そもそものそもそも

いつまで続けられるだろうねえ

罪を感じるなら散歩に行こう

初めて、五月病にかかった。ゴールデンウィークが明けたら、猛烈な倦怠感に襲われた。早起きも出来ず惰眠を貪る日々であったが、ようやく脱しつつあるのでブログでも書くことにした。リハビリだね! それにしても時間とは残酷なものである、最近誕生日を迎えて僕は26歳になってしまった。後4年で20代も終わり! 面白い! とまあ、ぼちぼちやって行こうと思う。焦ることに意味はない。起きた事実が全てなのだから。

 そう、起きた事実が全てなのだ。怠けながらも、このことについて少し考えていた。状況や行動に対する自分の認識とは何だろう。「こういう状況に対してこう感じている」ことに、意味はあるのだろうか。例えば罪悪感。当然だが、罪の意識が外部に及ぼす影響は些少もない。ただ自分の内部で葛藤が反芻されるに終わる。罪悪感の問題点は、罪を意識していること自体がある種自己擁護的なことだ。「自分は罪を感じているぞ」と思うことで、行動していない事実への弁護になり、ずるずると苦悩に引き込まれる自分への許諾になる。このことは罪悪感が「罪悪」を隠蔽してしまうことを示している。悪口を言って後悔したら、まず「他者へ向かって」謝らなければならないのだ。僕は後悔しないから謝らないが。

 そういう意味では内面的な苦悩とは随分厄介なものだ。苦悩と言う「内面的な行動」が 実際的な「外部に対するアクション」を阻害する可能性があるのだ。もちろん逆もある。悩みを昇華させて一つのことに打ち込み、高い業績を上げた人は沢山いる。じゃあ、苦悩とは、「思う」こととは、一体なんだろう。神経科学の領域では、我々は自分の意志で行動していないことが分かっている。朝ご飯でジャムではなくハチミツをかけたときも、帰り道に寄り道したときも、自分の意志ではない。気まぐれとは、ほんとの意味で「まぐれ」なのだ。脳は自己意志と違い合議制である。さまざまな活動領域が意見を出し合い、行動を決定する。その決断を意識は受け取り、「自分がこう思って決めた!」と「滑稽な後付け」を始める。だから、そもそも内面的な意識と実際的な行動はなんの結びつきもないと言える。苦悩に意味はないが、苦悩しないことにも意味はない。どちらにせよやるときはやるし、やらないときはやらない。だが、意識には役割がある。自分が今からやることは管轄外だが、これからの「方針決定」を意識は受け持つのだ。組織で言うと、意識は実作業者ではなく経営者なのだ。小さいときからピアノを続けていて、それを大人になっても続けるか。決定するのは意識だ。無意識下で活動する脳はあくまで習慣化され、プログラミングされた行動しか出来ない。ピアノでいえば、弾き慣れた曲のときは何も「意識」せず軽やかにプレイできるが、特訓中は「こうやって弾けば上手く行く」と「意識的に」考える。そして練習を重ねて上達すると、あとは「無意識」で指が動く。意識がやるべきは、優れた「プログラム」を作れるように「方針決定」することなのだ。だから、「考える前に手を動かせ」「ただ行動し続けろ」はある意味間違っている。目標を決めてから行動しなければ動けないものだから。無意識で出来ることはあまりに当たり前であるため、彼らは「なんでこんなことでいちいち考えるんだ」と思ってしまうのだ。かといって、ずっと苦悩し続けてもしょうがない。重要なのは、意識は目標設定のためにあることだ。哲学や小説ですら、「考えて」やるものではない。ひたすら文章を反復的に書いて自動化するものだ。自動化に必要なのは反復である。僕らが決めるべきは、反復できる環境づくりだ。どうやったら続けられるか、モチベーションの維持は、金は持つか、等々。とはいえ、これは一芸を持ちたい人の生き方だ。もっとふざけた生き方をしたかったらそれでもいいだろうし、楽しかろう。

 最後に立ち返る。罪悪感に意味はあるのか? 意識の役割に準ずるなら、あるときもないときもある、としか言えない。ただ、罪悪感とは持ちたくて持つ訳ではないときが多い。もし苦しんでいるなら、楽しいことを楽しめないなら、ひたすらゆっくりしよう。有意義な目標設定とは、大抵精神的余裕があるときにできるものだ。特に漠然とした罪悪感の場合(例えば「原罪的」な発想)は、それについて考える前に休息する必要がある。怠けていいのだ。辛い状況とはそれだけで「頑張っている」のだから。そしてようやく安心を得られたとき、初めて「自らのその先」が見えてくるのだ。