ことも知ってはいるのだ。なぜなら、言葉が失われる体験こそが感動であるのだから。ゆえに、音楽を分析するとき意味で考えてもしょうがない。メロディにもリズムにも意味はありはしないのだから。
 意味の破壊が表現の魅力だとしても、現実に生きる人間は意味を持った方がいい。人間は意味が分からないものを恐れる。考えるのも意味付けするためだ。僕は意味付けの機能が低い。病的な表現を使うなら、現実はバラバラに見える。それは論理的には正しい。現実はまとまりをもたないのだから。だが、生きる上では不便極まりない。常に狂った世界で生活するはめになってしまう。だから、哲学とはサバイブの手段なのだ。ルールを見つけることで、まとまりを持たせていく。ときにはこの文章のように、空虚すら構造化する。だから結局、僕が脳死してスマホゲームに熱狂する日々は遠いのだ。ああ今日も、ピアノの響きが聞こえる‥‥

 

 

 

終わり。最後オチなしのギャグにしてみた。